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第一章 赤いゼラニウム

04.お医者さん?

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本日4話目です。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 ゴリ、ゴリ、ゴリ――

 何の音だろうか。固い何かが強くこすれ合うような音がしていた。
 真っ暗な水の中に放り込まれでもしたのだろうか。上も下も分からない闇の中に居るようだ。
 手足を動かそうとしても、上手く動いているのか分からない。何かを喋ろうとしても、何も聞こえない――
 意識に靄がかかっているようで、虚ろだ。

 ゴリ、ゴリ、ゴリ――

 また音が聞こえる。
 暗闇の中で、それだけが確かな感覚だった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ゴリ、ゴリ、ゴリ――


 急に、世界に光が宿った。
 闇の中、遥か向こうに小さな光が見える。


 ゴリ、ゴリ、ゴリ――


 その光を意識すると、徐々にそれは大きくなっていく。それと共に、意識の靄が晴れていき、記憶が一気に溢れ出た。

「マオちゃん!」

 そう叫んだ瞬間、全身を激痛が襲う。大蛇に全身を締め付けられて骨が砕けるようでもあり、全ての爪の先に針を通されるようでもあり、背骨に氷柱でも入れられたようでもあり――
 とにかく、今までに体験したことの無い程の痛みが、全身をこれでもかという程打ち据えた。

 悲鳴は上がらなかったらしい。もっとも、それは僕が耐えたからでは無く、声を出す余裕すらも無かったからだったのだろうけれど。


「みゃぅ?!」

 一拍遅れて聞こえたのは、女性の声だった。

 ……みゃぅ? 何だろう。猫? それにしては人間らしい声だった気がするけど。

 視線を向けると、今度は先程よりは大分軽い痛みと共に、一人の女性が視界に飛び込んできた。
 艶やかな薄緑色の長髪を腰あたりまで伸ばした女性が、重力に逆らうよう、水平に立っていた。――いや、違うか。僕が寝転がっているのかな。

 ……どうやら、まだ頭の働きは鈍いようだ。

 軽く頭を振ると、また全身を痛みが駆け抜ける。思わず顔を顰めたところで、薄緑色の髪の女性が、僕のすぐ近くまでやってきた。

「目を覚まされたんですね。良かった……」

 見上げると、そこには優しい笑みを浮かべる女性の顔。印象的だったのは、新緑の木漏れ日を結晶にしたような碧色の瞳。神様を見たことは無いけれど、慈愛の神様はこんな姿なんじゃないかと思うくらい、彼女の笑顔と眼差しに僕は釘付けになった。
 少女らしい可愛らしさがありながらも、通った鼻梁や整った眉、長い睫毛は美しく、レイヤーストレートの艶のある髪と、清潔感のある白衣が彼女の美しさを引き立てている。

「えぇと、あなたは……って、痛ッ」
「あ、動かないで下さい。応急処置はしましたが、今のあなたは重傷です。両腕と、肋骨が二本折れていて、切り傷、打撲痕は全身至る所にあります。特に背中はまだ治りきっていない傷が幾つかあります。意識が回復されましたので命に別状は無いと思いますが、少し動くだけでかなり痛む筈です」

 なるほど。道理で少し動くだけで全身が痛む訳だ。
 恐る恐る自分の身体を見てみると、見えている部分で包帯が巻かれていないところは無さそうだった。

「ありがとう、ございます。えぇと、あなたが助けてくれたのですか?」

 問うと、彼女はゆるりと首を横に振った。

「いいえ。あなたを助けたのは私ではありません。私は怪我を治療しただけです」

 彼女はそう言うと、窓際のテーブルへと戻って行く。


 ――改めて状況を確認する。とは言え、首を捻るだけでかなり痛いから、見えている範囲での確認にはなったけれど。
 どうやら僕はベッドに寝ているようだ。部屋は民家の一室といった風情で、木製の棚や調度品が置かれている。
 窓が一つあって、そこからは明るい太陽の光が差し込んでいた。

 彼女は椅子に腰掛けると、テーブルの上に置いてあった大きめの乳鉢と乳棒で何かを潰し始めた。
 傍らには、窓から差し込む光を受ける赤いゼラニウムが揺れている。


 ゴリ、ゴリ、ゴリ――


 聞き覚えのある音だ。

「今、お薬を作っています。疲れておりましたら寝て頂いても構いませんよ」
「あ、はい……」

 とは言ったものの、あまり眠気は無かった。身体は疲れているのかも知れないけれど、さっきまで寝ていたから眠気が無いのだろう。

「そうだ。僕の他に、もう一人居ませんでしたか?」
「えぇ、居ますよ。そちらに」

 彼女は振り返り、僕の方を指さした。
 正確には、僕の背中の方だと気付き、首を回して視線を向けると、同じようなベッドに横たわるマオちゃんの横顔があった。

「マオちゃん! ……ッ、痛」
「あまり動かれると傷に障りますよ」
「す、すいません。……だけどっ、マオちゃんは大丈夫なんですか?!」

 思わず声を大きくする僕に面食らったのか、彼女の瞳が見開かれる。
 だけど、彼女の表情はすぐに笑みへと変わった。口元に手を添えながら笑う仕草に、思わずドキリとする。

「落ち着いて下さい。――マオちゃんは無事ですよ」

 その言葉を聞いて、僕は安堵した。「良かった」と口にして大きく息を吐き出したところで、また身体が痛む。
 ――どうにも、怪我の具合にまだ慣れない。

 そんな僕の様子を見た彼女は、困った様に笑いながら、再び立ち上がってマオちゃんの方へと歩いて行った。そして、軽く身体を屈めて、薄いシーツの下にあったマオちゃんの腕を取り、手首に指を添える。白磁のようい白く、細い指だった。

「脈も安定していますし、外傷も殆どありません。少し擦り剥いたような傷はありましたが、処置済みなので痕も残らず治るでしょう。ですが、どうやら無理に魔力を使ったようで重度の魔力欠乏症になってしまっているようです。安静にして魔力が回復するのを待つしかありませんが、食事――水分補給や栄養の摂取が出来ない場合は……」

 彼女は最後まで口にはしなかったが、その先に在るはずの言葉は、僕でも理解出来た。

「そう、ですか……」

 魔力欠乏症は、間違い無くあの結界魔術のせいだろう。つまりは、僕を守る為に無茶をして、こうなってしまった訳だ。
 一分一秒でも早く目を覚ましてくれることを祈るばかりだけど……。祈ることしか出来ないというのは、本当にもどかしい。

「あまり気を落とさないで下さい。魔力回復効果のあるお香を定期的に焚いてケアをしていますし、私は回復魔術の心得もあります。それに流動食――えぇと、スープのような食事と思って頂ければ良いかな。その、流動食であれば少量ながら摂取できるようなので、すぐに命の危機がくるという事はありません」

 魔力回復効果のある香草? 言葉の意味は分かるけれど、そんな治療法があるんだ。
 それと、流動食? 初めて聞く言葉だったから意味は今ひとつ分からなかったけど、少しは食事ができていると言うことだけは理解できた。というか、そう理解した。
 ともあれ、彼女の説明はとても分かりやすく流暢だ。医者か何かなのだろうなって思う。短いやり取りしかしていないけれど、彼女の腕は信頼に足るのだろうという印象は十分に持てている。状況こそ良く分かってはいないけれど、まずは一安心と考えても良いのかな。


「ありがとうございます。――マオちゃんは、僕の恩人なんです」


 全身が痛むけれど、僕は上半身を気合いで起こす。慌てて彼女が止めようとしたけれど、それを制止して無理矢理起き上がる。――でも、ベッドから下りるのは流石に無理そうだ。
 何とか起こした上半身。改めて彼女を見遣り、僕は深く頭を下げた。


「どうか、マオちゃんの治療を、よろしくお願いします。相応の御礼も致します」
「分かりました。分かりましたから、横になって下さい。少なくとも現状は、貴方の方が重傷なんですよっ。御礼の事も、考えなくて良いですから」

 慌てる彼女が、僕をベッドに寝かそうとする。彼女の薄緑色の髪が頬に掛かると、木漏れ日が心地良い森の中にいるような、そんな香りがした。

 彼女を困らせることは本意では無い。僕はまた、ゆっくりと身体を横たえる。――それだけで、また激痛が走った。


「もう……、マオちゃんが大事なのは分かりましたけど、本当に無茶は止めて下さい」
「はい、すいません」

 ピシッと言い放つ彼女。少しだけ口先を尖らせて言う様子に、僕は少し親しみを覚えた。

「あ、僕はノアと言います。自己紹介が遅れてすいません」
「ノアさん、ですね。私はエイルです。ノアさんの事も、マオちゃんのことも、私がしっかり治療しますので安心して下さい」

 彼女――エイルさんはそう言って微笑んだ。
 凄く安心出来る笑顔だと思った。思わず僕の表情も綻び、安堵の溜息が漏れた。

 そんな瞬間だった。







「あら、声がすると思ったら。目が覚めたんですね」

 不意に、そんな声が聞こえて来た。

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