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本編
第三話 結花先生と重光先生
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霧島さんは、私を我が家の玄関ホールに文字通り押し込むと、出迎えに出てきた母に一礼して、そのまま帰っていった。
そして私は、玄関ホールにポツンと取り残されたわけだけど、母は今回のことに関しては、いつもと同じで何も言わず、普段通りの優しい笑みを浮かべて「お父さんが、書斎で結花のことを待っているから、行ってあげて」と言うだけだった。
―― こういう時は、ハッキリと叱ってくれた方が、気が楽なんだけどな…… ――
そんなことを考えながら、父親が待っているであろう書斎へと向かった。そしてドアの前で、一息入れて気を引き締めるとノックをする。
「お父さん、結花です」
「どうぞ」
普段と変わらない口調の声が、中から聞こえた。ドアを開けると、窓際にある大きな机の向こう側の椅子に、父が座っていた。読書用の眼鏡をかけて、本を読んでいる。
「ただいま」
「ん……そこに座りなさい」
本の向こう側からのびてきた人差し指が、机の前にあるソファをさした。
大人しく言われた通りにソファに座ったけど、父は本から視線をあげようとしない。仕方がないので、そのまま待つことにする。
母は、父が待っていると言っていたけれど、これはどう考えても、私を待っているうちに、本に夢中になってしまったというパターンだ。もしかしたら本に夢中になりすぎて、すでに私がいることすら忘れているかもしれない。
「その顔からすると、霧島君には、だいぶ絞られたようだな」
それからきっかり十分後、父が本から視線をあげることなく、声をかけてきた。
ああ、この人が忘れることなんてあるはずがないことを、分かっているべきだった。この十分間の放置は、故意的なものだったのだ。理由は私に今回の言い訳を考えさせるためなのか、それとも、何か自分が考えをまとめたいことがあったためなのか。とにかくそういうことなのだ。
「あそこまで言われなきゃいけないこと?」
「お前は、どう思ってるんだ?」
「……そりゃあ、杉下さんにも渉君にも、申し訳ないとは思ってますけど」
「けど?」
「申し訳ないと思ってます」
言い直すと、父親は本に目をやったまま、うなづいた。
「よろしい。それで? 次からはどうするんだ?」
「ちゃんと手順は踏みます。もちろん杉下さんと相談して」
私の答えに、本から目を離すことなく、さらにうなづく。
「そうだ。自分の秘書を信用しろ。彼女なら、お前から無理難題を突きつけられても、きちんと対処できるだけの処理能力を持っている」
「それは経験から言ってるの?」
そこで初めて、父は本から目を離して、私の顔を見つめた。そして口元に、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そんなところだ。そうでなければ、彼女を大事な娘の第一秘書につけようとは思わんだろ。まあ、あっちはあっちで、親子二代で重光家の人間関係で苦労するのは、真っ平御免だと言いたいだろうがな」
パタンと本を閉じて、机の上に置いた。さて、いよいよ本題に入るらしい。
「お前が議員になって二年だが、どうだ? このまま本当に、続けるつもりでいるのか?」
意外な問い掛けにムッとなる。まさか父まで、私が遊び半分で政治家になったと思っているのだろうか。父の跡を継いで立派な政治家になるために、今まで時間を惜しまず勉強してきたと言うのに。
「もしかして私が、遊び感覚で政治家を志したと、思っているの?」
「いや。お前は小さい頃から、政治家になると言っていたからな。そこは本気だと思っているよ。まあ、可愛い秘書を雇ってお嫁さんにするというのは、さすがに無いとは思っているが」
私は覚えていないのだけれど、小さい頃から私はそう言っていたらしい。パパのような政治家になって、ママみたいな可愛い秘書さんを雇ってお嫁さんにするの、と。子供の頃の私は本当に無邪気だったんだなと、自分のことながら感心する。
「秘書をお嫁さんにする発言はともかく、議員は続けていくつもりよ。そのために今まで頑張ってきたんだし、これからも頑張るつもりだから」
「そうか」
父は、なにか考え込みながらうなづいた。
「だったら……次の選挙は、ここから出てみるか?」
「……え?」
「次の選挙」というのは言うまでもなく、来年の夏に控えている衆議院選挙のことだ。そして「ここから」というのは、父が議席を持つ地元の選挙区ということになる。ちなみに私は大人の事情というやつで、他の選挙区で任期半ばで辞職した先輩議員に代わって、その選挙区から立候補して当選し、今に至っていた。
「どうする? 執行部の連中に、それとなく話をしたら、俺と結花次第だと言っていたが?」
「お父さんはどうするの? まさか国替えするつもりでいるとか?」
「まさか。俺は、ここ以外からは出るつもりは無いよ」
私の問い掛けに、父は首を横に振った。
「だったらどうするのよ。比例区にするの?」
「いや。つまりは、お前がここから選挙に出る気があるのであれば、俺は次からは出ないということだ」
「それって引退っていうこと?!」
「七十にもなって、いまさら引退なんて変な言葉だとは思うが、まあそんなところだな」
突然の父の宣言に、思わず言葉を失った。
もしかして、なにか不祥事でも抱えているとか? いやいや、そういう点でなにかあったら、ワイドショーで騒がれるだろうし、こちらの耳にも入ってくるはずだ。じゃあ、祖父がそうだったように、体調を崩したとか? 目の前で悪戯っぽい笑みを浮かべている顔からして、健康そのものに見えるけど、実は深刻な大病を患っているとか?
だいたい七十にもなっていまさらとは言っているけど、国会議員で七十歳なんて年齢は珍しくない。党の執行部には父と同世代の議員は大勢いるし、もっと年長者の議員だっているのだから。
「どうして? 私の知らないところで、なにか都合の悪いことでも起きてるの?」
「どうだろうな。だが、この年になっても思うように妻孝行できないというのは、かなり都合の悪いことなんじゃないかと思うんだが」
その言葉に脱力する。一瞬でも、父のことを真剣に心配して損した。
「聞くのも馬鹿馬鹿しい気がするけど、その辺のことも話したいんでしょ? どうぞ遠慮なく話して」
父はそうかい?と嬉しそうな顔をすると、いそいそと机の向こう側から出てきて、私の前のソファにドカリと腰を下ろした。
「もうすぐ母さん、沙織が還暦だってのは知ってるだろう。沙織には、今まで随分と力になってもらってきた。それこそ秘書として、妻として、そして母親としてだ」
私の母は、もともとは父の私設秘書として働いていた。その後、父と結婚して秘書の職からは離れたけれど、その時の経験もあってか、結婚後も随分と父を助けてきたと聞いている。
「で、ここまで俺は、彼女になにもしてやれていない。まあ、沙織からすれば、そんなことは無いってことらしいが、俺がそう思っているんだから仕方がないだろ? で、お前が議員としてちゃんとやっていけるのであれば、後のことは任せて、楽隠居でもしようかと考えている。どうだ? 旦那の鑑だろ?」
「自分で言う?」
「誰も褒めてくれないんだ、自分で自分を褒めるしかないだろ」
それの何処がいけないんだと言いだけな顔をしている。
「秘書様達の御意見は?」
「やっと、息子達を重労働から解放してやれると、喜んでいるよ」
この場合の秘書様達と言うのは、父が初めて政界に乗り出した時に仕えてくれていた、公設秘書様のお歴々だ。父と同世代と言うことで、すでに一線を退いて、現在はその息子さん達が代わりとなり、父親のために働いてくれている。
ただし、息子達に仕事を任せたとは言っても、その口煩さは健在で、うちの父曰く、未だに息子達の後ろで院政をしいていて、事あるごとに息子達の頭越しから重光先生を罵倒してくるらしい。
「ちゃんとその後の身の振り方は、考えてあげているんでしょうね?」
「その辺は考えているよ。だが竹野内のところの晃君は、お前に異存が無ければ、戦略秘書として残ってくれると言っているが?」
「そうなの?」
うちでは戦略秘書と呼んでいるが、正式な役職名は政策秘書だ。ちなみに晃さんはうちの兄と近い年で、昔から兄とは非常に仲が良く、私のことも実の妹のように可愛がってくれていた。
「かなめちゃんだけを、お前のところに残して秘書業を廃業するのには、抵抗があるんだとさ」
かなめちゃんとは、私の秘書を務めてくれている杉下さんのこと。父の第一秘書をしていた杉下さんの末娘さんで、私より少しだけ年上の女性。結婚した相手の姓も何故か杉下だったので、今も昔も杉下さんという不思議な状態だ。
「なんだかそれって、私が物凄く酷い雇い主みたい」
「酷くないのかい?」
「……酷いです、すみません」
どんな話になっても必ずそこに戻ってくるので、今夜はなんともやりづらい。
「まあそういうわけで、俺の後継者になるってことは、秘書だけではなく、後援会やら古い関係の諸々も引き受けなければならない。厄介な面もいろいろとあるみとは重々承知しているから、無理にとは言わない。その辺のことを良く考えて、返事をしなさい」
「でも、私がお父さんの選挙区から出るのを承知しなかったら、お父さんのお母さん孝行は、先延ばしになるんでしょ?」
私の言葉に、父は少しだけ悲しそうな顔をして笑った。
「まあそうなったら申し訳ないが、沙織にはもう少し我慢してもらうことになる。俺と沙織のことはさておき、もしここから選挙に出るとなれば、俺がお爺さんから引き継いできたものを、お前がすべて背負うことになる。俺のことを支えてくれている地元の有権者のことを考えれば、今までのように後先考えずに行動するようでは、とても任せることはできない。俺の後を継ぐというのは、そういう覚悟も必要になるんだがな。そのあたりは大丈夫なのか?」
そんな父の問い掛けに、溜め息が出てしまった。よりによって、父がそんな話をしようとしていた時に、なにも言わずに姿をくらましてしまったなんて、タイミング悪すぎ……。
「どうやら私、物凄くタイミングが悪い時に、とんずらしちゃったみたいね」
「今回の件が無かったとしてもだ。そろそろ、自覚を持ってもらわないと困るというのが、俺達の本音だ。いつまでも新人気分でいてもらっては困るぞ。野党議員に、父親の影響力を笠に着ているお嬢ちゃん議員だなんて、何度も言われたくないだろう」
父は、なにもかも知っているぞと言わんばかりの顔をした。
それは、前回の国会審議の時に野党議員から飛ばされた野次だった。その時は、中継のカメラが回っていたので、軽蔑し切った一瞥を相手議員にくれてやっただけで、なにも言わずにいた。だけどその後、トイレで悪態をつきながら、サニタリーボックスを思いっ切り蹴飛ばして憂さ晴らしをしたのは、私だけの秘密だったはず。
どうやらその時のことを、誰かに見られるか聞かれるかしたらしい。
「私にできると思う?」
「俺が爺さんの後継者として選挙に出ることになったのも、今のお前と同じ年の時だった。心づもりはそれなりにできてはいたが、随分と苦労したのも事実だ。それに比べたら、お前はすでに議員としての経験を二年間積んでいる。それにかなめちゃんや晃君もついているから、その辺は心配していないよ。だがそうだな、まだ選挙は先のことだし、年内はよく考えなさい。それからあらためて、返事を聞くとしよう」
「分かりました」
私がうなづくと、父はソファの背もたれに体をあずけた。どうやらこれで、今夜の重光先生としての話は終わったようだ。ゆったりと座っているその表情は、すでに父親に戻っている。
「久し振りに帰ってきたんだ。沙織が、明日の朝飯と昼飯は結花の分も用意をすると、うれしそうに言っていたぞ」
「だったら今夜は泊まっていこうかな……」
「母さんも喜ぶから、ぜひともそうしてあげなさい」
「お邪魔じゃないのかしら私」
急に父を昔のようにからかってみたくて、そんな言葉が口を出る。そんな私の問い掛けに、父は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「小さい頃みたいに、いきなり俺達のベッドに潜り込んでこない限りはな」
私は覚えていないのだけれどその昔、両親がベッドで愛し合おうとしていた矢先に、当時幼稚園児だった私が、メソメソしながら寝室に入ってきて、二人の間に割り込んでベッドに潜り込んできたことがあったらしい。しかも、一回だけではなく何度も。
大人になってから、あの時、結花に邪魔をされなければ、弟か妹がいたかもしれないなあと冗談めかしに父に言われたものだけど、今になって思えば、あれはわりと本気で言っていたのでは?と思わないでもない。
「大丈夫よ、今は怖い夢を見ても、お父さん達に泣きつくようなことはしないから」
「だったら、我が家で泊っていくことを許可しよう」
重々しく父が宣言した。そしてお互いにプッと噴き出してしまう。相変わらず、私の両親は非常に仲がよろしいようで、うらやましい限りだ。
そして私は、玄関ホールにポツンと取り残されたわけだけど、母は今回のことに関しては、いつもと同じで何も言わず、普段通りの優しい笑みを浮かべて「お父さんが、書斎で結花のことを待っているから、行ってあげて」と言うだけだった。
―― こういう時は、ハッキリと叱ってくれた方が、気が楽なんだけどな…… ――
そんなことを考えながら、父親が待っているであろう書斎へと向かった。そしてドアの前で、一息入れて気を引き締めるとノックをする。
「お父さん、結花です」
「どうぞ」
普段と変わらない口調の声が、中から聞こえた。ドアを開けると、窓際にある大きな机の向こう側の椅子に、父が座っていた。読書用の眼鏡をかけて、本を読んでいる。
「ただいま」
「ん……そこに座りなさい」
本の向こう側からのびてきた人差し指が、机の前にあるソファをさした。
大人しく言われた通りにソファに座ったけど、父は本から視線をあげようとしない。仕方がないので、そのまま待つことにする。
母は、父が待っていると言っていたけれど、これはどう考えても、私を待っているうちに、本に夢中になってしまったというパターンだ。もしかしたら本に夢中になりすぎて、すでに私がいることすら忘れているかもしれない。
「その顔からすると、霧島君には、だいぶ絞られたようだな」
それからきっかり十分後、父が本から視線をあげることなく、声をかけてきた。
ああ、この人が忘れることなんてあるはずがないことを、分かっているべきだった。この十分間の放置は、故意的なものだったのだ。理由は私に今回の言い訳を考えさせるためなのか、それとも、何か自分が考えをまとめたいことがあったためなのか。とにかくそういうことなのだ。
「あそこまで言われなきゃいけないこと?」
「お前は、どう思ってるんだ?」
「……そりゃあ、杉下さんにも渉君にも、申し訳ないとは思ってますけど」
「けど?」
「申し訳ないと思ってます」
言い直すと、父親は本に目をやったまま、うなづいた。
「よろしい。それで? 次からはどうするんだ?」
「ちゃんと手順は踏みます。もちろん杉下さんと相談して」
私の答えに、本から目を離すことなく、さらにうなづく。
「そうだ。自分の秘書を信用しろ。彼女なら、お前から無理難題を突きつけられても、きちんと対処できるだけの処理能力を持っている」
「それは経験から言ってるの?」
そこで初めて、父は本から目を離して、私の顔を見つめた。そして口元に、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そんなところだ。そうでなければ、彼女を大事な娘の第一秘書につけようとは思わんだろ。まあ、あっちはあっちで、親子二代で重光家の人間関係で苦労するのは、真っ平御免だと言いたいだろうがな」
パタンと本を閉じて、机の上に置いた。さて、いよいよ本題に入るらしい。
「お前が議員になって二年だが、どうだ? このまま本当に、続けるつもりでいるのか?」
意外な問い掛けにムッとなる。まさか父まで、私が遊び半分で政治家になったと思っているのだろうか。父の跡を継いで立派な政治家になるために、今まで時間を惜しまず勉強してきたと言うのに。
「もしかして私が、遊び感覚で政治家を志したと、思っているの?」
「いや。お前は小さい頃から、政治家になると言っていたからな。そこは本気だと思っているよ。まあ、可愛い秘書を雇ってお嫁さんにするというのは、さすがに無いとは思っているが」
私は覚えていないのだけれど、小さい頃から私はそう言っていたらしい。パパのような政治家になって、ママみたいな可愛い秘書さんを雇ってお嫁さんにするの、と。子供の頃の私は本当に無邪気だったんだなと、自分のことながら感心する。
「秘書をお嫁さんにする発言はともかく、議員は続けていくつもりよ。そのために今まで頑張ってきたんだし、これからも頑張るつもりだから」
「そうか」
父は、なにか考え込みながらうなづいた。
「だったら……次の選挙は、ここから出てみるか?」
「……え?」
「次の選挙」というのは言うまでもなく、来年の夏に控えている衆議院選挙のことだ。そして「ここから」というのは、父が議席を持つ地元の選挙区ということになる。ちなみに私は大人の事情というやつで、他の選挙区で任期半ばで辞職した先輩議員に代わって、その選挙区から立候補して当選し、今に至っていた。
「どうする? 執行部の連中に、それとなく話をしたら、俺と結花次第だと言っていたが?」
「お父さんはどうするの? まさか国替えするつもりでいるとか?」
「まさか。俺は、ここ以外からは出るつもりは無いよ」
私の問い掛けに、父は首を横に振った。
「だったらどうするのよ。比例区にするの?」
「いや。つまりは、お前がここから選挙に出る気があるのであれば、俺は次からは出ないということだ」
「それって引退っていうこと?!」
「七十にもなって、いまさら引退なんて変な言葉だとは思うが、まあそんなところだな」
突然の父の宣言に、思わず言葉を失った。
もしかして、なにか不祥事でも抱えているとか? いやいや、そういう点でなにかあったら、ワイドショーで騒がれるだろうし、こちらの耳にも入ってくるはずだ。じゃあ、祖父がそうだったように、体調を崩したとか? 目の前で悪戯っぽい笑みを浮かべている顔からして、健康そのものに見えるけど、実は深刻な大病を患っているとか?
だいたい七十にもなっていまさらとは言っているけど、国会議員で七十歳なんて年齢は珍しくない。党の執行部には父と同世代の議員は大勢いるし、もっと年長者の議員だっているのだから。
「どうして? 私の知らないところで、なにか都合の悪いことでも起きてるの?」
「どうだろうな。だが、この年になっても思うように妻孝行できないというのは、かなり都合の悪いことなんじゃないかと思うんだが」
その言葉に脱力する。一瞬でも、父のことを真剣に心配して損した。
「聞くのも馬鹿馬鹿しい気がするけど、その辺のことも話したいんでしょ? どうぞ遠慮なく話して」
父はそうかい?と嬉しそうな顔をすると、いそいそと机の向こう側から出てきて、私の前のソファにドカリと腰を下ろした。
「もうすぐ母さん、沙織が還暦だってのは知ってるだろう。沙織には、今まで随分と力になってもらってきた。それこそ秘書として、妻として、そして母親としてだ」
私の母は、もともとは父の私設秘書として働いていた。その後、父と結婚して秘書の職からは離れたけれど、その時の経験もあってか、結婚後も随分と父を助けてきたと聞いている。
「で、ここまで俺は、彼女になにもしてやれていない。まあ、沙織からすれば、そんなことは無いってことらしいが、俺がそう思っているんだから仕方がないだろ? で、お前が議員としてちゃんとやっていけるのであれば、後のことは任せて、楽隠居でもしようかと考えている。どうだ? 旦那の鑑だろ?」
「自分で言う?」
「誰も褒めてくれないんだ、自分で自分を褒めるしかないだろ」
それの何処がいけないんだと言いだけな顔をしている。
「秘書様達の御意見は?」
「やっと、息子達を重労働から解放してやれると、喜んでいるよ」
この場合の秘書様達と言うのは、父が初めて政界に乗り出した時に仕えてくれていた、公設秘書様のお歴々だ。父と同世代と言うことで、すでに一線を退いて、現在はその息子さん達が代わりとなり、父親のために働いてくれている。
ただし、息子達に仕事を任せたとは言っても、その口煩さは健在で、うちの父曰く、未だに息子達の後ろで院政をしいていて、事あるごとに息子達の頭越しから重光先生を罵倒してくるらしい。
「ちゃんとその後の身の振り方は、考えてあげているんでしょうね?」
「その辺は考えているよ。だが竹野内のところの晃君は、お前に異存が無ければ、戦略秘書として残ってくれると言っているが?」
「そうなの?」
うちでは戦略秘書と呼んでいるが、正式な役職名は政策秘書だ。ちなみに晃さんはうちの兄と近い年で、昔から兄とは非常に仲が良く、私のことも実の妹のように可愛がってくれていた。
「かなめちゃんだけを、お前のところに残して秘書業を廃業するのには、抵抗があるんだとさ」
かなめちゃんとは、私の秘書を務めてくれている杉下さんのこと。父の第一秘書をしていた杉下さんの末娘さんで、私より少しだけ年上の女性。結婚した相手の姓も何故か杉下だったので、今も昔も杉下さんという不思議な状態だ。
「なんだかそれって、私が物凄く酷い雇い主みたい」
「酷くないのかい?」
「……酷いです、すみません」
どんな話になっても必ずそこに戻ってくるので、今夜はなんともやりづらい。
「まあそういうわけで、俺の後継者になるってことは、秘書だけではなく、後援会やら古い関係の諸々も引き受けなければならない。厄介な面もいろいろとあるみとは重々承知しているから、無理にとは言わない。その辺のことを良く考えて、返事をしなさい」
「でも、私がお父さんの選挙区から出るのを承知しなかったら、お父さんのお母さん孝行は、先延ばしになるんでしょ?」
私の言葉に、父は少しだけ悲しそうな顔をして笑った。
「まあそうなったら申し訳ないが、沙織にはもう少し我慢してもらうことになる。俺と沙織のことはさておき、もしここから選挙に出るとなれば、俺がお爺さんから引き継いできたものを、お前がすべて背負うことになる。俺のことを支えてくれている地元の有権者のことを考えれば、今までのように後先考えずに行動するようでは、とても任せることはできない。俺の後を継ぐというのは、そういう覚悟も必要になるんだがな。そのあたりは大丈夫なのか?」
そんな父の問い掛けに、溜め息が出てしまった。よりによって、父がそんな話をしようとしていた時に、なにも言わずに姿をくらましてしまったなんて、タイミング悪すぎ……。
「どうやら私、物凄くタイミングが悪い時に、とんずらしちゃったみたいね」
「今回の件が無かったとしてもだ。そろそろ、自覚を持ってもらわないと困るというのが、俺達の本音だ。いつまでも新人気分でいてもらっては困るぞ。野党議員に、父親の影響力を笠に着ているお嬢ちゃん議員だなんて、何度も言われたくないだろう」
父は、なにもかも知っているぞと言わんばかりの顔をした。
それは、前回の国会審議の時に野党議員から飛ばされた野次だった。その時は、中継のカメラが回っていたので、軽蔑し切った一瞥を相手議員にくれてやっただけで、なにも言わずにいた。だけどその後、トイレで悪態をつきながら、サニタリーボックスを思いっ切り蹴飛ばして憂さ晴らしをしたのは、私だけの秘密だったはず。
どうやらその時のことを、誰かに見られるか聞かれるかしたらしい。
「私にできると思う?」
「俺が爺さんの後継者として選挙に出ることになったのも、今のお前と同じ年の時だった。心づもりはそれなりにできてはいたが、随分と苦労したのも事実だ。それに比べたら、お前はすでに議員としての経験を二年間積んでいる。それにかなめちゃんや晃君もついているから、その辺は心配していないよ。だがそうだな、まだ選挙は先のことだし、年内はよく考えなさい。それからあらためて、返事を聞くとしよう」
「分かりました」
私がうなづくと、父はソファの背もたれに体をあずけた。どうやらこれで、今夜の重光先生としての話は終わったようだ。ゆったりと座っているその表情は、すでに父親に戻っている。
「久し振りに帰ってきたんだ。沙織が、明日の朝飯と昼飯は結花の分も用意をすると、うれしそうに言っていたぞ」
「だったら今夜は泊まっていこうかな……」
「母さんも喜ぶから、ぜひともそうしてあげなさい」
「お邪魔じゃないのかしら私」
急に父を昔のようにからかってみたくて、そんな言葉が口を出る。そんな私の問い掛けに、父は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「小さい頃みたいに、いきなり俺達のベッドに潜り込んでこない限りはな」
私は覚えていないのだけれどその昔、両親がベッドで愛し合おうとしていた矢先に、当時幼稚園児だった私が、メソメソしながら寝室に入ってきて、二人の間に割り込んでベッドに潜り込んできたことがあったらしい。しかも、一回だけではなく何度も。
大人になってから、あの時、結花に邪魔をされなければ、弟か妹がいたかもしれないなあと冗談めかしに父に言われたものだけど、今になって思えば、あれはわりと本気で言っていたのでは?と思わないでもない。
「大丈夫よ、今は怖い夢を見ても、お父さん達に泣きつくようなことはしないから」
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