B級彼女とS級彼氏

まる。

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第0章 彼の苦悩

第16話〜鏡〜

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 桑山と話をした翌朝。いつもの様に新聞に目を通しながらコーヒーを啜っていた。あえて視線を動かさなくとも、スリッパの音が近づいてきた事でキッチンの片づけを終えた梨乃がやってくるのがわかる。

「聖夜さん」
「……ん?」

 視線は新聞に向けたまま、何を言われても動じないとばかりにコーヒーを啜る。こういう時は決まって何か大事な話をしだすのが最近の傾向故、次は一体何を吹き込まれるのかと内心ビクビクしていた。

「わたくし来週ここを出て行く事になりましたので」
「っ、……そうか」
「短い間でしたが、今までお世話になりました」

 梨乃の雇い主である俺の父親に歯向かった罰で、梨乃は解雇された。勿論、梨乃自身もそうなるとわかっていて、わざと人権団体に属している取引相手の前で偏見の塊である俺の父親に対しあんな暴挙に出たのだから想定内と言えば想定内だったのだが、俺とジャックは特にお咎め無しで梨乃だけ制裁を加えた事は、俺たち兄弟の胸を酷く締め付けるものとなった。

「それで、これからどうするんだ?」
「まだはっきりとは決まっていないのですが、少しのんびりしようかと。“彼”もそうしたらって言ってくれてますし」
「ああ。……あいつと上手くいってるんだな」
「ええ。お陰さまで」
「……」

 ――『水面下で操作しようとするあんたのやり方よりかはマシじゃねーか?』

 思い出したくない台詞と共に桑山の顔が蘇る。ギリッと音が聞こえてきそうなほど、強く奥歯を噛みしめた。

「あ、聖夜さん。今日は荷物を実家に運ぶついでにそのまま泊まってきますので」
「……。――ん? あ、ああ、わかった。ゆっくりしてくればいい」

 後ろめたい感情に息が詰まりそうになり、慌ててコーヒーを口に含んだ。


 ◇◆◇

「おっせーな、今何時だと思ってんだよ」
「だから! 今日は遅くなるって言ったじゃん! ……やっぱ帰るよ」

 扉を開けて開口一番嫌味を言うと、ぶーたれた芳野はそのまま立ち去ろうとした。すぐにその手首を取り、帰ろうとしている芳野を引き止める。どうせそうするなら最初から嫌味など言わなければいいのに。と、自分でもこの天邪鬼な性格が嫌になった。
 引き止められたあいつはあいつで、きっとこうなるとあらかた予想がついていたのだろう。手首を掴んでいる俺の手を無理に解こうとするでもなく、少しふくれっ面になるだけでいとも簡単に身体を向き直した。

「なんだよ?」
「別に!」

 扉を大きく開けてやればキツイ眼差しを向けながらも家の中へと足を進めた。

「……? ――」

 俺の前を通り過ぎる時、喫煙者では無い芳野の身体から煙草の臭いがした事に気が付いた。これほど臭いが染み付くとなると、狭い空間で長時間喫煙者と一緒に居たという事がわかる。そして、その相手が一体誰なのかなど、あえて聞かずともわかっていた。
 玄関で靴を脱ぐ芳野の後姿をじっと見詰める。いつもダボッとゆとりのあるTシャツを着ているのに、今日は何故かやけに身体にフィットした服を着ていた。そのせいでいつもは隠されている身体のラインが強調され、俺しか知らぬであろう線の細い芳野の身体が惜しげもなくさらされている。襟元もガバッと開いていて、少し屈みでもすれば胸元が見え隠れするのが容易に想像できた。
 女らしさを前面に出したその出で立ちで、身体中に臭いが染み付くほど長い時間を過ごしていた相手はきっと……。そう考えると、あっと言う間にモヤモヤと濃い霧が頭の中を覆い尽くし、冷静に振舞うことなどどうにも出来なくなっていた。

「お邪魔しまーす!」

 リビングに梨乃がいると思ったのか、芳野が大声を張り上げた。梨乃は実家に帰っていて今日は居ないと告げると、「なぁーんだ」と言って伸びていた背中が一気に丸くなった。
 少しかしこまっていたのが梨乃が居ないと知った途端、緊張感の欠片も感じられない様な態度を見せる。芳野にとって自分の存在価値などあって無いようなものなのか、などと、昨日、桑山に言われた言葉に少なからずダメージを受けていたのが追い討ちをかけ、手のつけようのないマイナス思考なこの頭を更に苦しめた。

「あー、今日も疲れたぁ」

 ソファーに腰を沈めた芳野のすぐ側に立つ。座るわけでもなければ何処かへ行くでもない。その事を不思議に思ったのか、トントンと自分の肩を叩きながら丸くした目で俺を見上げた。

「今日、何処に行ってた」
「へ? ……仕事だけど。言って無かったっけ? いや、やっぱ言ったじゃん」
「仕事だと? そんなに煙草の臭いをプンプンさせて一体何の仕事をしてるんだ」

 今日の今日まで、俺から芳野の仕事について何か尋ねたことはない。そのせいか、丸くしていた目が僅かに揺れたのがわかった。

「煙草、って……。ああ、今日は機材が多かったからレンタカー借りて移動したのよ。いちいち煙草を吸う為に車を止めてらんないから、桑山さんに無理せず吸って下さいって。……それでかな?」

 自分の腕を鼻に持っていってはクンクンと犬の様に臭いを嗅いでいる。芳野にとっては他愛の無い会話なのだろうが、今の俺はそういう軽い感じで聞き流す事が出来なかった。

「そんなに臭、う……? ――っ、ちょ、なに」
「来い」

 臭いを嗅いでいる腕を掴み、引き摺る様にして風呂場へと向かった。

「え? 何? 何すんの?」
「……」

 そのままの勢いで芳野を浴室に押し込むと、すぐにシャワーのコックを捻った。

「ちょ、どういう――、ひゃっ! 冷たっ!」

 勢い良く放たれる水に対して防御した両手も虚しく、芳野はあっという間にずぶぬれとなった。片足を上げたところでシャワーの水を避けられるわけでもないのに、必死の抵抗を続けている。全身ずぶぬれになったせいで、更に身体に張り付いた衣服が芳野の下着をも浮き上がらせた。

「な、……ゴフッ、や、め――、小田桐!」

 その瞬間、シャワーヘッドが床に落下し、ゴトリと鈍い音が浴室に響いた。勢いが止まらない水が方々に撒き散らされ、芳野だけではなく水をかけたこの俺もびしょ濡れになった。

「やめっ、……んっ、う、ん――」

 シャー、シャーと流れ出る水の音に混じる芳野のくぐもった声。最初は固く閉ざしていた唇も、上着のボタンを乱暴に外していけばあっさりとその壁を破る事が出来た。両手首を浴室の壁にはり付け、下から掬い上げるように唇を貪る。薄っすらと目を開けて芳野をみれば、少し苦しそうに寄せた眉根に今までに無い女の色香を感じた。

「っ!」

 その表情に堪らなくなってしまった俺は、次に芳野が穿いているジーンズに手を掛けた。当然の如くたっぷりと水分を含んだそれはずっしりと重く、思うように上手く脱がせる事など出来やしない。
 はやる気持ちが余計に我の手を阻む結果となった。

「くそ! ……んだよっ、これ!」
「……」

 ジーンズに手をかけている俺を制止するわけでもなく、ただ黙って見つめている一つの視線を感じる。その視線に気付くとその手をピタリと止め、ゆっくりと顔を上げた。

「な、……んだよっ」
「小田桐……、どうしたの?」
「――なんでもない」
「なんでもなくないよ」
「――っ、うるさい! そんな顔で俺を見るな!」

 芳野の表情かおを見て、自分のやっている事が恐ろしくなった俺は、ずぶぬれになったあいつを一人残し浴室から飛び出すと、逃げ込むようにして自室に閉じこもった。
 あの時に見た芳野の表情は、きっと永遠に忘れられないものになるだろう。俺を酷く哀れんでいる様な……、そんな感じがした。

「クソッ!」

 自分勝手な妄想からくる嫉妬により我を忘れ、不毛な行動をしてしまった。両手で耳を塞いでみても、何度も何度も桑山の言った台詞が頭の中を駆け巡る。

『本人の知らない内に囲い込み、自由を奪う事でお前は満足している』

 桑山の言った言葉の裏には、きっとそんな意味が込められている。その事に気付くと共に、もう一つ気付かされた事があった。
 
 それはまるで……、――自分の父親がしているのと同じだった。

「違う! 俺は、俺は……!」

 知らぬ間に、父親と同じ様な事をしようとしている恐怖心に苛まれ、びしょ濡れになった身体を抱え込むようにして床にうずくまった。





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