怪異と奇譚とモノ語り

里見 瞭

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日記と私と夢うつつ

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 ──日記とは、人が持つ人生そのものである。
 赤木 結子はごく普通の社会人だ。日々の仕事に疲れ、毎晩のビールを楽しみにしているだけのただの一般人。好物はイカの塩辛で、趣味は日記を書くこと。変わったところと言えば、少しだけ霊感が備わっていることくらいである。
 結子が持つ霊感とは、心霊番組や掲示板で語られるほどの大仰なものではない。人とは違うものが見えることもなければ、それにまつわる怖い体験をしたこともない。
「霊感があるなんて言っても特別なことは何もないですよ。気圧が低くなると頭痛を起こす人と起こさない人がいるように霊感もただの体質なんです」
 結子が語る霊感とは、言わば雰囲気である。
 なんとなく嫌な雰囲気がする。ただそれだけ。
 結子は自身の霊感を自覚していながらも、その嫌な雰囲気が偶然や勘違いではないと否定することができなかった。それほどに結子が感じ取れる雰囲気は曖昧なもので、なおかつ存在の確かめようがないものだった。だからこそ、それは意識とは関係なく危険を予見してくれる便利な体質でしかない。
 結子は自身の霊感をその程度に考えていた。


 ある夜、結子は飲み屋街で酒を飲んでいた。
 火照った頬に冷たい夜風が気持ち良く、足元がふわふわとする感覚が心地良い。だらしがないとは思いつつも、仕事のストレスを晴れていくこの感覚が結子は好きだった。
 しかし、その夜、結子は明らかな怪しい存在を見てしまう。
 ふと通りかかった路地裏、結子の足が止まった。
 狭く薄暗い空間。雨が降った後のどんよりとした雰囲気。汚れた地面をネズミが走り抜ける。
 そこに、一人の女がいた。こちらに背を向けて、項垂れながら一人立っている。
 結子は初めその女が自分と同じように酒に酔い、路地裏で吐いているものだと思った。だが、そうではない。女は微動だにせず頭頂部を壁にこすり付けるように不気味にその場に佇んでいたのだ。
 結子はそれを変な人だと決めつけて、すぐにその場から立ち去れば良かった。だが、その女から視線が外せなかった。その女からあの嫌な雰囲気を感じたのだ。心霊スポットや事故物件から感じる雰囲気と同じもの。結子はその女から視線を逸らすことが恐ろしかったのだ。
 同時に、あることに気付いてしまう。
 黒の上着にベージュのショーツ。
 薄桃色のカバンに低めのヒール。
 目の前の女が身につけている服や持ち物が、結子が今身に着けているものと全く同じだったのだ。
 背格好や髪色、お気に入りのネックレス、首のホクロの位置から今朝から貼っている肘の絆創膏までもが同じだった。
 得体の知れない自分が目の前にいると認識した瞬間、結子は恐怖を覚えた。ますます女から視線を外せなくなり、女もまた微動だにせず背を向けて立っていた。
 その不気味な偶然が、まるで作られたもののような気がして結子の恐怖はますます駆り立てられる。考えれば考えるほどに頭の中では嫌な想像が渦巻き、その場から動けなくなる。
 だが、結子の想像は全て凌駕された。
 次の瞬間、女がこちらを振り向いた。
 ベキベキと首が180度回り、背中を向けたまま顔だけをこちらへ向いてきたのだ。──笑っている。女は後ろ歩きのまま結子へ近づいてきた。
 恐怖のあまり結子は腰が抜けた。その瞬間、初めて女から視線を外した。震える足を起こして結子は必死に立ち上がろうとして四つん這いになる──が、次の瞬間に女は目の前から姿を消していた。
 飲み屋街の喧騒から寂寥とした路地裏を見つめる。何もない路地裏を見つめたまま結子は尚も恐怖したが、その路地裏からは女の姿もあの嫌な雰囲気も消え去っていた。
 恐る恐る覗き込んでみても、あの女だけがさっぱりと消えていてそこには暗い路地裏だけが取り残されていた。結子はあっけらかんとし、酒で幻覚でも見たのだろうかと頭を抱え、逃げるように家路を急いだ。


 家のトイレで吐くと、未消化のつまみが出てきた。やはり飲み過ぎたのだと思って、趣味の日記を書いてからベッドへ入った。横になるうちに酔いも醒めていたが、結子は眠りにつくまでの間、自分が初めて遭遇したオバケの類を何度も思い出し、ベッドの中で震えていた。
 翌朝にはいつも通りの朝を迎える。
 だが、その夜から奇妙な夢を見るようになった。
 結子がベッドで横になっていると、ある瞬間から唐突に身体が動かせなくなる。直後、自分のすぐ隣に顔のない女が現れて、女は寝ている自分の上にまたがってくる。結子は目も口もないのっぺりとした女の顔を見せつけながら、少しずつ夢から醒めていくのだ。
 それが非現実的な夢であることは結子も理解していた。しかし、その夢を見ている間だけはまるで本当に現実で起こった出来事かのように錯覚してしまい、その瞬間だけは正真正銘、本物の恐怖を体験するのだ。
 とはいえ、朝になって目が覚めてみれば、どうしてあんなハチャメチャな夢を現実だと思い込んでしまったのか分からなってしまう。いつものように家と仕事場を往復し、ベッドで眠りにつく瞬間までその夢を怖いとは思わないが、眠りについてまた同じ夢を見れば同様の恐怖に襲われてしまう。
 次第に結子は眠ることが恐ろしくなった。寝るたびに悪夢にうなされて怖い思いをする。睡眠の質が悪くなり日常生活にも影響が出る。そんな悩みを結子は友人に打ち明けることもあった。
「なら、夢を日記に付けてみればいいんじゃない? そうすれば自分の中で整理がつくでしょ」
 ──恐怖とは、整理されていない未知からやってくる。
 結子が公言している持論であった。
 結子は友人のアドバイスから悪夢の内容を日記に付けてみることにした。
 記憶を思い起こし文章にすることで、その夢は結子の中で整理された情報になる。そうすれば悪夢を見たとしても『分からないから恐ろしい』ということが無くなるのだ。友人のアドバイスから結子は奇妙な悪夢と付き合い方を学び、ようやくいつも通りの日常生活を取り戻すことができた。
 だが、その悪夢は未だ全貌を見せてはいなかった。

 ある朝、結子が目が覚めると、部屋の中が荒らされていた。
 机はひっくり返され、棚は全て開き、私物という私物が床の上に散乱して、まるで誰かが部屋へ押し入ったような状況だった。
 驚いた結子は真っ先に泥棒を疑い、警察へ通報した。だが、結果から言えば、それは泥棒によるものとは認められなかった。
「監視カメラにも何も写ってないですし、目撃情報も無いみたいなんですよね。あ、もしかして最初から部屋が散らかっていた、なんてオチあります?」
 軽薄な警官によると、部屋を荒らされている以外に泥棒の痕跡はなく、周辺からの目撃情報はおろかマンションに設置された監視カメラにも怪しい人物の姿は映っていなかったとのだという。そして、なにより部屋の中から盗まれたものは何もなく、被害という被害が確認されなかった。
 傍から見れば、それはただの散らかった部屋で、終いには結子の自堕落を警察に茶化されるような状況だったが、結子には本当に思い当たりがなかった。警察はパトロールの強化を約束してくれたが、部屋を荒らした犯人を特定してくれることはなく、その日を境に、結子の部屋は度々、何者かによって荒らされるようになっていった。
 目を覚ますと、いつも荒れ果てた部屋が飛び込んでくる。
 その度に警察へ通報するが、やはり誰かが部屋に侵入した痕跡もなければ、何か物品が盗まれたこともない。物が壊されたりしたりした被害もなければ、何かが持ち込まれた形跡もない。
「絶対に誰かが私の部屋に入っているはずなんですよ! 盗まれてなくても捜査してください!」
「ウチは被害がないと動けなくてですね。民事には不介入なんですよ」
 何者かの嫌がらせも疑われたが、民事不介入の警察は結子の力になってはくれず、事態は少しも改善しなかった。
 結子はもう我慢ならず、この事態を独力で解決しようと思い立った。自ら部屋に小さなカメラを取り付け、未だ見ぬ犯人の姿を捉える。心霊現象でも起こらない限り、これで犯人が誰なのか突き止めることができる。
 そして、その目論見はまんまと的中し、カメラを取り憑けた翌朝、映像には部屋を荒らす犯人が収められていた。
 袖の長いピンクの服。
 肌触りの良いボトム。
 いつも掛け間違えるパジャマのボタン。
 ──そこに映っていたのは、結子本人だった。
 深夜、ベッドで寝ていた結子が唐突に起き上がると、辺りを見渡し、次の瞬間には狂ったように叫びながら部屋の中で暴れ始めていた。一通り部屋を荒らし終えると、彼女はしきりに部屋の中を歩き回り、明け方へ近づくにつれてベッドに戻ると、その後は死んだように動かなくなり、朝日が登ってくると、カメラの様子を確認する結子自身の姿が残されていた。
「なによ、これ……」
 映像を見た瞬間、結子は戦慄した。夜のことは全く記憶になく、自分が寝ている間に身体が勝手に動いていたことに強い恐怖を覚えた。
 結子は病気を疑い、その日のうちに病院を訪れた。睡眠外来へ通されると、医師は結子の話から『睡眠時遊行症』という病院であると告げられた。
 分かりやすく言えば、夢遊病である。寝ている間に身体が勝手に動き、本人の意思とは関係ない行動を取る症状を起こす。原因はストレスや生活リズムの乱れ、薬などの影響も考えられたが、そのいずれも結子には当てはまらなかった。
 病院では診断書を渡されたが、根本的な治療には至らなかった。医師の指示で結子自身が怪我をしないよう寝室を変えたり、ベッドに身体を縛り付けたりなど対策を施すことになったが、それだけでは結子の恐怖を和らげることは出来なかった。
 自分ではない誰かが、自分の身体で勝手に暴れ始める。それがたまらなく恐ろしかった。
 夢遊病が起こるのは深夜のうち約四時間ほど。睡眠時間を含め一日二十時間は結子も正常な人間として活動できているのだが、その四時間だけは全くの別人になってしまうような感覚だった。。
 これは本当にただの病気なのかと不安に思う一方で、本当に病気であるならば一刻も早く治したいという気持ちもあった。しかしながら、これ以降、結子の病気が改善されることはなかったのである。


 夢遊病と診断されてから、結子の生活リズムは極端に乱れ始めた。
 以前は毎朝六時に目が覚めていたが、次第に昼過ぎにしか起きられなくなり、アラームに気が付かなければ、日が沈むまで寝てしまうこともあった。
 結子は夜更かしをしているわけではない。いつも通り23時にはベッドに入るのだが、そのまま途方もなく眠り続けてしまう。起きた時に外がほんのりと明るいと、それが夜明けなのか夕暮れなのかも分からなかった。
 当然、病院にも相談したが、原因不明としか言われない。病院では何の解決にもならず。日を経るごとに結子の生活は全く心当たりがないまま崩れていったのだ。
 それは直接、職場への迷惑に繋がる。結子は診断書から病気療養の名目で休職し、一刻も早くこの病気を治そうと努めた。しかし、セカンドオピニオンを頼って県外の心療内科や睡眠外来の医師に相談しても、病気の原因は特定できず、極端に珍しい奇病も疑ってくれたようだったが、それでも結子の症状は誰にも説明できなかった。
 そんな生活を続けていると、結子は生活リズムの乱れから日中の強い眠気に悩まされるようになった。まともに起きていられる時間がどんどん減っていく。それは寝ている時間が増えていくということでもあり、同時に、あの悪夢を見る時間が増えるということでもあった。
 眠る度に部屋が荒らされ、酷い時には爪が欠けたり、身体のあちこちに打撲や切り傷ができるようになった。何もままならない状態で結子は自らの睡眠と悪夢に振り回されていったのだ。


 夢遊病発症から数ヶ月後には、結子の睡眠時間は異様な長さとなった。
 その睡眠時間は最大で二十時間。結子が目を覚ますのは決まって深夜で、そこから四時間ほどが結子に与えられた一日となった。
 その時間はあまりに短く、悪夢にうなされて目を覚ませば、まずは気分の悪さに襲われる。その後は夢うつつのぼうっとした頭で無駄な時間を過ごす。そして朝日が昇ってくると耐え難い眠気に襲われまともに意識が保てなくなる。眠ればまた同じ悪夢に苛まれ、また同じように草木も眠るような深夜に目を覚ます。
 同時に、夢遊病の症状も激しくなっていった。
 寝ている結子は勝手に食事を摂る。そのせいで起きても空腹を感じず、結子本人が何も口にしない日が何日も続いた。家の冷蔵庫の中には買った覚えのない食材が置かれている。玄関には口を縛ったゴミ袋が置かれ、部屋には知らない服がハンガーに掛けられている。財布や通帳を確認してみると見覚えのない収入が入っており、スマホには知らない連絡先がいくつも追加されている。クローゼットを開けば知らない服ばかりが増え、お気に入りだった自室は模様替えをされて知らない誰かの部屋へと変わっている。
 それは肉体を共有する誰かが結子の代わりに別の生活を送っているような感覚で、何も知らない結子は自分の生活が別の誰かの生活に侵食されていくのを見せつけられていた。ただの夢遊病のはずなのに、結子はそれが怖くて怖くて堪らなかった。
 結子の私物はどんどん無くなっていたが、趣味の日記帳だけは手元に残されていた。
 その日、結子は久しぶりに日記帳を手に取った。たった四時間しかない一日の中に、日記へ書くような出来事は何もなかった。しかし、ページを遡り、昔の自分の生活を思い返せばら少しは気が楽になるだろうと思って結子は日記を開いた。
 だが、そこに結子の日記は残されていなかった。 
 書いた覚えのない文字、しかし紛れもなく自分と同じ筆跡。昔書いた過去の日記が一ページずつ消しゴムで消され、その上から新たに日記が綴られている。
 就職が決まったこと。彼氏が出来たこと。引越しを考えていること。
 そして最後に──毎日、深夜に四時間だけ現れる夢遊病に困っていることが記されていた。
 結子は震え、日記を足元に落とした。
 四時間の夢遊病。
 ちがう、私は──
 部屋の隅を見上げると、見覚えのある小さなカメラがこちらを向いていた。知らない誰かが私を見つめている。
 自分は今、自分ではない誰かとして撮られている。
 結子は絶叫し、カメラを叩き落とした。知らない誰かの部屋で暴れ、机をひっくり返し、棚の中のものを出して、部屋の床にぶちまけた。
 ──ちがう。この身体は私のものなんだ。取り憑いているのはアイツの方で、私は病気なだけなんだ。
 結子は落ちたカメラを睨みつける。
 しかし、その脳裏には以前カメラに収められていた夢遊病の症状が思い出される。
 ベッドから起き上がった知らない自分が悲鳴を上げて、部屋中を荒らして回り、その後は糸が切れたようにベッドの中で眠る。そして朝になると、元の結子が目を覚ましてきてカメラを止め、いつもの生活へと戻っていく。
 今の自分が映像の中にいることがハッキリと理解させられた。次の日の朝には夢遊病の症状がカメラには収められているに違いない。結子は日記を掴みとって知らない誰かに激情をぶつけようと思った。しかし、唯一空白だった最後のページには大きくこう書き残されていた。
 ──あなたの人生を、ありがとう。
 ちがう。消えたくない。わたしのからだを返して。
 これは捨てられていた日記。全てのページが消しゴムで書き換えられた凄惨な日記。
 だが、最後のページだけにはそんな霊の怨念のような言葉がびっしりと書き記されていた。
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