最高の和食

まる。

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第三章 蓋は、開けてみるまでわからない

第五話~寄り添う~

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 柚希の言葉を待つ翔太郎。聞きたい事が沢山あった柚希は、もしかしたら今がそのチャンスなんじゃないかと息を飲んだ。
 室井の事を好きだと言ったのは、自分を遠ざける為の嘘なのか。柚希がスマホを忘れた時、柚希の会社に電話を入れる事もせず警察に届けたのは、自分に会いたくなかったからなのか。陸に無理やりキスをされてしまったのを翔太郎は目撃したのか。――本当は自分の事をどう思っているのか。

「……っ」

 聞きたい事は山ほどある。だが、一度は答えが出ているというのに再びその話を持ち出すのは、それこそしつこいと思われるのが関の山だ。せっかく、志の田のピンチに柚希が一役買った事で、ぎこちなかった二人の関係がほぼ元通りになってきたというのに、それを自ら潰す結果となるのではないか。
 そう考えた柚希は、当たり障りのない言葉を選んだ。

「――このお店が、……好きだから」

 ただでさえ篠田が倒れて大変なこの時に、いらぬ問題を増やして翔太郎を苦しめてはいけない。本当は今思っている事を全部吐き出し、室井との関係をはっきりさせたいところだったが、今はその時ではないと柚希は口を噤んだ。

「そ、それより篠田さん、大丈夫ですかね」

 間を繋ぐ為に振った話題は、どうやら選択を間違えた様だった。
 翔太郎の顔がみるみる強張り始める。それまではリラックスした雰囲気だったのが嘘の様に、心なしか張りつめた空気に変わった。

「腰を」
「はい?」

 翔太郎がグラスに残ったビールを一気に飲み干す。瓶の中身が空になっている事に気付くと、立ち上がり冷蔵庫へ向かった。

「腰を……押さえてたろ?」
「篠田さんの事ですか?」
「ああ」

 冷えたビール瓶をもう一本取り出し、再び柚希の隣へと戻った。

「……あっ、有難うございます」

 翔太郎は自分のグラスに入れる前に、柚希のグラスにビールを注いだ。それはまるで、一人で飲むのは寂しいから付き合えと言っているかの様だった。

「ここ最近、ずっと腰が痛いって言ってて整体に通ってたんだが、全然良くならなくて」

 確かに、何度か翔太郎の口から、篠田は整体に行っているからまだ来ていないとか、体調が悪いから先に帰ったなどと聞いた事があった。その時は特に何とも思っていなかったのだが、結局それが悪化したという事なのだろうか。

「一度、ちゃんとした医者に診てもらって検査を受けた方がいいって言ったのに、あの人全然聞く耳持たなくて。首に縄つけてでも俺が病院に連れて行ってれば、きっとこんな事には」

 そう言うと翔太郎は両手で頭を抱え込んだ。その様子からして、篠田が倒れたのは自分の所為だとでも思っている様に感じられる。もっと本気で篠田に言って聞かせていれば、こんな事にはならなかったのだと自分を責めている様だった。

「でも、ぎっくり腰とかだったら癖づくものの、命に関わる程でもないでしょうし」

 柚希は自責の念に駆られている翔太郎を励ますつもりだった。

「俺の父親も篠田の親父も。今のあんたとおんなじ事言ってた」
「発条さんの――お父さん?」

 翔太郎は真っ直ぐ前を見ながら小さく頷いた。

「力仕事してたし、ぎっくり腰かヘルニアじゃないかって思ってたんだけど」
「違ったんですか?」

 前を向いていた翔太郎の頭が項垂れる。ただ事ではなさそうなその様子に、柚希の喉がゴクリと鳴った。

「癌だった。骨に転移してたんだよ。早かった、ポックリ逝っちまったよ」
「……っ」

 柚希はかける言葉が見つからない。今まで、自身のプライベートな話は一切話そうとはしなかった翔太郎だったが、それは翔太郎の事が好きな柚希への牽制だとずっと思っていた。
 思い出したくない過去。
 それは少なからず柚希にもある。
 きっと翔太郎は誰にも言うつもりなどなかったのだろう。なのに、それを自分に話してくれたという事実を柚希はどう受け止めればいいのかと困惑する。自分を信頼してくれての事だろうか、それともただ単に今は気弱になっているだけなのか。
 もしかすると、篠田も同じ病気なのかもしれない。きっと翔太郎はそう考えているのだろう。また、大事な人を失うんじゃないかという恐怖に今にも押し潰されそうになっている。
 そんな翔太郎に今、自分がしてあげられる事はあるだろうか。

「……」

 柚希はゆっくりと立ち上がると、額を掌で覆って項垂れている翔太郎に恐る恐る両手を差し伸べた。

「――? ……なんのつもりだ」

 差し伸べた手で翔太郎の肩を横から抱きしめた柚希は、冷ややかな言葉を返されてもその手を緩める事はしなかった。

「離せよ」
「嫌です」

 柚希の手を解こうと腕を掴んだ翔太郎だったが、余計に抱き締められる結果となる。呆れる様に溜息を吐く翔太郎に、怒らせてしまったと怯えながらも柚希は自分の想いを伝えた。

「不安な時って誰かの温もりを感じるだけで落ち着くんです。私も昔、寂しくて泣いていた時、父によくこうやって抱き締めて貰いました」

 柚希は昔の事を思い出してしまったのか、感極まって顔を上げている事が出来なくなった。翔太郎を抱きしめたまま彼の背中に顔を伏せた。

「それって一体いつの時の話だよ」
「……し、小学生です」

 翔太郎にそう聞かれ、冷静に考えれば二十六歳の男性にする事では無いと気付く。少しでも翔太郎の不安を取り除く事が出来ればと思ってやったことだったが、流石にこれはやりすぎたかもと恥ずかしさで顔が熱くなった。
 しかし、今更後には引けない。翔太郎を安心させようと思ってしたこととはいえ、大胆にも“あの”翔太郎を抱きしめているのだというこの現実に、身体中から変な汗がじわっと滲み出て来るのがわかった。

「……っ」

 翔太郎が大きく息を吸う。怒鳴られるのか、それとも突き飛ばされるのかと首を竦めた。
 だが、

「……?」

 翔太郎に掴まれたままの柚希の腕に、翔太郎の掌がぐっと圧が増したのが腕を通して伝わる。
 それは決して柚希を遠ざけようとするものではなく、まるで『離れるな』と言っているかの様に思えた。





 ■□

 駅で買って来た新聞を小脇に抱え、指に通した鍵をグルグルと回しながら白泉が事務所の扉を開ける。

「……? おわっ!? なっ、誰――、……佐和??」

 誰も居ないと思っていた事務所に人の気配を感じ、白泉は一旦事務所から飛び出すと、再び入り口からそっと顔をのぞかせた。

「ああ、編集長……。もう、そんな時間ですか」

 昨日とまるで同じ服装で目の下にクマをぶら下げた柚希が、力なく声を発した。
 白泉は相手が柚希だとわかり安心したのか、ピンと背筋を伸ばすとなんでもなかったかの様にして再び事務所の中へと足を踏み入れた。

「なんだお前、昨日帰ってな――? おわっ! くっさ!! 油と生魚の臭いとお前の体臭と香水が入り混じってくっさ!」
「え?」

 瞬時に臭いをかぎ分けた白泉とは相反し、柚希は袖に鼻をつけて臭いを嗅いでみるも自分がどんな臭いを発しているのか全くわからない。だが、白泉が手で臭いを振り払う仕草をしながら自分から遠ざかって行くのを見ると、強烈なフレーバーを醸し出しているのだろうなという事は嫌という程わかった。
 こんな時、最初に会った相手が白泉で良かったと柚希は思う。グルメ編集部の王子と呼ばれている一之瀬では、心の中で臭いと思われるだけで白泉の様に面と向かって臭いなどとはハッキリ言わないだろう。

「編集長、有難うございます」
「はぁっ!? 臭いって言った相手に礼言われるのなんて初めてだよ!」

 変なものを見る様な目つきで柚希を見ながら、白泉は自席についた。

「で? 徹夜した成果は? 朝の会議に胸張って出せるものが出来たんだろうな?」
「勿論です!」

 白泉の席に向かおうとした柚希を、白泉は両手をピンと前に出して制止した。





 隣に座っているまどかが机に散らばっている資料の整理を始める。彼女がこの動きをすると、決まってそれはランチに行くと言う合図(サイン)だという事を柚希は知っていた。

「柚希、そろそろランチ行く?」

 案の定、まどかにランチを誘われる。しかし、柚希の顔はどこか浮かない表情をしていた。

「あ、うん。けど、まだ会議終わってないみたいだし、気になるな」

 朝一番の会議に、柚希が徹夜で作成したおせち特集を持って白泉が会議に出ている。いつもならばもうとっくに終わっている頃なのだが、会議室から中々出てこない。自分が携わっている案件というのもあって、何か揉めているんじゃないかと柚希はずっと気になっていた。

「あっ、出て来た。編集、長……?」

 諦めてまどかと昼に出ようとした時、丁度会議室から白泉が出て来たのを見つけた。ぶすっとした顔をした白泉は誰が見ても機嫌が悪そうだ。声を掛けてみたものの、そんな白泉の様子に次の声が出せないでいた。

「あの」
「潰された」
「はい?」

 白泉は手にした資料をくるくると丸め、歯を食いしばっている。言っている意味が良くわからないと柚希とまどかが顔を見合わせた。

「また特集潰されたんだよ。……トラベル編集部に!」
「……え?」

 白泉は丸めた資料を持ったままドンっと壁を思いっきり叩くと、『チッ』っと舌打ちを打った。そんな白泉の横で、当の柚希は何も言葉を発することなく茫然自失となっていた。



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