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第二部 第1章 時を経て再び出会う
第6話〜先行投資〜
しおりを挟む自動ドアを潜り抜け、足を一歩踏み入れるとそこは予想以上に多くの人で賑わっていた。
まさにホテルのロビーかと見紛うほど広々としたフロアー。ピカピカに磨き上げられた床は歩くたびにコツンコツンといい音を奏で、フロアーの隅には見るからに座り心地の良さそうな光沢のあるソファーがいくつも点在している。それは誰が座ってもいいのだとばかりに配置されてはいるものの、庶民の私には座るのにも躊躇してしまいそうないかにも高級品と思われるものに見えた。
久しくこういった場に足を踏み入れる事が無かったせいか、この異質な空間に上手く溶け込むことが出来ない。変な緊張感でごくりと喉を鳴らした。
少し歩くと受付らしきブースを見つけた。そこには若くて綺麗な女性が二人、無駄口を叩くわけでもなくただ静かに座っている。どうにも勝手がわからず、とりあえずそこで聞けばどうにかなるのではと一直線に向かった。
近づく気配に気付いたのか、一人の女性が顔を上げるとその場で立ち上がる。笑顔を見せゆっくりと頭を下げると「いらっしゃいませ」と品のある声音でそう言った。
「あの、小田桐さんに会いたいんですが」
「――“オダギリ”、でしょうか?」
その女性は大きな目を丸くすると、僅かに首を傾げた。
「恐れ入りますが、“オダギリ”と言うのは部署はどちらになりますか?」
「部署……」
ここの社長なんだから小田桐と言えば通じると思っていたが、どうやら他にも小田桐さんは存在するのだろうか。これだけ大きな会社なのだから、社長と同じ名前の社員が居てもおかしくないとは思うが。
しかし、社長が所属する部署って一体何部になるのだろう。会社勤めをしたことが無い私は全くピンとこなかった。
「……、――! あの、トレス……。ブランドン・トレスって言えばわかりますか?」
その名前を出した途端、先ほどまでは好意的に見えたその女性の態度が一瞬で変わった。女性の顔から笑顔が無くなり、わずかながらに眉根を寄せているのがわかる。チラリと下ろした視線は完全に私の身なりを確めている様子だった。
「失礼ですがアポイントは?」
「いえ。ちょっと借りていたものを返したいだけなんです。芳野が来たとお伝え頂けませんか」
「少々お待ちくださいませ」
最後にまた笑顔を見せたその女性にソファーで座って待つようにと言われた後、彼女は何処かへ電話をかけ始めた。
促されるがままにソファーへと向かったものの、やはりここに座るのにはほんの少し勇気がいる。一応恥ずかしくない恰好をしてきたつもりではあったが、先ほどの女性の態度からして私がこのソファーに座れば浮いてしまうのではないかと思ってしまう。普段は無駄口を叩かないであろう二人が、ソファーに座る私を見てヒソヒソと笑いあっている姿をつい想像してしまい、結局そこに座る事を諦めてしまった。
たかがソファーに座るだけだと言うのに、私は一体どれだけ引け目を感じているのだろう。馬鹿馬鹿しい、早くこんなところからさっさと引き上げよう。そう思った時だった。
奥の方がざわついた感じがしてそこへ目を向けると、外国人を含めた五、六人の集団が何やら話をしながらフロアを横切っていた。その中でも一番背の高い外国人の男性は自分の隣を歩いている人に対し、大きな身体を使って必死に話しかけているような感じに見える。流石は外資系とだけあってここで働く人は皆英語がペラペラなんだろうな、と何気なくその集団をボーっと眺めていた。
「――。……あっ!」
その背の高い外国人の隣を歩いているのは、まさしくあの小田桐だった。両手をポケットに突っ込み、つまらなさそうな顔つきでうんうんと頷いている。必死で話しかけている外国人には目もくれず、真っ直ぐ前を見ながら歩いていた。
――どうしよう、声を掛けなければ。
小田桐に会いに来たと言うのに、周りの雰囲気に圧倒されてしまったのか全く足が動かなかった。
今自分が立っている位置では、前だけを見ている小田桐の視界に私は全く入らない。多分、ここから声を掛けてもロビーの雑踏と隣でがんがんしゃべり続けている外国人の所為で、彼の耳に私の声は恐らく届くことは無いだろう。
手にしたバッグをギュッと握りしめ、今は小田桐の姿を目で追うしか出来なかった。
ふと、何となく視線を感じて受付の方に顔を向けると、先ほどの女性が訝しげな顔で小田桐と私を何度も交互に見つめている。これはまずい。小田桐とは知り合いですって言い方をしたくせに、声を掛ける事すら出来ないのかときっと疑われているんじゃないだろうか。そうすると、このチャンスを逃せばもう取り次いで貰えないかもしれない。
どうすれば良いかと考えるものの、身体が全くもって言う事をきかない今となっては“こっちを向け!”と念じる事しか出来なかった。
「――っ! ……?」
バッグの持ち手を両手で握りしめ、何度も何度も心の中で念じる。姿が見えなくなる瞬間、ずっと前を見続けていた小田桐が隣で必死に話しかけている外国人に一瞬だけ顔を向けた。
「……あのっ!」
だが、無情にもその集団は誰も足を止めることなく、そのまま通り過ぎて行ってしまった。
「ああー。どうしよ」
がっくりと肩を落とし、今日はもう諦めるしかないのだろうかと踵を返した。
「芳野?」
私の名を呼ぶ声が聞こえて慌てて振り返ると、小田桐が私の方へと近づいてきている所だった。後方には先ほど通り過ぎた筈の人達がいつの間にか戻ってきていて、これまた受付の女性と同じように訝し気な顔をしていた。
「……」
――何か、やな感じだ。
この場に似つかわしくないのも、小田桐と知り合いだというのが不自然だというのも重々承知している。かと言ってそんな露骨に態度に出されると、いくらなんでもへこんでしまうじゃないか。
久し振りに味わうこの屈辱感に、強烈な吐き気を覚えた。
「まさか、お前の方から会いに来てくれるとはな」
「……別に、あんたに会いたくて来たわけじゃないわよ」
私がそんな事を思っているとは知らない小田桐は、ポケットに両手を突っ込んだままそう言って私の真正面に立ち止まった。
「俺に会いに来たんじゃないってんなら、一体ここで何してる? ボーっとつっ立ってるところを見ると、このソファーの座り心地を確認しに来たって感じじゃなさそうだが?」
チラリとソファーを見ると視線だけを私に戻し、クッと口の端を上げた。
「ば、馬鹿じゃないの? 何でわざわざソファーの座り心地を確認しに来なきゃなんないのよ」
もしや、このソファーに座ろうか座らまいかと、くだらない事で悩んでいたのがバレたのではと一瞬ヒヤリとした。
「俺に何か用があるんだろ?」
そう言うと、小田桐は躊躇うことなくソファーへと腰を下ろした。
長い足を組み、背もたれの上に沿う様にして両手を置いたその様は、何の違和感もない。付き合っていたあの頃はお金持ちであっても決してそれをひけらかす様なことも無くどちらかと言うと庶民的な人間であったが、時間の経過と共に変わって行ったのだなとほんの少し残念な気持ちが沸いて出た。
「この間のお金、返しに来た」
ここへ来た目的を思い出し、慌てて鞄の中に手を突っ込んだ。
「金?」
「勝手に部屋変えて、部屋代も検査代も払ったでしょ?」
「ああ、そんな事か。俺が勝手にしたことなんだし、お前が払う必要は――」
「あるの! で、幾ら払えばいいの?」
「さぁ?」
「『さぁ?』じゃないわよ」
「んなこと言っても、覚えていないもんは覚えていない」
「んもう! それじゃあ困るって言ってんのに! ……とりあえず、これ。はい」
財布の中からありったけのお札を差し出し、小田桐の顔の前に突きつける。小田桐は一度そのお金に視線を落とすと、私の腕を伝って顔を見上げた。
「とりあえず、十万。これで足りる?」
「……まぁ、お前がこれで足りると思うんなら足りるんじゃねぇの?」
フンッと鼻で笑われ、カーッと顔に熱が集まり始めた。
この二十年もの間で私が勝手に美化していたのだろうか。今、目の前に居る小田桐はあの頃の面影は微塵もない。高級なスーツに身を包み、高級なソファーにふんぞり返っているその姿はきっと本来あるべき姿なのだろう。反面、その事実を知った事でショックを受けている今の自分にも驚いた。
「――っ、……何よ。その、まるで人を見下した様なものの言い方は」
「――」
よせばいいのについ本音が口を衝いて出てしまった。
足を組むのを止め、両肘を膝の上に置いた小田桐は何も言わずただじっと私の目を見つめている。何も語ろうとしない事が変なプレッシャーとなり、それに耐え切れず俯いて視線を逸らした。
「足りない分は後でちゃんと払うから。口座番号教え……、――きゃあっ!」
差し出していた手を急に引っ張られ、そのはずみで小田桐の膝の上に座る恰好となってしまう。
「なっ!? ちょ――」
余りの恥ずかしさにますます顔が熱くなっているのがわかり、腰元に回された小田桐の腕を振り解こうと必死にもがいた。
「お前、何か勘違いしてないか?」
「え?」
慌てふためいている私とは違い冷静な声音でそう言った。小田桐の腕に手を置いたまま顔を上げると、すぐ近くに小田桐の顔があり思わず息が止まる。至近距離で射抜かれてしまえば、目を逸らすことなど出来るわけもなかった。
「俺は偽善者でもなんでもない」
「……はい?」
「ましてやボランティア精神など皆無だ」
「えっと、……何が言いたいの?」
「花で埋め尽くした特別室に変えたのも、検査代を支払ったのも。俺は一体何の為にやったとお前は思うんだ?」
「何の、為?」
何の為にやったかだなんて突然聞かれても、すぐに答えは出せそうにない。数秒考えてみたものの、すぐに周囲が騒がしくなってきたのを感じて小田桐の腕に置いた手に再び力を入れた。
「と、とりあえず離し――」
「俺は『お前をもう一度口説く』って言ったんだよ。だからあんなのは言わば先行投資ってとこだ」
再び見た小田桐からは僅かに笑みが零れ、その顔には先程迄はなかった昔の面影が垣間見える。まるで綺麗な花を愛でる様なそんな甘顔を見せつけられると、ゆっくりと二十年前の記憶が蘇って来た。
「……。――? ……っ!」
つい、懐かしさにボーっとしてしまっていたのだろう。不意に顎を指で掬われた事に何の対処も出来ずにいると、次の瞬間、柔らかいものが唇に触れた。
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