121 / 124
最終章
第3話〜約束〜
しおりを挟む白い壁に囲まれたアルコールの匂いが充満する無機質な空間。もう二度とこんな重苦しい気持ちでここへやって来ることは無いと思っていた。
数か月前、まんまとジャックにはめられた俺は芳野が危篤状態にあると聞き、居てもたっても居られずすぐさま芳野の元へと向かった。気が動転していたとはいえ、ベッドに横たわるあいつをもう既に死んでしまったものと勘違いし、この二十年間あいつに関わろうとしなかったのを酷く後悔したのを今でもよく覚えている。
場所は違えど、今もまた芳野の安否を気遣いながら病院にいる。詳細を知らされないまま行ったあの時とは違い、今回は俺の目の前で起こった分、以前より気持ちの沈み方が違う。何度拭っても握りしめた掌にはすぐにじんわりと汗が噴き出し、その事が今の俺の心情を露わにしていた。
バタバタと駆け回る医療従事者に、ガーガーと無線の音を廊下に響かせる濃紺の制服姿の男達。この異様な風景は、誰が見ても何かあったのだと予感させられるものであった。
ふと、俯いていた俺の視界に誰かの靴が映り込む。顔を上げると、スマホを胸元で握りしめた央が自責の念に駆られた表情で立っていた。
「連絡はついたのか?」
央は小さく頷くだけだった。
長椅子に座る俺の隣に腰を落とし、そのまましばらく無言の時が流れる。酷く怯えた様子の央に大丈夫だと声をかけてやりたかったが、何の根拠もないまま薄っぺらい励ましをするのはかえって酷と言うもの。自爆テロが不発に終わったあの時の様に、運があいつに味方するのをただ祈る事しか出来なかった。
――無力だ。
如何に自分が無力な存在であるかと実感する。俺はあの時、自分の目の前で起ころうとしている惨事を止める事が出来なかったばかりか、今もなお誰かの力になってやる事すら出来ない。固く冷たい長椅子に座り、ただ願う事しか出来なかった。
芳野と別離れてからと言うもの、どれだけ富と名声を手に入れても充足感だけは得る事が出来なかった。だが、そんな干乾びた心は二十年後、あいつと再会した事により徐々に再生を始めた。
水たまりに落ちたハンカチが、ぐんぐん水分を吸収しようとしているかの様に心が潤っていく。そんな自身の急激な心の変化に困惑しつつも、この疑似家族がいつの間にか荒んだ俺の心を穏やかにしていた。
自分の事は後回しにし、いつも他人の事ばかり気にかけてしまう性分の芳野。あいつが幸せだと実感することができるのならば、俺は何でも与えてやるつもりでいた。
――だが、実際はどうだ?
桑山と芳野の関係に嫉妬した俺は、自分の感情のコントロールが出来ずに暴走し、結果的に更に芳野の心は俺から遠ざかってしまった。もうこの時点で、俺があいつを幸せにしてやれる資格などもう無い。いや、そもそも“幸せにしてやる”だなんて思うこと自体、きっとあいつにとっちゃ大きなお世話なのだろう。
芳野に拒絶されたあの日。自分があいつを幸せにしてやるだなんておこがましい思いを抱いていた事を恥じた俺は、己の内にある欲望を無理に仕舞い込んだ。
「それ、本当か? 間違いないな?」
もう一度問い質すと、央は俯きながら小さく首を縦に振った。
「あの人、本当は私を刺そうとしてたのに、私を庇った所為で歩ちゃんが……」
犯人の顔に見覚えがあった俺は、央からあの男は誰だったかを聞かされ愕然とした。
「どうりで……見覚えがあると思ったわけだ」
央が家出中に働いていたクラブで、央に馬乗りになっていたあの男。岡本という奴が芳野を刺した犯人なのだと央が言う。その事実を知った途端、身体中からサーッと血の気が引いていくのがわかった。
俺が首を突っ込まなければ、あの男は芳野を刺さなかったのかもしれない。俺が芳野に近づかなければ桑山が芳野への想いを打ち明ける事もなく、央も家を飛び出す事も無かっただろうから。
「くそっ!」
己の詰めの甘さに虫唾が走る。目先の事ばかりに気を取られ、疑う事すらしなかった。
これじゃあ、二十年前に芳野と別離れる事を選択した時とまるで変わらない。別離れさえすれば芳野が幸せになれるのだと俺は思い込み、あいつとの事はもう終った事なのだと結論付けた、あの時と。俺が芳野の事を忘れてしまっていた時でも、あいつは俺の父親の言いつけ通り、ずっと俺と関わってはいけないのだという呪縛に縛られ苦しんでいたというのに、俺はそんな事も知らずのうのうと生きて来たのだ。
芳野と央が俺の目の届く場所に居て、会いたい時にいつでも会えるそんな今の環境が俺を盲目にさせた。
俺が本気になればなるほど、相手に危害が加えられる。そんな男に誰がその身を委ねようとするだろうか。
「……そう言う事か」
何となく、芳野に一線を引かれていると感じていた意味がわかり、悲しみと同時にどこか安心してしまっている自分がいた。
芳野がここへ運び込まれてから、どれくらいの時間が経っただろう。血で染まった袖口を捲りあげて時間を確認しようとしたその時、央を呼ぶ野太い男の声が廊下に響き渡った。
「央っ!」
「……っ、く、桑山さ」
央を見つけてホッとした様なそれでいて心配している様な表情を浮かべ、わき目も振らず央に駆け寄る。両肩を掴み、身体を前後に揺さぶりながら何があったのかと問い詰めるも央の口から多くを語られることはなく、自然と桑山の照準は隣に座る俺へと移った。
「あんたっ! どういう事なんだ一体!」
ゆっくりと立ち上がり、凄味を利かせる桑山に目を向けた。
「何で歩が刺されなきゃなんねぇんだよ!」
「……」
「あんたっていう男は、あいつの心を傷つけるだけじゃ足りねぇのかっ? ああ!? 何度歩を傷つければ気が済む? あいつは、――あんたみたいに強くないんだよ!」
「――っ、……申し訳ありません。全部自分の責任です」
いまにも殴り掛かりそうな勢いの相手に向かって頭を下げるのはかなり勇気がいる。それでも今、頭を下げないわけにはいかなかった。
「あんたこの前、『俺が守る』って俺に啖呵切ったよな?」
「……」
「――っ、全然守れてねぇだろが! ハッタリかましてんじゃねぇぞ!!」
頭を下げている俺の胸ぐらを掴み上げ、間合いを詰めた。されるがままになっている俺を心配してか、いきり立つ桑山の腕に央が縋り付く。「小田桐さんは悪くない、全部自分の所為だ」と言い張る央を黙らせるのには、なかなか骨が折れた。
「犯人は、――あの岡本って男とは少し前にある事でトラブった事があって、かなり俺を恨んでいた。多分、俺自身を狙うよりももっとダメージを与えたくて、……俺が大切にしている人間を傷つけようと。だから芳野を――」
「お前……さらっと、んな事言いやがって……!」
頬に痛烈な痛みを感じた時には、俺の身体は冷たい床の上に横たわっていた。
央が泣き叫び、両手を広げて俺と桑山との間に立ちはだかる。小刻みに震えるその華奢な背中を見つめながら、こんな時でも女子供に守られている自分にほとほと嫌気がさした。
「央、どけ!」
「嫌!」
騒動に気付いた警察官たちが駆け寄る。屈強な男たちに羽交い絞めされる育ての親と、受け身を取ることなく床に倒れ込んだ実の親の姿は、きっと央にとって目を背けたくなる光景だろう。自分がしたことで母親が刺され、家族が崩壊するのではないかとでも思っているに違いない。
大丈夫、そんなことにはならない。
そう言ってやれない自分がまた、無力である事を痛感させられた。
◇◆◇
数時間後、芳野の容態が安定したとの連絡を受け、許可を貰って治療室の中へと入った。ベッドに横たわる芳野の横で看護師が脈をとっている。看護師の質問に答えていた芳野は俺が居る事に気付くと、急に早口で答えだした。
腕を組みながらドアにもたれ、その様子をじっと見守る。全ての質問に答えた芳野は、看護師が去った後すぐに俺を呼びつけた。
決して元気そうには見えなかったが、俺に心配かけさせまいと必死で笑顔を取り繕う。その笑顔が余計に俺の心を深く抉った。
「痛むか?」
「ううん、今は薬が効いてるから。……それより」
「?」
「小田桐、……大丈夫?」
きっと、思っていた事が顔に出てしまっていたのだろう。傍に来た俺の顔を下から覗き込みながら、芳野はそう言った。
「……っ、何でお前がそんな事言うんだよ。普通逆だろ」
「だって」
「あんたの方が辛そうな顔してるもの」と、芳野は心配そうな表情を浮かべながらそう言った。
参ったな、いつもならポーカーフェイスはお手の物だってのに、ここ一番って時にそれを発揮できなくてどうするんだ。
「本当に、……済まなかった」
俺が深く頭を下げると、「あんたの所為じゃないから」と芳野はまた明るく笑って見せた。
どうやら、犯人の男の事もどこでどうやって知り合ったのかという事も全部、既に央から聞いた後らしい。せっかく、ここまで二人だけの秘密にしてきたってのに、まさかこんな事でバレてしまうとはな。
「いや、央は何も悪くない。俺の所為だ」
あの男から恨みを買う事になるなんて事は、冷静に考えれば予想がついて当然だった。実際、頭の片隅にあったのにも関わらず俺はその事に目を瞑り、自分の私利私欲を優先してあのまま二人をあそこに住まわせたのだ。
「俺の考えが甘かった。ちゃんと最後まで責任は取らせてもらう」
「もういいよ、そんなの。それより座ったら?」
ベッドの横に置いてある椅子に目を向け、そこへ座れと誘導した。
「いや、……会社に戻る。仕事があるんだ」
わざとらしく袖口を捲って時計を確認する振りをする。そろそろ今日という日を終えようとしている時間だ。明日やれることは明日するという性分な俺に、こんな夜遅くに会社に戻ってまでやらなければならない仕事など勿論ない。それでも、ここに長居出来る程無感情な人間にはなれず、「じゃあ、俺はこれで」と言って病室を出ようとした。
「……?」
ぐんと腕が引っ張られる感覚にその足を止める。振り返ると、心配そうに眉尻を下げた芳野が俺の袖口を握りしめていた。
何本ものチューブに繋がれた姿が痛々しい。俺はそんなあいつを直視する事が出来ず、視線を逸らした。
「また、来るよね?」
あんな怖い思いをしたんだ、一人にされるのはやはり不安になるのだろう。
「――っ、……ああ」
これは特別な感情から来るものではない、過度な期待をしてしまわないようにと自分に言い聞かせながらそう答えると、袖口にかかっていた指がそろりと解かれた。
シーツをぎゅっと握りしめ、どうしても不安から逃れられない様子の芳野。ほんの僅かでも癒すことが出来るのならばと、俺は芳野の頭にゆっくりと手を伸ばした。
「……。――?」
「ずっと傍に居る。……もう、離れないから」
「……うん」
少しは気持ちが落ち着いたのか、芳野の表情が随分和らいだ様に感じる。まるで小さな子供を寝かしつける様に何度も頭を撫でつけてやると、どうやら薬が効いて来たのか、芳野はゆっくりとその瞼を閉じた。
0
お気に入りに追加
105
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
女性執事は公爵に一夜の思い出を希う
石里 唯
恋愛
ある日の深夜、フォンド公爵家で女性でありながら執事を務めるアマリーは、涙を堪えながら10年以上暮らした屋敷から出ていこうとしていた。
けれども、たどり着いた出口には立ち塞がるように佇む人影があった。
それは、アマリーが逃げ出したかった相手、フォンド公爵リチャードその人だった。
本編4話、結婚式編10話です。
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
憧れのあなたとの再会は私の運命を変えました~ハッピーウェディングは御曹司との偽装恋愛から始まる~
けいこ
恋愛
15歳のまだ子どもだった私を励まし続けてくれた家庭教師の「千隼先生」。
私は密かに先生に「憧れ」ていた。
でもこれは、恋心じゃなくただの「憧れ」。
そう思って生きてきたのに、10年の月日が過ぎ去って25歳になった私は、再び「千隼先生」に出会ってしまった。
久しぶりに会った先生は、男性なのにとんでもなく美しい顔立ちで、ありえない程の大人の魅力と色気をまとってた。
まるで人気モデルのような文句のつけようもないスタイルで、その姿は周りを魅了して止まない。
しかも、高級ホテルなどを世界展開する日本有数の大企業「晴月グループ」の御曹司だったなんて…
ウエディングプランナーとして働く私と、一緒に仕事をしている仲間達との関係、そして、家族の絆…
様々な人間関係の中で進んでいく新しい展開は、毎日何が起こってるのかわからないくらい目まぐるしくて。
『僕達の再会は…本当の奇跡だ。里桜ちゃんとの出会いを僕は大切にしたいと思ってる』
「憧れ」のままの存在だったはずの先生との再会。
気づけば「千隼先生」に偽装恋愛の相手を頼まれて…
ねえ、この出会いに何か意味はあるの?
本当に…「奇跡」なの?
それとも…
晴月グループ
LUNA BLUホテル東京ベイ 経営企画部長
晴月 千隼(はづき ちはや) 30歳
×
LUNA BLUホテル東京ベイ
ウエディングプランナー
優木 里桜(ゆうき りお) 25歳
うららかな春の到来と共に、今、2人の止まった時間がキラキラと鮮やかに動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる