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第0章 彼の苦悩
第13話〜前進〜
しおりを挟む自分の気持ちを素直に吐露したことで、正真正銘俺は芳野の恋人なのだと胸を張って言える様になった……と言いたいところだが、現実は少し違っていた。というのも、そう思っていたのはどうやら自分だけだったのか、芳野は相変わらずつんけんした態度で俺に接する。付き合いだして一ヶ月やそこらだと、普通は何をやっても許してしまえるほど盲目になるものだと思っていたが、必ずしもそうではないらしい。“恋人”の余裕など全くなく、あいつに関わる事全てを把握しておかないとイライラして仕事に支障が出てしまいそうなほど、以前にも増して執着心が激しくなってしまった。
そんなタイプの人間ではなかったのに、これほどまでにしつこく他人に干渉するほどちっぽけな男では無かったはずなのに、自分の口から何も語ろうとしないあいつを見ていると、“お前はここまで”とまるで線引きされている様な気持ちにさせられる。
そんな風に思えば思うほどそのラインを意地でも超えてやりたくなり、小さな子供の様にどんどんムキになっていくのが自分でも良くわかった。
「聖夜さん。あの、……差し出がましいのですが、きっとお気になされているのではと思ったので」
「……? 何だこれ?」
夕食を終え、自室に戻ろうとした俺を梨乃が呼び止めた。A4サイズが入る茶封筒を差し出され、上げた腰を再度椅子に落ち着かせる。封のされていないそれを指で少し開き中を覗き込むと、数枚の資料と共に誰かの写真がクリップで留められているのがわかった。何事かと中身を引っ張り出し、その写真に写る人物をしげしげと見た。くわえ煙草に無精髭を蓄えた一癖も二癖もありそうな全く身に覚えのない男の写真。何故梨乃がこんなものを俺に見せたいのだろうかと首を傾げた。
「誰だ? この男。俺に一体何の関係が――。……有限会社サンセット、代表……桑山」
この名前にピンと来た。表情の変化を察したのか、写真を凝視している俺に梨乃が結論を急ぐ。
「二ページ目に目を通してください」
「――。あ? ああ」
サンセットの桑山。芳野が勤めだしたところのカメラマンだ。何故梨乃がこいつの写真を? いや、それよりこの資料は一体……。
梨乃の言うとおりに二ページ目に目を通していると、ある一行が俺の目をとどまらせた。
「は? 何だこれ。“桑山氏の主な仕事内容……、スーパーのチラシ広告などの仕事も請け負ってはいるが、メインの仕事は成人向け雑誌からの依頼による、表紙ならびに綴じ込み付録用のモデル撮影など。近年では女性モデルだけではなく男性モデルとの絡みの撮影も度々……”」
声に出して読んでみれば眩暈がするほどに下劣な内容だった。こんな事をやって飯を食っている男と芳野がいつも一緒にいるのかと思うと――ぞっとする。
怒り露に次のページを捲るとまた別の写真が添付されており、そこにはホテルと思しき建物に入ろうとしている桑山と……芳野が揃って一枚の写真に納まっていた。
「――っ!」
その写真を見た途端、一気に心臓がドンッと大きく鳴り響いた。怒りと言うよりも裏切られてショックを受けた、とも取れる感情に似たもののせいで、紙を持つ手が小刻みに震える。自然と深い溜息が零れだし、右手で髪を掻き毟るとそのまま頭を抱えた。
ジャックとのキスが初めてだと聞いた時、高校生の頃に寝ている芳野の唇を勝手に奪ったのが実は本当の芳野のファーストキスなのだと自分だけが知ることで、俺は少し浮かれていたのかもしれない。全てが初めてなのだから、と、性急に色んな事を求める事もせず、ゆっくりと進んでいくつもりだった。なのに、あいつは既に他の男と? 俺と言う恋人がいると言うのに?
もう、何がなんだかわからなくなってきた。
「聖夜さん?」
「――」
梨乃も梨乃だ。何でわざわざこんなものを――。ああ、そうか。こいつは親父への忠誠心から、俺と芳野を別れさせようとしてこんなモノをわざわざ見せ付けてきたのか。それはそれは、随分徹底した忠誠心をお持ちの様で。
そして梨乃の思惑通り、俺は奈落の底へ蹴落とされた様な気分になっていた。
「あの、何か勘違いされてませんか?」
「……勘違い?」
「これは二人きりではないです。……ほら、ここにモデルさんらしき女性が映ってるでしょう?」
赤いマニキュアが施された爪の先を見てみると、確かにもう一人別の人影が見えた。
「あ、……そう、なのか」
二人きりで行ったのでは無い事に安堵したものの、それでもこんなろくでもない仕事をしていると言う事実に変わりは無い。今すぐ芳野の家に押しかけ、こんな仕事はすぐに辞めろと説き伏せねば。
そう思い立ち再び腰を上げると、また梨乃に制された。
「ここだけを見ると少々難ありかと思われますが、以前はNGOからの依頼で国外で活動されていた方の様で、今の業務内容はその為の資金稼ぎかと思われます」
そもそも、梨乃も梨乃だ。俺たちを別れさせようとしているのかと思いきや、俺が勝手に勘違いしていた事をそうではないのだと教えてみたりと、こいつは一体全体どういうつもりなんだ?
俺にとって果たして敵なのか、味方なのか。今後の為にもそろそろはっきりさせておいた方がいいだろう。
「おま――」
「何はともあれ、聖夜さんと歩さんのお二人には是非ともお幸せになって頂かないと」
「……は?」
幻聴……ではないよな、多分。梨乃がこんな事を言うって事は、つまりは俺の味方だって意味で捉えて良いのだろう。しかし、何故? 親父への忠誠心はどうした?
疑心暗鬼になりながらも梨乃の顔をじっと見つめていると、視線に気付いたのか、テーブルの上を片付けながらこちらを向いた。
「わたくし、そろそろ限界が近づいて参りました」
「は? 何が?」
聞き返すと、食器を片付ける手をピタリと止めた。
「トレス氏の性差別主義にです」
姿勢を正し俺を見つめる目は、自身の性的趣向に後ろ暗いことなど一切ないのだと言わんばかりでとても潔いものがあった。
「性差別だけではなく、自分よりも生活レベルの低い者に対しての差別的な発言も許し難いものがあります。――トレス氏ご自身もお若い時はそうだったと言うのをお忘れになられたのでしょうか。それに、聖夜さんはご長男故に随分我慢されてるでしょう? わたくしとしてはお父様の顔色を窺ってばかりでご自身のやりたい事を我慢するのではなく、臆せず歩さんと――、聖夜さんがお選びになった方と幸せになっていただきたいのです」
堂々と胸を張って己の道を歩き続ける梨乃が、少し羨ましくも思う。いや、梨乃だけじゃない、ジャックもそうだ。『あの女はトレス家には不釣合いだ』と、父親から付き合いをやめるように反対されていると言うのに、恋人との関係を終わらせるどころかこの間話した時は結婚するとまで言っていた。
“トレス家の長男”だというレッテルが貼られているせいで、自分は何も自由に出来なかったのだと思っていたが、きっとそうじゃない。本当は踏み出す勇気も無いのに、“俺はトレス家の長男だから”と何も出来ない事をその所為にしていただけ。自分からは何も起こそうとせず、ただただ自分の殻の中に閉じこもっていたのだ。
今が――、その殻を破る時期なのかも知れない。
「梨乃」
「はい?」
「今度のオープニングセレモニーのアフターパーティー、親父は来るって?」
「……いえ。ああいった場をトレス氏がお嫌いなのは、聖夜さんが一番良くご存知でしょう?」
勿論、それは熟知している。だからこそ、アフターパーティーに芳野を連れて行く事にしたんだ。梨乃のその物言いは、俺に“意気地なし”と煽り立てている様に思えた。
いつまでも父親の影に怯え、言われるがままに従っているのでは単なる人形でしかなく、心を持たない人形が辿る末路は“飽きたら捨てられる”ってのが関の山。
俺は人形ではない、ちゃんと自分の意思というものはある。割り切った身体だけの付き合いだけではなく、心から愛せる奴と未来永劫、共に生きたい。
「――親父に伝えてくれ。……会わせたい人がいるから必ず出席して欲しい、と」
ぶ厚く覆われた殻を自らの手でぶち破る為、今俺は一歩前へと踏み出す決心をした。
◇◆◇
「え!? 歩を父さんに紹介する!?」
セレモニーの為に再び日本へやって来たジャックを、梨乃と一緒に空港へと迎えに行った。ジャックを拾い上げ、現地へと車を走らせていた最中、助手席に座るジャックは差し詰めムンクの叫びさながら両手で頬を覆った。
「そんなことして大丈夫?」
「何で?」
「だって、兄さんにはカレンが……」
「ふん。今時、政略結婚とか、馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「いや、まぁ、そうなんだけどさ。あー、でもカレンがそれ聞いたらショック受けるだろうなぁ。彼女、結構兄さんの事気に入ってるっぽかったし」
ジャックはポツリとそう呟くと頬を覆っていた両手をパンと足の上に置いた。
俺がどこの誰かとよろしくやっているのをカレンが知ったとしても、ショックを受ける事もなければ怒り狂うこともない。あの女の本性を、そしてあの女が本当は誰を狙っていたのかを知らないからこそ言える台詞なのだろう。
「じゃあ、ジャックは親父の為に俺が犠牲になってもいいとでも?」
「そんなんじゃないよ。僕は皆がハッピーになるんならそれでいいさ」
「――なら、間違いなくみんなハッピーになるな」
「そうなの?」
「ああ」
それを聞いたジャックは、「なぁーんだ、そっかぁー」と言って納得していた。膝の上に置いた手を頭の後ろに組むと同時に足を組み、車の進行方向に視線を移すとニコニコと笑顔を浮かべている。その様子から察するに、ちゃんと理解はしていなさそうだ。
「わたくしも、そろそろ自由にさせていただくつもりです」
「へ?」
「既に辞表も用意致しました」
ルームミラーを覗き込むと、後部座席に座っている梨乃がバックから一枚の封筒を取り出した。それを見たジャックはというと、組んでいた手と足を解き、ガバッと後部座席を振り返っている。自分が居なかったこの数週間で一体何が起こったのだと、目を白黒させていた。
「はぁー、参ったな。今日は父さんにとっては最悪な一日になるだろうね。信頼していた部下だけでなく、実の息子二人にまで裏切られる事になるとは」
一通り梨乃から事情を聞いたジャックは再び姿勢を戻し、またさっきと同じように手と足を組むと頭を左右に振った。
「二人?」
「僕もね、彼女と結婚するって今日父さんにちゃんと言うことにしたんだ」
「まぁ」
「――は、……はは。そうか、そりゃあいい。見ものだな」
偶然とはいえ、父親に対する不満を爆発する日がよもや皆同じ日、しかも父親にとって晴れの日となるはずの今日この日になるとは。全く皮肉なものだ。
「こうなったら、――とことん愉しまないとな」
「だね」
「ええ」
不確かな未来を自らの手で確かなものに変えるため、俺達は動き始めた。
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