90 / 124
第二部 第1章 時を経て再び出会う
第2話〜過去の記憶〜
しおりを挟む制止の声がちゃんと届かなかったのか、カーテンの隙間から央がひょっこりと顔を出した。
「歩ちゃん? さっき、桑山さんから電話があって――? ……っ!」
最近買い換えた新しいスマホを握りしめながら、カーテンの中へ足を一歩踏み入れたものの、私だけではなく小田桐の姿を見つけた央はびくりと肩を竦めた。大きなフレームの黒縁眼鏡のブリッジを中指でグイッと押し上げるその仕草は、私の髪に唇を寄せている男性は一体何者なのだろうかと確めようとしている風にも見えた。
「あ、ああ、なかば? この人は私の……」
そこまで言って、言い淀んでしまった。
どうしよう、小田桐の事を何て言って紹介すればいいんだろう。元カレ……とか恥ずかしくて言えない。じゃあ、高校時代のたった数か月だけの同級生? コンビニでバイトしていた時の常連さん?
どれもこれもしっくりこない。
でも、小田桐は自分の事を何て言って紹介してくれるのかを待っているみたいだし、央は央で軽く身を乗り出して私が発する言葉を決して聞き逃さまいとしている。
「ああ、その……えーと」
丁度いい言葉が思い浮かばない私に業を煮やしたのか、軽く首を振りながら溜息混じりに小田桐が助け舟を出してくれた。
「芳野の――、ちょっとした昔の知り合いで小田桐と言います。どうぞ宜しく」
丸い椅子から立ち上がり、央に握手を求める。極度の人見知りと対人恐怖症の中間位に位置するほど他人と接触するのが苦手な央は、近づいて来る小田桐に対してあからさまに後ずさりした。そんな央の様子に小田桐の眉が僅かにピクリと上がった。
「……っ」
「な、なかば!」
完全に固まってしまっている央の名前を呼ぶと、まるでしばらく油の差していないロボットの様にカクカクと首を回し、強張った顔を私の方へと向けた。
私が何を言いたいのかわかったのか、恐る恐る右手を差し出す。先ほどとは全く違い、まるで蚊の鳴くような声で央が自己紹介を始めた。
「……あ、あの、は、初めまして。……な、央と言います。――母がいつもお世話になっています」
「!?」
恐る恐る出した手を、小田桐の右手にちょんと触れさせてすぐに引っ込めるつもりだったのだろうが、央の言った「母が――」の言葉に反応した小田桐はその手を逃がすまいとがっしりと握りしめた。
「ひっ!」
「芳野が“母”だと? ……それ本気で言ってんのか?」
さっきはちゃんと大人の対応で挨拶をした小田桐に、流石に二十年近くも時が経つと人間変わるもんだなと感心したのも束の間、一瞬で時が巻き戻されたかの様に豹変した。
「なっ!? ちょっと、小田桐! 止めてよ! この子はなにも悪くないでしょ!」
急に凄まれた事により、央は顔面蒼白になっている。大きなフレームが鼻先までずり落ち、身体は硬直してはいるものの、特徴のある央のブラウンの瞳は小田桐の目から決して逸らされることは無かった。
「……! ……、――チッ」
舌打ちをしながら央の手を解放すると、その手はすぐにスマホを握りしめているもう一方の手に重なった。
「なかば」
「――っ」
「なかば!」
二回目でやっと央が小田桐から私に視線を移す。央はずり落ちた眼鏡をまた中指でくっと押し上げた。
「え? な、何?」
「あんたもういいから帰んなさい」
「……う、うん」
逃げる様にしてその場を去った央にホッとしつつ、乗り出していた上半身を再び元の位置まで戻した。
「お前」
「え? ……ひぃっ!」
小田桐を見ると、眉と眉の間に無数の縦皺を深く刻み込み、鬼の形相で私を睨み付けている。一難去ってまた一難。親子そろってこの一人の男に怯えることになろうとは、つい数十分前では考えつくことすら出来なかった。
「あいつ、……さっきのあの女。本当にお前の娘なのか?」
「う、うん。そうだけど?」
「んじゃ、なんでお前の事、名前で呼んだりするんだよ」
「知らないわよ。最近の若い子は親でも友達みたいに接することが多いからじゃないの? 一種の流行みたいなもんでしょ」
「んだそれ」
返事を聞いた後、小田桐の視線が私の背後に移った。それにつられて後ろを振り返るとそこには『芳野 歩』と書かれたネームプレートがあった。
「お前、……結婚してないよな?」
「し、してないよ! 一度も!」
窺うようにして問いかける声が後頭部から聞こえ、私はどういうわけかムキになって余計な事まで正直に答えてしまった。それを聞いた小田桐の目は僅かに力が抜けた様な感じがしたものの、すぐに新たな皺が眉間に集まりだす。次は一体何を聞かれるのかと、ごくりと固唾を呑んだ。
「じゃあ、あいつは一体誰との子供だ? 見た感じからして十代後半、って感じではあったが。――となると、俺と別れて数年位してから出来た子供か?」
「そ、そうかな!」
良かった、感づかれてない。央が童顔で良かったと心から思った。
……実をいうと、央の父親はこの小田桐である。
途上国に行く前から体調を崩していた私は自分が妊娠していたとは全く気付いておらず、現地の医療チームに相談し、そこで初めて最近生理が来ていないことに気付いたのだった。
小田桐とは既に別れていたから当然その事を本人に告げることも出来ず、苦悩の末、未婚の母になる決意をした。
妊娠している事を桑山さんに告げると、今すぐ日本に戻る様にと説得された。途上国での外国人の出産は母子共に非常にリスクが高く、万が一を考えての桑山さんなりの配慮であった。
だが、日本に帰ったとしても私には帰る家などもう無い。万が一が起きたとしても誰も責めたりはしないから、ここに残りたいのだと訴えると、『歩はそれでいいのかもしれんが、腹ン中の赤ん坊はどうなる? 赤ん坊の人生をお前が勝手に決めていいとでも思っているのか!?』と、桑山さんは大粒の涙を流しながら物凄い剣幕で怒鳴り散らし、私達二人は夜通し声をあげて泣いた。
結局、桑山さんの言う通りに、私は一旦帰国する事となった。日本に戻ったら桑山さんが住んでいたマンションを使う様にと言われ、私にでも出来る簡単な仕事まで手配してくれた。出産を間近に控え、思うように働けなくなった期間はなんと仕送りまでしてくれる事もあった。
他人とは思えぬ桑山さんの優しさに触れる度、私は一人じゃないんだと心から安心させられた。
央の存在を二十年近くずっとひた隠しにしてきたというのに、今になって央は小田桐の子供だなんて今更言うわけにはいかない。それを言ってしまうことで小田桐の気を引こうとしていると思われたくないという自身のプライドと、央が生まれる直前のとある出来事が私に嘘を吐かせた。
ある日、臨月でパンパンに膨れ上がったお腹を抱える様にして近所のスーパーから帰る道すがら、マンションの前に見知った男性が立っていることに気が付いた。徐々に近づいていくとやはり相手も私の事を知っている様で、私を見つけた途端ペコリと頭を下げている。
見覚えはあるが、この男性が一体誰なのかは思い出せない。
「……あ」
記憶をずっと辿っていると、頭を上げた男性がニッコリとほほ笑んだのを見て、ある一人の男性との記憶が蘇って来た。
0
お気に入りに追加
105
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
果たされなかった約束
家紋武範
恋愛
子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。
しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。
このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。
婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
きみこえ
帝亜有花
恋愛
月島 ほのかは事故により聴力を失った。転校先では学校で超モテる男子二人がお世話係? 先輩や保健室の先生にまで迫られてドキドキしっぱなしの毎日!
失われた音と声と季節巡る物語。
『好きだ』
この声は誰のものなのか・・・・・・。
※ifシリーズは時系列がバラバラになっていますので、ショートショートとしてお楽しみ下さい。ifの方が糖度高めかも。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる