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第0章 彼の苦悩
第11話〜ゆっくりと〜
しおりを挟む時刻は夜の十一時を少し回ったところ。いつもならばこの時間はリビングの長椅子で横になり、アイラモルトをチビチビと飲りながら読書にふけるのが日課となっている。
「あははっ、それマジで笑えるー」
「でしょ? でしょ? でさぁー、その後さぁー」
しかし、今日はどうもそれが出来そうにない。と言うのも、俺が横になる為の長椅子はジャックと芳野で占領されているからだ。
ここは俺の家で芳野は俺の同級生だというのに、さっきから芳野はジャックとばかりくだらない話をして盛り上がっている。ジャックはジャックで芳野を迎えに行ったはいいが芳野と一緒に酒を飲み始める始末。“迎えには行っても送るつもりなど毛頭ない”のだとばかりに飲まれてしまうと、俺まで一緒に飲むわけにはいかないだろうが。
一日の内のわずかな至福の時間を尽く妨害された挙げ句、さらにはブランドンと言う俺の英語名をもネタにされたとあれば、心穏やかに過ごす事など皆無に等しかった。
「聖人さん、随分楽しそうですこと」
水の入ったグラスを手にした梨乃がやって来た。
俺のイライラの原因はコイツにもある。俺の女遊びはコイツの中ではもういつもの事くらいにしか思っていないのだろうと思っていたが、昨日は芳野が帰ったあと『一体何があったのか』としつこく問い質された。仕方なくわけを話せば明日朝一で謝って来いと命令口調で言われ、今朝も早くからたたき起こされてしまった。さっきはさっきでやたらと芳野にこだわっている様にも見えたし、梨乃が何を企んでいるのかが全くわからない。
とにかく、梨乃と芳野をあまり近づけない方が賢明だろう。そう思った矢先のことだった。
「……っふぐっ、――っう、んー! ん゛ー!!」
「あら、まぁ」
芳野が突然くぐもった声になったと同時に変わったものでも見たような梨乃の声が聞こえ、そっぽを向いていた首を前に向けた。視界に入ったのは両手で顔面を鷲掴みにされ、じたばたともがいている芳野とジャックとのキスシーン。それを見て何をしているのかと問い詰めるよりも先に、俺の身体が勝手に動きだしていた。
ジャックの後ろ襟を掴み芳野から引き剥がすと、そのまま胸座を掴んでソファーの背にジャックを張り付ける。なおも悪びれる様子もないジャックに手を振り上げたところで、何故か梨乃にねじ伏せられてしまった。
腕に激痛が走った事で俺は冷静さを取り戻した。流石、元男とだけあって梨乃の腕力は半端ない。関節技を決められながら、何故これほどまでに頭に血が上ったのか自分でもよくわからず、腕だけではなく首も捻っていた。
で、結局。
俺の至福の時間は妨害され、暴走したジャックを止めに入ると何故か梨乃にねじ伏せられ、まだ少し痛む腕を擦りながら俺は芳野を家まで送り届けている。当の本人はと言うと悠長にいびきをかきながら幸せそうな顔でぐっすりと眠りこけていて、その間抜けな顔を見ていると大きく開いた口の中にゴミでも放り込んでやろうかと思うほど憎たらしかった。
「おい、芳野。もうお前ん家に着いたぞ、いい加減起きろ! ――ったく!」
呼べど揺らせど一向に起きる気配が無い。素面で酔っ払いの世話をするのがこれほどまでにムカつくものだという事を初めて知った瞬間だった。
仕方ない、と芳野が起きるまで少し横になるだけのつもりでシートを倒したのだが、どいやら俺まで眠ってしまっていたらしい。気付けば既に芳野は起きていて、先に帰ろうかと迷っていた様で少し挙動不審に見えた。
「あ、ありがとう」
再び芳野の家の前に車をつけ、アパートを見上げた。毎日毎日飽きもせず、この鉄の階段をカンカンと音を立てながら昇っていた事を思い出す。あの頃に比べると俺は随分やさぐれてしまったが、芳野は学生時代とさほど変わっていない。ここまで変わっていないとなると、きっとろくに男も居なかったんだろうなと改めて思った。
でも、実はあの頃からやる事はやっていたのだとしたら……。今でも大して変化が無いのは頷ける。
昔、寝ている芳野にちょっとした出来心でキスをした事があったが、あの時で俺は一体何人目に入るのだろうか。
「お前さ、――キスしたの、初めて?」
「っ!!」
単なる興味本位で尋ねた事がきっかけとなり、芳野の想いを知る事となった。ジャックとはキスしても良くて、俺とは駄目だと言う。
その言葉を聞いた途端、今日一日のイライラが一気に爆発した。
「なぁ、俺にもやらせろよ」
少しビビらせてやる、そんなつもりだった。露出した色気の無い細い太腿に手を差し入れると、思った通り本気で慌てだした。今にも吹き出してしまいそうなのを必死で堪えながら顔を寄せれば、ぎゅっと目を固く瞑りながら首を竦ませ、両手で内腿を撫でる俺の手を必死で排除しようともがいている。
――いい気味だ。
しかし、芳野から次の言葉を聞いた途端、そんな風に思っていた自分を激しく攻め立て、そして本当の自分の気持ちに気付かされる事となった。
「お、小田桐が好きだからっ。……そんな事、簡単に出来るわけない!」
「……」
――好き? 誰が? 芳野が? ……俺を?
ドクン、と心臓が脈打つ音が聞こえる。その音が徐々に大きくなり速度を増すとカーッと身体に熱が帯び始めるのがわかり、自分の身体なのに何が起こっているのか全くわからなくなった。
「……、いっ!!」
その後、慌てて先程言った台詞を否定した芳野は俺の眉間に頭突きをかまし、逃げるようにして車を降りた。
余りの痛みに助手席から一気に運転席側まで仰け反った俺は、顔面を抱え込みながらも激しく鳴り続ける鼓動を抑える事が出来ない。目を瞑れば芳野の顔がちらつき胸の奥が苦しくなる。
「好き、って……」
これ程どストレートに「好き」だなんて言われた事がなかった俺は、その言葉を理解するのに苦しんだ。今まで一度も「好き」だと言われた事がないというわけではない。あれほど切羽詰ったような「好き」は生まれて初めてなだけで。……まぁ、俺がそうさせたってのは認めるが、それでも……。
「芳野が俺を、――好き?」
何度も何度もその言葉を反芻しているあたり、そう思われているのがまんざらでもないと思っている自分に気付いた。そして、この時から俺の芳野に対する見方が一気に変わっていった。
◇◆◇
「聖夜さん、今日はお休みですか?」
「ああ。ちょっと身体がだるい」
「まぁ、せっかくお誕生日だというのに。残念ですね」
「……別に」
いつも朝はバタバタと忙しない俺が、珍しくゆっくりとしていたのがおかしいとでも思ったのだろう。「それでは今夜のディナーの内容を少し変更しなければ」となにやらブツクサ言いながら、梨乃は自室へと戻っていった。
誕生日とか正直どうでもいい。いい歳した男が誕生日を祝う事の方が珍しいと俺は思う。……まぁ、恋人と誕生日を祝うからと、いそいそと本国アメリカへ旅立っていった一部例外を除いては、だが。
とにかく、今日は急ぎの仕事も無いし、たまにはのんびりと一日平和に過ごす事に決めた。
――で、何で俺がそう決めると邪魔が入るんだ?
インターホンが鳴り、モニター越しに見てみればそこには挙動不審な芳野が映っていた。
この間俺に告白したと思ったら、その翌日には綺麗サッパリその事を否定したくせに今更この俺に一体何の用があると言うのだ。気がある素振りを見せたかと思えば向こうへ行けと言わんばかりに突っぱねたりと、あいつの考えている事が全然わからない。
日替わり定食なあいつの気持ちに対し、俺はどんな風に芳野に接すればいいのかが、さっぱりわからなくなっていた。
体調も優れないし、芳野とくだらない話をする気力も無い。用が済んだならさっさとお引取り願いたいところだった。なのに、あいつは俺に冷たくあしらわれても物ともせず、今日は俺の誕生日だからと好物のからあげちゃんをスッと目の前に差し出した。
――ったくコイツは。
思わず両手を伸ばして芳野を抱き締めたい衝動に駆られる。その流れで家の中に引き摺り込み芳野をドアに張り付け、互いの唇を貪りあう。着ている服や荷物を点々と床に落としながらそのまま寝室へと誘うと、己の欲するがままに何度も何度もあいつを抱き、滅茶苦茶に啼かせてやりたくなった。
「聖夜さん? 芳野さんがいらしたのでしたら、上がって頂いたらいかがですか?」
「――」
部屋の奥から梨乃の声が聞こえた事で、俺の欲望は妄想だけで踏みとどまる事が出来た。
熱がある所為とはいえ、とんでもない事を目論んでいた自分に辟易する。そんな欲望があったとしても、今そんな事をすればこいつはきっとすぐに逃げてしまうだろう。こいつは、芳野は、今まで付き合ってきた女達とは明らかに違うのだから。
いつも梨乃には邪魔ばかりされていたが、今日ばかりは梨乃がいてくれてよかったと心から思った。
「あっ、じゃ、じゃあ……」
「……芳野!」
立ち去ろうとする芳野を靴も履かずに追いかけた。たった女一人如きに自分がここまで必死になってでも繋ぎ止めようとしているのが、未だに信じられない。
「晩飯付き合え」
見下ろした芳野の顔には先程までの不安そうな表情は跡形も無く消え、薄っすらと穏やかな笑みが浮んでいた。
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