スケッチブック

まる。

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 静まり返った部屋の中。
 対面に陣取った二人は、真剣な眼差しでお互いの間に置かれている“モノ”を食い入るように見つめている。

 テーブルの上に置かれた銀食器、そしてその器に盛られた様々な果物達。それらを見つめては手元のスケッチブックにペンを走らせていた。

「……プッ」

 ふと、視線の先に見えた彼女の顔を見て彼が思わず噴出した。声が漏れてしまった事に慌て、彼はペンを持った手で口元を覆った。

「なに? 今、何で笑ったの?」

 彼女は視線だけを彼に向けると、片眉をピクリと上げた。

「いや、……何もないよ」
「もう、気が散るから止めてよね!」
「っと、ごめん」

 彼は自然と上がる口元を必死でこらえると、又二人はスケッチブックに集中した。


 ◇◆◇

「えー? この絵が七百万円!?」

 休日に街に出た時、とある人物の個展に立ち寄った。そこで見た絵の値段を見て声を張り上げた彼女の口を、彼自身の手でおもむろに塞ぐ。

「こ、こら!」

 周りをキョロキョロと見渡して、誰にも聞かれてやいないかと心配している彼。空気を読めない発言をしたにも関わらず、彼女はまだふがふがと何か文句を言いたそうだ。
 彼に押さえつけられた手をはがした彼女はどうやら呼吸が苦しかったのか、大きく息を吸い込むとはぁーっと一気に吐き出した。

「だって! ……これぐらいなら私でも描けるよ?」

 周りの雰囲気を察したのか、彼にだけ聞こえるような小さな声でこの場にそぐわない台詞を堂々と言ってのけた。

「無理だって」
「――! 描けるって!」

 否定されたのが余程悔しいのか、又彼女の声が大きくなる。彼の人差し指で口を塞がれ、しまったとばかりに首を竦めた。
 彼女の耳元に彼が近づき、

「じゃあさ、描いて見てよ。これより素敵なのを」

 耳元でそう囁くと、挑発的な顔で笑った。
 言ったからには後に引けなくなった彼女は、その挑戦を受けてたったのだった。

「いいわよ? でも貴方も描いてよね!」


 ◇◆◇

 そんな理由から始まった絵描き勝負。
 ただ描いただけじゃつまらないからと、お互い何かを賭けようと彼が言い出したのだった。

「でも、『賭ける』って何を賭けるの?」

 スケッチブックを探している彼の背中越しで、後ろに手を組んだ彼女が不思議そうな顔をして首を傾げた。

「うーん、そうだなぁー。モノとかだと面白くないし……。あ、あったあった、スケッチブック」

 スケッチブックを手に取り、彼女の方に振り返った。彼はそのまま本棚にもたれかかると人差し指を顎に置き、何かを考えているような面持ちで天井を見上げていた。

「……! そうだ、こうしよう! 君が負けたら僕の友人に電話をして、僕の事をどれだけ愛しているか僕の目の前で言う!」
「なっ!? 何それっ!? そんなの嫌よ!」
「何で? 簡単じゃない。僕に勝てばそんな事しなくて済むんだからさ。それとも……自信無いの? 美大出身なのに?」
「……っ!」

 こう言えば彼女は彼の挑戦を受けると最初からわかっていた。彼も絵には自信がある方だ。でも、彼女はそれを知らない。

「わ、わかったわよ。じ、じゃあ、貴方は何を賭けるの?」
「えっ? 僕は……“もし”僕が負けたら、君の友達に電話をしていかに君の事を愛しているか延々と話を――」
「や、止めてよ! そんなの友達に迷惑じゃない!」

 その様子を想像してしまったのか、彼女は顔を真っ赤にしながら両頬を手で包み込んだ。

「しかも、それって普段からやってるじゃない! 私がいない時に携帯が鳴ると勝手にでちゃって」
「だって皆に教えたいんだもの。僕は君と一緒に居ることが出来て、とても幸せなんだって事を、さ」

 口を尖らせて困った顔をしている彼女の気も知らず、彼はその尖った口に触れたくなり顔を寄せた。

「ちょっ、ちょっと、人の話聞いてるの!?」

 急に距離を縮めて来た彼の顔を両手で塞ぐと、彼女の指の隙間から不服そうにしている彼の目が見える。

「もうっ! ……あ、そうだ!! 貴方が負けたら、今日一日私に指一本触れないってのはどう?」
「嫌だ」

 即答で返事が返って来て、彼女は思わず声を出して笑ってしまった。家の中だけならまだしも、外であろうが親の前であろうが事ある毎にスキンシップを取ろうとする彼だから、拒否されるのは予め予想がついていた。

「あ、嫌?」

 彼の口が動いて手の平がこそばゆくなり、彼の顔を塞いでいた手を取る。満面の笑みで彼にそう尋ねると、眉間に皺を寄せ頬を少し膨らました彼がぶんぶんと頭を上下に振った。

「じゃあ、これで決まりね!」
「なっ!? 君こそ人の話聞いてる??」
「聞いてますよー。さっ、描こう描こう!」

 彼の手からスケッチブックを奪うと、するりと彼の腕から抜け出て行った。


 ◇◆◇

「出来たっ!! 貴方の方はどんな具合?」
「あ……っと、うん。大体出来上がったかな?」
「ところで、誰にジャッジしてもらうの?」
「うーん、そうだなぁ……。あ、今姪っ子が来てるから姪っ子に見てもらおう。子供の純粋な目で見てもらった方が確かだよ」
「そうね、そうしましょう。――っと、その前に貴方の見せて?」

 彼女が彼の後ろに回りこむと、彼は慌ててスケッチブックを自分の胸に押し付けた。

「だ、ダメダメ! 見せらんないよ!」
「何でよ!? 少し位いいじゃない」

 しばらくそんな押し問答をしていたが最後には観念したのか、彼は渋々自分の描いた絵を見せる事に同意した。
 先に見せてもらった彼女の絵は素晴らしく、流石にあれだけの事を言っただけの事はある。

(色んな意味で、これはヤバイな)

 恐る恐る彼は自分のスケッチブックを彼女に差し出すと、照れくさそうに上目遣いで彼女の表情の変化を伺った。

「……」

 彼女は無言で彼の描いた絵を見つめている。
 心なしか、ほんの少し口元が緩んでいるようにも見えた。

 彼の描いた絵は、果物を真剣な眼差しで見つめながらスケッチブックにペンを走らせている、彼女の姿だった。


 ◇◆◇

「お姉ちゃんの勝ち!」

 姪っ子のジャッジに彼女は手を叩いて大喜びしている。

「なっ、なんで!? ちゃんと良く見てよ!」
「だって果物を描く勝負だったんでしょ? これだと果物が端っこだし、適当にしか描いて無いじゃん」

 うなだれている彼を余所に、姪っ子はさっさと部屋から立ち去っていった。
 そんな彼とは対照的に、彼女はご機嫌だ。

「やっぱり、子供の目は確かよね?」
「……最悪だ」

 彼はソファーにボスッと座ると腕と足を組んでそっぽを向き、たちまちふくれっ面を見せた。彼の隣に彼女が腰を下ろしたことに気付くと、訝しげに眉根を寄せジロリと見下ろした。

「嫌がらせ? これ見よがしに僕の横に座らないでくれる? 我慢するのが耐えられなくなるじゃないか」

 不機嫌そうな顔でそう言うと、ふんっとそっぽを向いた。いつも一方的にやられっ放しだった彼女は、おなかを抱え込んで大笑いしている。

「ったく! ――? ……」

 ふと、頬にやわらかな温もりを感じた彼は、目を丸くしてもう一度彼女の方を振り返った。

「素敵な絵をありがとう」

 ニッコリと笑う彼女の笑顔に、顰めた眉が情けなく下がり始める。禁じられているのを忘れたのか、彼は両手を広げて彼女を抱きしめようとした。だが、彼女はするりと立ち上がると彼の腕からすり抜けていく。そのまま対面のソファーの後ろに立ち、背もたれに両手をつくと、

「貴方は私に指一本触れたらダメなのよ? 私はいいけどね」

 悪戯っぽくそう言って、彼に向ってウィンクをした。



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