最高の和食

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第三章 蓋は、開けてみるまでわからない

第七話~理解不能~

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「こんなのあんまりじゃないですか!」

 昼時で人気もまばらなオフィスに柚希の声が際立つ。冷静に話をしようと思えば思う程、奥歯に物が挟まった物言いの白泉に対し、いつも温厚な柚希が珍しく声を荒げた。
 白泉は自席に腕を組んで座り、片方の手で眉の間を指で摘まんでいる。前のめりになって凄む柚希をなんとかやり過ごそうとするが、今の彼女相手ではそれは逆効果だ。白泉はそう気付いてはいるものの、編集者としてはまだまだ新人の部下に手を焼いている様子だった。
 おざなりにしてこの場を切り抜けようとしているのがこうもありありと態度に出ていては、余計に後には引けないのか柚希は白泉に尚も食って掛かった。

「どうして先に企画会議通ったグルメ編集部の特集より、後から出てきたトラベル編集部の方が優先されるんですか!? 理不尽すぎますよ!」

 ランチ返上で詰め寄るも、『もう決まった事だ』と繰り返すだけの白泉に柚希は業を煮やした。
 いつだったか、トラベル編集部とグルメ編集部との確執についてまどかに聞いた事があったが、具体的な理由はわからないまま。会社という一つの大きな組織の下で働いていれば何かしらの圧力がかかる事も時にはある――。そうまどかから聞かされた時ありえないと非難してはいたものの、あの時はどこか他人事のように思っていたのだなと、いざ自分がその立場になってみて気付かされることとなった。

「ポシャるにしてもちゃんと理由を――」

 納得のいく理由を知りたい。しつこく食い下がる柚希に白泉が言葉を被せた。

「いいか、佐和。私の立場では“言える事”と“言えない事”がある。……今回の件に関しては後者が当てはまる。――私から言えるのはそれだけだ」
「なっ!? そんなの……、それじゃあ協力してくれた篠田さんに何て言えばいいんですか!」
「それは担当したお前が考えろ。――ちょっと外に出てくる」
「――ッ」

 もうこの話は終わりだと言わんばかりに席を立つ白泉を、柚希は唇をキツク噛みしめながら見送る事しか出来ない。そんな彼女自身も既に組織で働いている人間だという事を身をもって知ることとなった。


 ■□

 一方その頃。柚希が絶望の縁に立たされているとも知らず、篠田の見舞いから戻った翔太郎は自宅で熱いシャワーを浴びていた。
 自分の歳の倍近くある築年数の古い借家だが、六畳二間に小さな台所と、一人暮らしをするには広さは十二分にある。シャワーはかろうじてあるという程度のもので勿論バスタブなどはない。立ち仕事の後の疲れた体を癒すには湯船にゆっくりつかりたいと思う反面、実際家にいる時間など極わずかな翔太郎にとって、その事は特別大きな問題ではなかった。

『篠田さんが一番喜びそうなことをしてあげればいいんじゃないでしょうか?』
「……」

 もうもうと立ち上る湯気の中、篠田が倒れた日の事を思い出す。病院の冷たい椅子に後から来た柚希と一緒に座り、頭を抱え込んだ。店を開けるのを躊躇していたのを察したのか、そんな柚希の言葉に後押しされる様に店を開け、そして無事に閉店してからも柚希に助けられた。
 何事もなく店を終えた事で気が緩んだだけなのか、それとも少なからず柚希に心を開いたのか翔太郎本人でさえもわからない。つい、自身の父親の事を柚希に話してしまい、いらぬことをペラペラと喋ってしまったと後悔を始めた矢先、それは何の前触れもなく訪れた。

『不安な時って誰かの温もりを感じるだけで落ち着くんです』

 甘い香りと共に女性特有の丸みを帯びた柔らかな肢体に包まれた時、自身が柚希に抱き締められている事を知る。
 女に慰められるような女々しい男。
 そう思われてしまうのを極端に嫌う翔太郎だったが、そうされている内に次第に心が穏やかになっていくのがわかった。

「――」

 男は男らしく、女は女らしく。そんな風に考えていた自分はこのアパートと同じくらい随分古い人間なのかもしれない。柚希の行動は突拍子もなく、優に翔太郎の理解の範疇を超えている。自分の事を好きだと言った傍から他の男とキスをしたりと、予想もつかない事を言ったと思えば、それとは全く違った行動に出る。どんなに突き放したとしても戻って来るのが当たり前のブーメランの様に、しばらくするとケロッとした顔で姿を現す。
 理解しようとしても、どうにもわからない。最近の女は皆あんな感じなのか。

「はぁ」

 翔太郎はずっしりと重みのある溜息を零しながらシャワーを止めると、扉を開けたところにぶら下がっているバスタオルを取り、身体を拭きながらバスルームから出た。

「?」

 部屋の方から漂って来るかすかな香りに翔太郎の鼻がスンと鳴る。考えるよりも先に、慌ててバスタオルを腰に巻きなおした。

「……。――おい」
「ああ、翔太郎。ちゃんと温まったの?」

 そこに居たのはかつての想い人である桜で、畳の上で正座をしながら、どうやら新聞広告に見入っていた様子だった。
 桜は相変わらず呑気に母親の様な台詞を言っている。シャワーを浴びるだけのこの風呂場では、温まるどころか一日の疲れも取れやしないと何度も言っていると言うのに。
 何度言っても駄目だと悟った翔太郎は、もう何も言い返すことはしなかった。

「お前さ。いい加減、うちの母さん騙して取り上げた合鍵使って、勝手に人ん家入ってくんなよ。俺、いつもは風呂上りは決まって真っぱで出て来るんだぞ」

 鼻が利く方で良かった。翔太郎はホッと胸を撫で下ろした。
 そう言えば、この桜にしてもそうだ。子供の頃からの長い付き合いではあるが、実の所何を考えているのか良くわからない。
 翔太郎の初恋の相手とも言える桜は、見た目こそ清楚に見えるが中身は男。女らしく振る舞っているのは、意中の相手が自分に近寄りやすいようにと計算してのことだと言うから尚更恐ろしい。
 自分の理想とはかけ離れた肉食系な桜だと知った後も翔太郎はそんな彼女を長い間想い続けていたのだが、それも彼女の恋愛対象が同性だと知ったと同時にあっさりと終わりを告げた。

「騙したなんて人聞きの悪い。おばさんから翔太郎の世話を頼まれて、預かっただけよ? あとそれと、翔太郎の裸なんて見飽きたから気にしないで真っぱで出てきてもいいんだからね?」
「それいつの話だよ」
「んーっと、小学生くらい? あ、翔太郎お茶いる?」

『それって一体いつの時の話だよ』
『……し、小学生です』

「……」
「翔太郎?」
「――? あ、ああ。よろしく」

 桜のその返答を聞き、そう言えば昨夜同じ様なやりとりを柚希ともしたなと、翔太郎の口元が自然と緩んだ。
 勿論、そんな僅かな表情の変化も桜は見逃さない。お茶をいれるために立ち上がったはずが何故か冷蔵庫のある台所には行かず、矛先を翔太郎へと向けここぞとばかりに絡み始めた。

「なぁにぃ? ニヤニヤしちゃって。ちょっと顔が赤くなってるし」
「なんでもないって。顔が赤いのは風呂上りだからだろ」

 まるで高校生の息子の恋路を茶化す母親の様だ。自分の顔の前で人差し指を突き付ける桜の手を、翔太郎は面倒臭いとばかりにパンと払いのけた。

「やぁねぇ、気持ち悪……あ、っと」
「危なっ――!」

 長時間正座で座っていたのか、立ち上がった拍子に桜の足がもたついた。すかさず手を伸ばしたバスタオルを巻いただけの翔太郎の胸元に、桜の華奢な身体がすっぽりと収まった。



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