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第3章 とうとう自覚してしまいました
第5話〜餌付け〜
しおりを挟むさて。ジャッ君によると、今日はどうもあのお騒がせ兄弟がこの世に生を受けた記念すべき日らしいのだが……。何故ジャッ君がわざわざそんな事を私に伝えたのかと言う点に着目していた。
どうやら私が小田桐の事を好きだと思っていて、しかも小田桐もまんざらじゃないと踏んでいる様だ。となると、ここで自分が一肌脱がなければ愛の伝道師の名が廃るとでも思ったのだろうが、そう簡単に踊らされてなるものか。
とは言うものの、実は今日一日全くと言っていいほど仕事に身が入らなかった。常に心ここに在らずと言った状態で、つまらないミスの連発をしていた私に『恋の病かな? いいねぇ、若いってのは。で? どっちが芳野さんの本命なんだい?』とニヤケ顔の店長に耳打ちされ、すぐに宮川さんを怨んだ。
『最後のチャンスだよ、しっかりね』
そんな捨て台詞をウィンクと共に放ち、帰国の途に就いたジャッ君。まるで私の恋を応援しているみたいなその言葉に、少なからず違和感を覚える。いつ私が小田桐の事が好きだと言ったというのだ。
「……あひへはい。――ぐふっ!」
歯磨き中に喋るのは危険だ。口の中であわ立ったスペアミント味の歯磨き粉が喉の奥に入り、むせ返ってしまった。
急いでうがいをし、窮地から脱した私は改めて『ありえない』と口にした。
何がありえないって、今はまだ夕方だと言うのにお風呂に入って歯磨きをし、どこぞへ出かけようとしている自分がありえないのだ。しかも、予想を裏切り完璧な状態で返って来たクリーニング後の私のジーンズに足を通し、鏡の前で上の服は何を着ていこうかとタンスの中身を引っくり返してはとっかえひっかえしているなんて、もう私は一体どうしてしまったのかと。
そんな状態でも、私は『違う違う、これは借りたものを返しに行くだけ。明日は休みだからわざわざ出かけるのが億劫だし、今日の内に全部済ましたいだけなんだ。小田桐の誕生日を祝いたいが為に今日と言う日を選んだわけじゃない』とまるで念仏でも唱えるかのように、何度も自分に都合のいい言い訳をしていた。
◇◆◇
(……なに?)
「あっ、あの、芳野だけど」
(見ればわかる)
「ああ、そうですか……」
そしてどっぷりと日は落ち、私はジャッ君の思惑通り小田桐が住む高級マンションのエントランスの前にいる。頭の中で勝ち誇っているジャッ君の顔が浮かばなくも無いが、先程のいい訳を繰り返す事でなんとかやり過ごしていた。
しかし、三度目の訪問になるがこのゴージャスな造りに少々気後れする。暖色系の照明と、土足で踏み入れるのに躊躇してしまいそうなほどゴミ一つ落ちていないピカピカの大理石の床。無数に並ぶダイヤル式の鍵がついたポストには無様に飛び出している郵便物など一つも無い。透明の大きな扉の奥をのぞいてみれば、一体誰が利用するのか応接セットの様なものまでが設置されていて、可能であればそこでいいから私が住みたい気分にさせられた。とはいえ、この不審者の侵入を阻むオートロック完備のマンションと言う奴は気持ち的にいけ好かない。人に会いに行くのにまず入り口でお伺いを立てなければならないなんて、ここで拒否されたら酷く傷ついてしまいそうだ。うちの家の様に扉を開けてみて初めて誰が来たかわかる方がいいじゃないか。呼び出しボタンを押しただけで、画面越しに誰が訪ねてきたかわかるなんてなんだか夢がない。いや、そこに夢を求める私の発想事態が貧困すぎるだけか。
「あの、梨乃さんから借りた服を返しにきたんだけど」
ホラ! と恐らく私が映った画面の前にいる小田桐に見せ付けるようにして、クリーニング屋の袋に入った梨乃さんのスカートを持ち上げた。
(ああ。――左見てみ?)
「は?」
(そこにポストがあるだろ? それ位だったら入るから丸めて突っ込んどいて。んじゃ)
――ポ、ポストとなっ!?
まさかの面会拒否に私は気が動転した。
「え? ちょ、待っ……!!」
無情にもプツッと通話を終了した音が聞こえた。私はすぐに小田桐の部屋の番号を再び押し、呼び出しボタンを連打していると逆上した声で再度小田桐の声が聞こえてきた。
(っるっせぇな! 何回も鳴らすなっ!!)
「だって、せっかくクリーニングしたのにポストになんか入れたらしわくちゃになっちゃうじゃんかっ!!」
(――チッ)
小田桐の舌打ちが聞こえたと思ったらまた通話が切れる音がした。ああ、やっぱり通してもらえないのか。と、諦めて帰ろうとした時、カチャンッと言う機械音がエントランスの扉から聞こえて私は足を止めた。大きなガラス扉に近づくと自動ドアが反応して大きな扉がガーッと開く。
――単純な私はたったこれしきの事でも嬉しかった。
大きな扉は開かれたが心の扉はやはり閉ざされたままなのか、Tシャツにスウェット姿で現れた小田桐はやはり不機嫌そうな顔をしていた。
正直、その表情にびびって逃げ出したくなったのだが、ここまで来て渡さずに帰るわけには行かない。私はぐっと息を飲み込むと少し上擦った声でクリーニングの袋を差し出した。
「これ、有難う御座いましたって私が言ってたって梨乃さんに伝えておいて」
「ああ。――んじゃ」
「……あっ、ちょっと!」
むすっとした顔で小田桐は梨乃さんの服を受け取ると、そのまま扉を閉めようとした。私はすぐに手を掛け、扉が閉まるのを阻止する。そんな、いつになく大胆な行動を取った自分に少し驚いた。
「っんだよ!? まだなんか……?」
「こ、これっ、あげる」
絶対つき返されないように小田桐の顔のまん前にビニール袋を突き出した。身体を仰け反らせると、仕方なくそのビニール袋を手に取る。『なんだよ、一体』としかめっ面で渋々そのビニール袋の中を覗き込むと、小田桐の目が大きく見開きそのままピタリと動きを止めた。
「あんた今日誕生日なんでしょ? お、おめでとう! ……いつもレギュラーばっかしか食べてないみたいだったから、今日は特別に違う味のも買ってあげた」
「……」
今日が誕生日だとわかっている相手に会いに行くのに、手ぶらでは行けないと思った私は、ここへ来る前に二種類のからあげちゃんを買って持ってきたのだった。
やはり小田桐にあげるプレゼントにしては安過ぎただろうか。子供じゃあるまいしこんなの貰っても嬉しくないか。しかもいつでも買えるしね。
あまりにも無反応な小田桐を見て、自分がした事に私は少し後悔し始めていた。
「聖夜さん? 芳野さんがいらしたのでしたら、上がって頂いたらいかがですか?」
姿は見えないが部屋の奥から梨乃さんの声が聞こえてくる。その事が、今日はきっと小田桐の為に梨乃さんが腕を振るったバースデイディナーが用意されていて、これから二人で楽しくお祝いするのだろうということを一瞬にして私に連想させる。そして、何て自分は場違いかつ惨めなんだろうかと、そこに居合わす事が耐えられなくなってしまった。
「あっ、じゃ、じゃあ……」
「……芳野!」
逃げるようにして立ち去ろうとすると、素足のまんまで玄関から足を一歩踏み出した小田桐に呼び止められた。
「ちょっと待ってろ」
「?」
そう言うと、パタンと扉が閉められ小田桐は家の中へと入って行った。閉ざされたドアの前で大人しく待っている間、私は今日やるべき事を全てやり終えた満足感に浸っていた。
しばらくして、ガバッと豪快に扉が開いたと思ったら、家の中から黒いシャツを羽織ってジーンズに穿き替え、スニーカーの踵を踏み潰した小田桐がチャラチャラと金属がぶつかる音と共に飛び出てきた。
何事かと目を丸くしている私に気付いたのか、
「――? 出るぞ、晩飯付き合え」
家の鍵を掛けながら小田桐が私を見下ろしてそう言った。
「チャリか?」
「あ、う、うん」
下へおりるエレベーターの中。両手をポケットに突っ込んで壁にもたれ掛かっている小田桐にそう聞かれる。私の返事を聞くとその視線はすぐに階数を示す表示板に向けられた。
気のきいたBGMも何も無いこの四角い箱は、何もしなくても尋常ではない緊張感を与えられる。ただでさえ、腫れ物に触るようにして接しているのだからその緊張感は限界まで来ていた。せめて早くこの箱の中から抜け出したい。そう思っていると、俯いている私の目の前にからあげちゃんがスッと差し出されて思わず顔を上げた。
「食べれば?」
そう言って僅かに笑みを見せた小田桐に、ほんの少し胸の支えが取れた気がした。
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