私の主治医さん - 二人と一匹物語 -

鏡野ゆう

文字の大きさ
上 下
2 / 35
本編

第二話 一人と一匹を診察

しおりを挟む
 水を吸って重たくなった服は、洗えるものは洗って乾燥機で乾かしてきますねと、着替えを手伝ってくれた看護師さんが持ち去ってしまい、残された私は、人気のない診療室のベッドに座って、お茶を飲みながら、あらためて周りを見回した。資料でしか見たことのない医療器具が、あっちこっちに置かれている。

 ここは、よくドラマで見るような救命救急センターそのものだ。後々のために、スケッチをしておきたいなと思ったけど、カバンは水浸しで、使えるような筆記具もメモ帳も残っていない。だからせめて、今のうちにしっかりと目に焼き付けておかなければと、人がいないのを良いことに、あっちこっちに視線を巡らせた。

 そんなことをしているうちに、廊下から子猫の鳴き声が聞こえてきて、最初に出迎えてくれた先生が顔を出した。

「もし良ければ、こっちの控室に来なさい。ヒーターを入れておいたから、ここより温かいはずだ」

 ぶっきらぼうな口調でそう言うと、私のことを手招きした。

 慌ててベッドから降りると、出してもらったスリッパを履き、重たくなったカバンと、お茶が入っているプラスチック製のコップを持って、先生の後ろについていくことにする。廊下を歩く間も子猫は鳴き続け、先生が「腹が減っているのは分かるが、いい加減に静かにしないか」と話しかけているのがおかしくて、つい笑ってしまった。それが聞こえたのか、振り返った先生が顔をしかめる。

「笑いごとじゃない。衛生面からすると動物、しかも野良猫を院内に入れることは非常にまずい。バレたら大問題になる」
「すみません……」
「いや……まあそれはこっちの問題だし、助けた命を放り出すわけにはいかないから、特例扱いにはなるんだろうが」
東出ひがしで先生、これ、猫の簡易ベッドにどうぞ」

 先生が気まずそうに頭を掻いていると、若い先生が小走りにやってきて、タオルの入った小さな段ボール箱を差し出してきた。その先生が、私を見て軽く会釈をしたので、私も頭を下げる。

「助かる。猫用物資はまだか?」
「これから引き返すって連絡が入りましたから、あと十分程度で戻ってきますよ。ペット用のウェットティシュもあったと言ってたので、猫を綺麗にしてやれると思います」
「……その世話も俺がやるのか?」
「そうですね、先生が担当医ですから」
「俺は獣医科の医師じゃないんだがな……」

 段ボール箱を受け取ると、先生は顔をしかめながら、大きな溜め息をついた。

「じゃあ、僕は救急のほうで詰めています」
「なにかあれば遠慮なく声をかけろ。吉永よしながさんがこっちに戻ってきたら、一人と一匹は控室Bにいると伝えてくれ」
「分かりました。じゃあ、お大事に」

 若い先生は、もう一度、私に頭を下げて立ち去った。そして先生が連れてきてくれたのは、壁際に二段ベッドが設置されているそこそこ広い部屋。テレビだけではなく本棚もあって、誰かが読んだであろう漫画雑誌が、テーブルに放り出されていた。

「君が一人なら、診療室で服が乾くまで待っていてもらうんだが、猫もいるのでな。申し訳ないが、ここにいてもらうことにした」

 そう言いながら、窓際の引き出しから大きなゴミ袋を引っ張り出し、私に突き出してくる。

「?」
「カバン、そのままにしておいたら、床に水溜りができて後の掃除が大変だから、乾かしたいものだけテーブルの上に出して、あとはこれに入れておけ」
「あ、すみません」

 ゴミ袋を受け取ると、カバンをそのまま放り込む。

「良いのか? 携帯電話とか財布とか」
「どのみち、もう使い物にならないでしょうから……」

 私の言葉に納得したようにうなづくと、先生はテーブルを挟んで反対側に座り、段ボールの小箱をテーブルに置いてから、鳴き続ける子猫をタオルで拭き始めた。見た感じ、いかつくて大柄な先生だったから、子猫が乱暴に扱われたらどうしようって内心は心配していたけど、意外と優しい手つきなので安心した。

「ところで、この猫はどうするんだ?」
「うちがペット可のアパートなので、引き取るつもりです」
「そうか、なら安心だな。……いや待て。これだけ小さかったら、そこそこ育つまで世話が大変で、外出もままならなくなるんじゃないのか? そのへんは大丈夫なのか?」
「在宅の仕事なので問題ないですよ。それに、前にもこのぐらいの小さい子の、お世話をしたことがありますから」
「なるほど」

 ドアがノックされて、また違う先生が顔を出した。その手にはレジ袋がぶら下がっている。

「お待たせしました。猫ちゃん用のミルクとウェットティシュです。さすがに哺乳瓶は売ってなかったんで、これ、使えるんじゃないかって葛西かさいが。あ、ちゃんと念入りに消毒しておいたから、心配ないって言ってました」

 先生が手にしているのは、よくコンビニ弁当に入っている、お魚の形をした醤油入れ。

「うちの救命救急が動物病院化しているな……」
「私、ミルクの用意しますね。ありがとうございます。後でお代金お返ししますから」
「いやいや、このぐらいどうってことないから、気にしないでください。じゃあ、お大事に」

 先生はにっこりと微笑むと、部屋から出ていった。

「あとのお世話は私がしますから、先生はお仕事に戻ってください」
「綺麗にするぐらいなら、俺にもできる」

 そう言って先生は、レジ袋の中からウェットティシュを引っ張り出した。

「ところで、なんでまた、猫と一緒に川に流されることになったんだ? まあ、だいたいの見当はつくんだが」

 目やにが凄いことになっているぞと言いながら、子猫の顔を拭いていた先生から、いきなり質問が飛んできた。

「えっと、実は今している仕事で、ちょっと煮詰まってしまって。夜明け前に近所のファミレスに行って、その帰り河川敷を散歩していたんです。そしたら、その子の鳴き声が聞こえて。探したら、段ボール箱ごと流されてるのを見つけたので……」
「鳴いていたのはこいつ一匹だけ?」
「もしかしたら、他にも兄弟がいたのかもしれないんですけど、私が見つけた時はこの子だけでした」
「そうか。こいつは運が良かったんだな」

 私が見つける前に、溺れ死んだ子がいるかもしれないと思うと辛いけど、この子だけでも、助けられて良かったと思う。

「だが、増水した川に単身で踏み込むとは、愚の骨頂だな。猫を助けたい気持ちは分からんでもないが、この場合は119に通報するべきだった。君もこの猫も運よく助かったから良かったものの、新聞配達をしていた人が見つけてくれなかったら、そのまま溺死していたかもしれないんだぞ」
「……すみません。あんなに川の流れが強いとは思わなくて……」
「まあ、気持ちは分からんでもないが……うわっ」

 顔をしかめていた先生が、慌てた様子で両手で子猫を持ち上げた。タラタラと子猫から垂れている水。多分おしっこだ。

「まったく、お前ってやつはせっかく綺麗にしてやったのに、なんで尿を漏らすんだ……ミャーじゃないぞまったく」
「先生、おしっこが出るところを拭いていたでしょ? 子猫って、最初の頃は親猫が嘗めて刺激を与えないと、おしっこもうんちもしないんですよ」
「つまりはこの惨状は、猫のせいではなく俺のせいと言うわけだな……」
「そういうことですね。あ、私が代わります」
「やれやれ、慣れないことはするもんじゃないな」

 先生はぼやきながら、子猫を私に差し出した。丁寧に拭いてもらったお蔭で、ずぶ濡れだった体も随分と乾いたようだし、目やにだらけだった顔も綺麗になっている。明日にでも本当の獣医さんに連れて行かなくちゃ。あ、その前に銀行でお金を下ろさなきゃ……水に浸かったキャッシュカードは、ちゃんと使えるかな……?

「すまないが、着替えてくるので席をはずすが、大丈夫か?」

 気がつけば、立ち上がった先生がこっちを見下ろしていた。

「ミルクを飲ませて、ヒーターの前に箱を置いて暖かくしていたら、大丈夫だと思います」
「猫じゃなくて、君のことを尋ねたんだが……」
「あ、ごめんなさい。私もお蔭さまで大丈夫です!」

 部屋を出ようとした先生が立ち止まる。

「ああ、そう言えばまだ名前も聞いていなかったな。そちらの名前は? 猫ではなく人間の」
猫田ねこだです。猫田ねこだめぐみ
「猫……」

 先生が口元が歪んだ。

「人に名前を聞いておいて、笑うことないじゃないですか、たしかに変わった苗字だとは思いますけど。えーっと、先生は……と……とう、でる?」

 先生が首から下げている、IDカードに印字された文字を読もうとして、首をかしげる。下にローマ字で読み仮名が書いてあるんだけど、反射してここからじゃ読めない。

「ひがしで、だ」
「ああ、東出ひがしでって読むんですね、なるほど」

 それから看護師さんが服を届けてくれるまで、私は控室で子猫と一緒に隠れていることになった。子猫がここにいることは秘密のはずなのに、なぜか看護師さんが差し入れと称しては、ひっきりなしにやってきて箱の中を覗き込んでいく。子猫はちょっとしたアイドル扱いだった。


+++++


 それからしばらくして、着替えを手伝ってくれた看護師さんが乾いた服と、裸足よりはマシだからと、ナース用のサンダルを持ってきてくれた。はあ……あの靴お気に入りだったのに、今頃どの辺を流れているんだろう。

 子猫はお腹がいっぱいになったのか、今は大人しく箱の中で丸くなって眠っている。東出先生が箱ごと入れていけと、まちの広い紙袋を持ってきてくれたので、そこに入れて連れて帰ることにした。

「色々とありがとうございました。その、専門外だったのに」
「まあこ、ういうこともたまにはあるさ」

 先生に伴われて病院の玄関口に向かうと、すでに外は明るくなっていた。

「もし気分が悪くなったら、ここじゃなくても良いから病院に行くように。川の水には、どんな菌が潜んでいるのか分かったものじゃないからな」
「はい」
「支払いに関しては、猫の世話もあるだろうし、都合のつく時でかまわないから慌てなくていい」
「ありがとうございます」

 ドアのところで、お世話になりましたと頭を下げて立ち去ろうとしたのに、東出先生はそのまま後ろからついてきた。

「あの……?」

 エントランスに一台のタクシーが入ってきて、私達の前に止まった。

「さすがに、重たいカバンと猫を連れて、歩いて帰るわけにもいかないだろ。乗ってけ」
「え、でも私、今はお金が……」

 東出先生は運転席の方へと回り込むと、ポケットから出した紙幣を何枚か、運転手さんに手渡している。

「自宅が何処かは知らんが、これだけあれば充分だろ。うちの大切な患者さんだ、よろしく頼みます」
「分かりました。お嬢さん、どうぞ」
「あの、ちゃんと返しますから!」
「あてにせずに待ってる」
「いえ、本当にちゃんと返しますからね!」
「分かった分かった。さっさと帰って、猫の世話をしてやれ」

 先生はうるさそうに手を振ると、私がタクシーに乗り込むのを見届けることなく、病院内へと引き返していった。
しおりを挟む
感想 18

あなたにおすすめの小説

僕の主治医さん

鏡野ゆう
ライト文芸
研修医の北川雛子先生が担当することになったのは、救急車で運び込まれた南山裕章さんという若き外務官僚さんでした。研修医さんと救急車で運ばれてきた患者さんとの恋の小話とちょっと不思議なあひるちゃんのお話。 【本編】+【アヒル事件簿】【事件です!】 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中※

白衣の下 先生無茶振りはやめて‼️

アーキテクト
恋愛
弟の主治医と女子大生の恋模様

生きづらい君に叫ぶ1分半

小谷杏子
青春
【ドリーム小説大賞応募作】 自分に自信がなく宙ぶらりんで平凡な高校二年生、中崎晴はお気に入りの動画クリエイター「earth」の動画を見るのが好きで、密かにアフレコ動画を投稿している。 「earth」はイラストと電子音楽・過激なメッセージで視聴者を虜にする人気クリエイターだった。 そんなある日、「earth」のイラストとクラスメイトの男子・星川凪の絵画が似ていることに気が付く。 凪に近づき、正体を探ろうと家まで押しかけると、そこにはもう一人の「earth」である蓮見芯太がいた。 イラスト担当の凪、動画担当の芯太。二人の活動を秘密にする代わりに、晴も「earth」のメッセージに声を吹き込む覆面声優に抜擢された。 天才的な凪と、天才に憧れる芯太。二人が秘める思いを知っていき、晴も自信を持ち、諦めていた夢を思い出す。 がむしゃらな夢と苦い青春を詰め込んだ物語です。応援よろしくお願いします。

【光陵学園大学附属病院】鏡野ゆう短編集

鏡野ゆう
ライト文芸
長編ではない【光陵学園大学附属病院】関連のお話をまとめました。 ※小説家になろう、自サイトでも公開中※

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同期に恋して

美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務  高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部 同期入社の2人。 千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。 平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。 千夏は同期の関係を壊せるの? 「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。

冷たい外科医の心を溶かしたのは

みずほ
恋愛
冷たい外科医と天然万年脳内お花畑ちゃんの、年齢差ラブコメです。 《あらすじ》 都心の二次救急病院で外科医師として働く永崎彰人。夜間当直中、急アルとして診た患者が突然自分の妹だと名乗り、まさかの波乱しかない同居生活がスタート。悠々自適な30代独身ライフに割り込んできた、自称妹に振り回される日々。 アホ女相手に恋愛なんて絶対したくない冷たい外科医vsネジが2、3本吹っ飛んだ自己肯定感の塊、タフなポジティブガール。 ラブよりもコメディ寄りかもしれません。ずっとドタバタしてます。 元々ベリカに掲載していました。 昔書いた作品でツッコミどころ満載のお話ですが、サクッと読めるので何かの片手間にお読み頂ければ幸いです。

好きだった幼馴染に出会ったらイケメンドクターだった!?

すず。
恋愛
体調を崩してしまった私 社会人 26歳 佐藤鈴音(すずね) 診察室にいた医師は2つ年上の 幼馴染だった!? 診察室に居た医師(鈴音と幼馴染) 内科医 28歳 桐生慶太(けいた) ※お話に出てくるものは全て空想です 現実世界とは何も関係ないです ※治療法、病気知識ほぼなく書かせて頂きます

処理中です...