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本編
第十四話 杏奈さん謎のお婆ちゃんに出会う
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五時半になって終業のチャイムが鳴る中、座ったまま大きく伸びをした。久し振りに広報誌の入稿作業をしたら、肩がこっちゃったよ。
「あー、肩こったぁ。今週は久し振りに、広報課らしい事務仕事をした感じですよ」
「ここしばらく、マツラー君で忙しかったものね」
年末年始は、あちらこちらのイベントにマツラー君は呼ばれたので、三体総動員で各地を回った。ちなみに私は関東一帯で、あっちに行ったりこっちに行ったり。二号君は東北から北海道へ、三号君は関西から九州へ、それぞれマスコットキャラが参加するイベントに参加。仕事納めって何日でしたっけ?な感じで、気がつけば新しい年になっていた。そのお蔭か、広報課には御当地お菓子のおみやげがあふれていて、隣の秘書課の人達が、こっそりとおやつの時間にやってくるほど。もちろんお菓子はトレード制。
「武藤さんはどうするんですか? まだ代休も有給も、残ってますよね」
「うん。ただ三月に子供達の卒業式があるでしょ? あの時に使わせてもらおうかなって、考えているから」
「なるほどー。お子さん、いよいよ中学生なんですね~」
「高校受験が視野に入ってきて心配だわ……進路に関してものらりくらりで、何も考えてないみたいなのよね」
「まだ早いですよ、小学生なんだし」
「三年間なんてあっという間よ~~」
武藤さんはお子さんがいるから、年末年始の休みを返上することはなかったんだけど、そのかわりと言って、なかなか手をつけられない事務仕事を一手に引き受け、留守番をしながら粛々と処理してくれていた。武藤さんがいなかったら、広報課は一体どうなっていたんだろうねって、仕事納めの日にみんなで拝んでしまったほど。お蔭で私もマツラー君も楽させてもらいましたよ、感謝感謝。
「立原さんは明日から代休なんだっけ?」
広島名物もみじまんじゅうを食べながら、東雲さんが声をかけてきた。机の上に山盛りになっているお菓子。このもみじまんじゅうも、佐伯さんがいたら、きっと喜ぶだろうなあ……。
「はい、季節はずれのお正月休みです」
「じゃあ、やっとカレシさんとデートができるってわけだね」
「あー……」
「ん? 違うの?」
「私のカレシさんは少し遠くに行っているみたいで、しばらく連絡がとれないんですよ」
「え、そうなんだ。それってどれぐらい、連絡がとれなくなるものなんだい?」
「下手したら、二ヶ月ぐらいになるんじゃないかなって話です」
東雲さんは、私の言葉に目を丸くした。そりゃそうだよね、普通の恋人同士なら、会えなくても電話で話すぐらいできそうだって思われそうだもの。
だけど、私のカレシさんは海の男で、現在はどこかの海のど真ん中にいるはず。護衛艦の中には、一応、公衆電話はあるということだけど、海の真ん中ではつながりそうにない。あと、衛星回線というSF映画のような通信手段もあるらしいけど、当然のことながらそれだって緊急用。そんなわけで、どこかの港に立ち寄らない限り、音信不通なのだ。いや、もしかしたら立ち寄っても音信不通なのかも。寺脇さんの奥さんが、今回は行動制限もあるみたいよって、言っていたから。
「電話もなし?」
「基本的には」
「それって……寂しくない?」
「寂しくないって言えば嘘になりますけど、どちらかと言えば心配の方が先かな。行った先で事故とか病気にならないかとか、そっちの方で」
「連絡がつかないっていうのはつらいねえ。あ、じゃあさ、気晴らしに今度の休みに映画でも行かない? ほら、何とかっていうファンタジー物の新作、観たいって言ってたよね」
東雲さんは何気ない口調でそう言っただけなのに、なぜか佐伯さんが言っていた言葉が頭の中をよぎった。
= あの背の高いお兄さんが近くにいる事の方が不安なんだけどな =
こちらの返事を待っている東雲さんの顔を見ても、別に変な下心があるような感じには見えなくて、いつもの面倒見の良い先輩の顔をしている。だけど佐伯さんが心配だなって言っていたのは、こういうことなのかなって急に思い至っちゃって、この場合はお断りしておいた方が良いのかな?って思えてきた。それにこの映画、佐伯さんも観たいって言ってたんだよね。だからレンタル出てから、一緒に観ようかなとも思っていたし。
「あー。その映画は、友達と行く約束しちゃったんですよ~」
「そうなのか、残念。じゃあ、どこかで夕飯でもどう? カレシさんと会えないと寂しいだろ?」
「それがですね、実のところ、あまり寂しいがってるヒマもなさそうなんですよ。佐伯さんの同僚さんの、奥様方とお知り合いになる機会がありまして、何気にお誘いが増えているんです。これって逃がさないわよっていう、意思表示なんですかね」
これは本当。カレンダー上の年末に、寺脇さんの奥さんに誘われて夕飯を食べに行ったら、何故か、同じ護衛艦の艦橋勤務をしている他の人達の奥様方が、次々と現れた。口では皆「あら偶然よねー、ここはよく来る所お店だものねー」なんて言っていたけど、そんな都合の良い偶然なんてそうそうあるわけない。つまりは偶然を装った確信犯に決まっているわけ。こんな奥様包囲網ってやつに囲まれて、まだお試しなんですよなんていう理屈が通るんだろうか?と、ちょっと心配になってくる。
「なかなか凄いことになってるんだね、立原さんの周辺」
「なかなか凄いっていうか、面白い人が多くで楽しいんですけどね。それに無碍断ると、佐伯さんの立場が悪くなったら困りますし」
「困ってるってわけじゃなさそうだね……」
「はい。それなりに楽しんでます。お子さん達には私の正体はマツラー君って話になっていて、尊敬の目で見られてますし」
小さい子達には中の人なんて言っても理解できなくて、あれこれ話しているうちに、何故か「あんなちゃんは、じつはまつらーくんなのだ」ということで落ち着いてしまった。まつらー君が私、ではなく、私がまつらー君というのは、ちょっとおかしいような気はするんだけど。
「で、明日はその奥さんのお一人と一緒に、海難よけの神様にお参り行くんですよ。船乗りさんのカレシ持ちらしいでしょ?」
「へえ、そんなところがあるんだ」
「はい」
「ふーん。すっかりカレシさんや周辺の人達と、家族みたいになっちゃってるね」
「ですよねー。私もまさか、海難避けのお参りをすることになるとは、去年の今頃は思いもしませんでした。じゃ、お疲れ様でした。お休みの間のことは、よろしくお願いします。何か分からないことがあったら、携帯のメールにでも入れておいてください」
「分かったよ。ゆっくり休んで」
んー……? なんだろう、この何とも言えない空気。東雲さんの視線を背中に感じながら、部屋を出た。
+++++
『ごめんね、せっかく予定あけてくれたのに』
次の日の朝、寺脇さんの奥さん、奈美子さんから電話がかかってきた。朝になって、チビちゃんが急に熱を出したとか。小さい子って、急に体調が変わったりするので大変だったと、武藤さんが話していたことがあるのを覚えていたので、お大事にってことで電話を切る。ま、でも行き方は調べて分かっているし、行こうって話していたのを急に取り止めたりしたら、神様が怒っちゃうって話を小耳にはさんだことがあるので、一人で出掛ける準備をして家を出た。
行き先は虎ノ門にある金刀比羅宮。平日の午前中ということもあって、ビルの谷間にある神社の境内は人の姿も少なく、休み時間を利用してマッタリしているサラリーマンさんの姿もない。あまり騒がしいより、このぐらい静かな方が良いかもと思いながら本殿に向かうと、参道の途中のベンチにお婆ちゃんが座っていた。何となく目がそちらに行ってしまっていたら、お婆ちゃんがこちらを向いてニッコリと微笑んだので、思わず会釈してしまった。
ま、まさか知り合いじゃないよね? だけどどこかで会ったことがあるような気も。誰だったかな。そんなことを考えながら本殿でお参りをして戻ってくると、まだお婆ちゃんはそこに座っていて、私のことを見て再び微笑んだ。
「おはよう。もしかして、どなたかの安全祈願?」
私が思わず立ち止まると、声をかけてきた。
「あ、はい。航海安全の祈願に」
「お知り合いが船乗りさんなの?」
「まあ、お付き合いしている人なんですけど」
「ああ。カレシさん、ってことかしら?」
「そんなところです」
お座りなさいなとベンチの隣を手で軽く叩いたので、万が一、どこかで会っている役所関係の偉い人だったら困るので、おとなしくそれに従った。ほら、偉い先生のお母さんがどこかの外郭団体の理事とか、知事さんの奥さんが設立に尽力した市民団体の理事をしているとか、そういう可能性もあるし。ここは色々な企業の入ったビルがたくさん立ち並んでいるから、どこで誰の関係者と会うか、分かったもんじゃないものね。
「珍しいわね、あなたみたいなお若い人が、ここにお参りに来るなんて」
「そうなんですか? 交通安全のお守りを車にぶら下げているので、普通だと思っていたんですけれど。兄が消防士なので、火難除けに愛宕神社にお参りに行ったこともあるんですよ。最近はサボり気味で、兄のカノジョさん任せですけど」
「あら、そちらも感心ね。信心深い御家族だこと」
「危険な職業についていると、周囲の家族はこれぐらいしかできませんからね」
兄貴が消防士になるって言い出したのは、いつだったか。多分、尊敬していた高校の先輩が消防士になったのが大きいんだけど、そりゃもう母親は大反対だった。って言うのも、母親の親戚にも消防士になった人がいて、仕事中に亡くなっていたから。
もちろん兄貴は、母親のそんな言い分を押し切って今に至るけど、とにかくなり立ての頃は、母親は毎週のようにお参りに行ってたっけ。今ではさすがに落ち着いたのか、お参りに行くのは、半年に一度とか一年に一度になっている。随分と扱いが軽くなったよな俺、なんて兄貴は笑っているけどね。母親の信心のお蔭か本人が優秀だったのか、兄貴は今も怪我一つすることなく、元気に消防士をやっている。
「たしかにそうね、こっちがいくら心配しても、本人が望んで進んだ道ですものねえ」
「そちらも?」
「息子と孫がね、やっぱり船乗りなのよ。この勢いだとひ孫も船乗りになって、船乗り三代になるかもしれないわ」
「それはすごいですね!」
お婆ちゃんは困ったものよねと呟きながら、ため息をついた。
「まったくねえ。こっちが苦労しているのを見ていたから、違う道を進んでくれると期待したんだけど。男って困った生き物だわ」
「ひ孫さんも、ですか?」
「まだ小さいから分からないけれど、私の勘、良く当たるのよ。あなたのカレシさんも船乗りなのよね、留守がちなんでしょ? 寂しくない?」
「もちろん寂しいですよ。ですけど仕事の都合で会えないのは、どのカップルさんでもあることですし、たまたま私達のところは、会えない時間が長いっていうか頻繁っていうか。今は会えないなりに、楽しい思い出作りをしようと、お互いに創意工夫中ってところです。だから今日のお参りのことも、メールで送るつもりなんですよ」
「なかなかたくましいのね、あなた」」
「そうですか? あ、そうだ。もしよろしければ、一緒に写真撮ってもらえますか? お参りした時に会いましたって、相手に送りたいので」
「あら、素敵」
そんなわけで、私とお婆ちゃんは一緒に写真を撮った。
うちも親子三代の船乗り目指してみようかなって呟いたら、お婆ちゃんはとても楽しそうに笑っていた。それからお別れをして自宅に戻ってから、写真をメールに添付して佐伯さん宛に送る。もしかしたら金毘羅宮の御利益よりも、見ず知らずのお婆ちゃんとの写真の方が、私達にとっては御利益があるんじゃ?なんて、ちょっと罰当たりなことを考えてしまったのは秘密だ。
「あー、肩こったぁ。今週は久し振りに、広報課らしい事務仕事をした感じですよ」
「ここしばらく、マツラー君で忙しかったものね」
年末年始は、あちらこちらのイベントにマツラー君は呼ばれたので、三体総動員で各地を回った。ちなみに私は関東一帯で、あっちに行ったりこっちに行ったり。二号君は東北から北海道へ、三号君は関西から九州へ、それぞれマスコットキャラが参加するイベントに参加。仕事納めって何日でしたっけ?な感じで、気がつけば新しい年になっていた。そのお蔭か、広報課には御当地お菓子のおみやげがあふれていて、隣の秘書課の人達が、こっそりとおやつの時間にやってくるほど。もちろんお菓子はトレード制。
「武藤さんはどうするんですか? まだ代休も有給も、残ってますよね」
「うん。ただ三月に子供達の卒業式があるでしょ? あの時に使わせてもらおうかなって、考えているから」
「なるほどー。お子さん、いよいよ中学生なんですね~」
「高校受験が視野に入ってきて心配だわ……進路に関してものらりくらりで、何も考えてないみたいなのよね」
「まだ早いですよ、小学生なんだし」
「三年間なんてあっという間よ~~」
武藤さんはお子さんがいるから、年末年始の休みを返上することはなかったんだけど、そのかわりと言って、なかなか手をつけられない事務仕事を一手に引き受け、留守番をしながら粛々と処理してくれていた。武藤さんがいなかったら、広報課は一体どうなっていたんだろうねって、仕事納めの日にみんなで拝んでしまったほど。お蔭で私もマツラー君も楽させてもらいましたよ、感謝感謝。
「立原さんは明日から代休なんだっけ?」
広島名物もみじまんじゅうを食べながら、東雲さんが声をかけてきた。机の上に山盛りになっているお菓子。このもみじまんじゅうも、佐伯さんがいたら、きっと喜ぶだろうなあ……。
「はい、季節はずれのお正月休みです」
「じゃあ、やっとカレシさんとデートができるってわけだね」
「あー……」
「ん? 違うの?」
「私のカレシさんは少し遠くに行っているみたいで、しばらく連絡がとれないんですよ」
「え、そうなんだ。それってどれぐらい、連絡がとれなくなるものなんだい?」
「下手したら、二ヶ月ぐらいになるんじゃないかなって話です」
東雲さんは、私の言葉に目を丸くした。そりゃそうだよね、普通の恋人同士なら、会えなくても電話で話すぐらいできそうだって思われそうだもの。
だけど、私のカレシさんは海の男で、現在はどこかの海のど真ん中にいるはず。護衛艦の中には、一応、公衆電話はあるということだけど、海の真ん中ではつながりそうにない。あと、衛星回線というSF映画のような通信手段もあるらしいけど、当然のことながらそれだって緊急用。そんなわけで、どこかの港に立ち寄らない限り、音信不通なのだ。いや、もしかしたら立ち寄っても音信不通なのかも。寺脇さんの奥さんが、今回は行動制限もあるみたいよって、言っていたから。
「電話もなし?」
「基本的には」
「それって……寂しくない?」
「寂しくないって言えば嘘になりますけど、どちらかと言えば心配の方が先かな。行った先で事故とか病気にならないかとか、そっちの方で」
「連絡がつかないっていうのはつらいねえ。あ、じゃあさ、気晴らしに今度の休みに映画でも行かない? ほら、何とかっていうファンタジー物の新作、観たいって言ってたよね」
東雲さんは何気ない口調でそう言っただけなのに、なぜか佐伯さんが言っていた言葉が頭の中をよぎった。
= あの背の高いお兄さんが近くにいる事の方が不安なんだけどな =
こちらの返事を待っている東雲さんの顔を見ても、別に変な下心があるような感じには見えなくて、いつもの面倒見の良い先輩の顔をしている。だけど佐伯さんが心配だなって言っていたのは、こういうことなのかなって急に思い至っちゃって、この場合はお断りしておいた方が良いのかな?って思えてきた。それにこの映画、佐伯さんも観たいって言ってたんだよね。だからレンタル出てから、一緒に観ようかなとも思っていたし。
「あー。その映画は、友達と行く約束しちゃったんですよ~」
「そうなのか、残念。じゃあ、どこかで夕飯でもどう? カレシさんと会えないと寂しいだろ?」
「それがですね、実のところ、あまり寂しいがってるヒマもなさそうなんですよ。佐伯さんの同僚さんの、奥様方とお知り合いになる機会がありまして、何気にお誘いが増えているんです。これって逃がさないわよっていう、意思表示なんですかね」
これは本当。カレンダー上の年末に、寺脇さんの奥さんに誘われて夕飯を食べに行ったら、何故か、同じ護衛艦の艦橋勤務をしている他の人達の奥様方が、次々と現れた。口では皆「あら偶然よねー、ここはよく来る所お店だものねー」なんて言っていたけど、そんな都合の良い偶然なんてそうそうあるわけない。つまりは偶然を装った確信犯に決まっているわけ。こんな奥様包囲網ってやつに囲まれて、まだお試しなんですよなんていう理屈が通るんだろうか?と、ちょっと心配になってくる。
「なかなか凄いことになってるんだね、立原さんの周辺」
「なかなか凄いっていうか、面白い人が多くで楽しいんですけどね。それに無碍断ると、佐伯さんの立場が悪くなったら困りますし」
「困ってるってわけじゃなさそうだね……」
「はい。それなりに楽しんでます。お子さん達には私の正体はマツラー君って話になっていて、尊敬の目で見られてますし」
小さい子達には中の人なんて言っても理解できなくて、あれこれ話しているうちに、何故か「あんなちゃんは、じつはまつらーくんなのだ」ということで落ち着いてしまった。まつらー君が私、ではなく、私がまつらー君というのは、ちょっとおかしいような気はするんだけど。
「で、明日はその奥さんのお一人と一緒に、海難よけの神様にお参り行くんですよ。船乗りさんのカレシ持ちらしいでしょ?」
「へえ、そんなところがあるんだ」
「はい」
「ふーん。すっかりカレシさんや周辺の人達と、家族みたいになっちゃってるね」
「ですよねー。私もまさか、海難避けのお参りをすることになるとは、去年の今頃は思いもしませんでした。じゃ、お疲れ様でした。お休みの間のことは、よろしくお願いします。何か分からないことがあったら、携帯のメールにでも入れておいてください」
「分かったよ。ゆっくり休んで」
んー……? なんだろう、この何とも言えない空気。東雲さんの視線を背中に感じながら、部屋を出た。
+++++
『ごめんね、せっかく予定あけてくれたのに』
次の日の朝、寺脇さんの奥さん、奈美子さんから電話がかかってきた。朝になって、チビちゃんが急に熱を出したとか。小さい子って、急に体調が変わったりするので大変だったと、武藤さんが話していたことがあるのを覚えていたので、お大事にってことで電話を切る。ま、でも行き方は調べて分かっているし、行こうって話していたのを急に取り止めたりしたら、神様が怒っちゃうって話を小耳にはさんだことがあるので、一人で出掛ける準備をして家を出た。
行き先は虎ノ門にある金刀比羅宮。平日の午前中ということもあって、ビルの谷間にある神社の境内は人の姿も少なく、休み時間を利用してマッタリしているサラリーマンさんの姿もない。あまり騒がしいより、このぐらい静かな方が良いかもと思いながら本殿に向かうと、参道の途中のベンチにお婆ちゃんが座っていた。何となく目がそちらに行ってしまっていたら、お婆ちゃんがこちらを向いてニッコリと微笑んだので、思わず会釈してしまった。
ま、まさか知り合いじゃないよね? だけどどこかで会ったことがあるような気も。誰だったかな。そんなことを考えながら本殿でお参りをして戻ってくると、まだお婆ちゃんはそこに座っていて、私のことを見て再び微笑んだ。
「おはよう。もしかして、どなたかの安全祈願?」
私が思わず立ち止まると、声をかけてきた。
「あ、はい。航海安全の祈願に」
「お知り合いが船乗りさんなの?」
「まあ、お付き合いしている人なんですけど」
「ああ。カレシさん、ってことかしら?」
「そんなところです」
お座りなさいなとベンチの隣を手で軽く叩いたので、万が一、どこかで会っている役所関係の偉い人だったら困るので、おとなしくそれに従った。ほら、偉い先生のお母さんがどこかの外郭団体の理事とか、知事さんの奥さんが設立に尽力した市民団体の理事をしているとか、そういう可能性もあるし。ここは色々な企業の入ったビルがたくさん立ち並んでいるから、どこで誰の関係者と会うか、分かったもんじゃないものね。
「珍しいわね、あなたみたいなお若い人が、ここにお参りに来るなんて」
「そうなんですか? 交通安全のお守りを車にぶら下げているので、普通だと思っていたんですけれど。兄が消防士なので、火難除けに愛宕神社にお参りに行ったこともあるんですよ。最近はサボり気味で、兄のカノジョさん任せですけど」
「あら、そちらも感心ね。信心深い御家族だこと」
「危険な職業についていると、周囲の家族はこれぐらいしかできませんからね」
兄貴が消防士になるって言い出したのは、いつだったか。多分、尊敬していた高校の先輩が消防士になったのが大きいんだけど、そりゃもう母親は大反対だった。って言うのも、母親の親戚にも消防士になった人がいて、仕事中に亡くなっていたから。
もちろん兄貴は、母親のそんな言い分を押し切って今に至るけど、とにかくなり立ての頃は、母親は毎週のようにお参りに行ってたっけ。今ではさすがに落ち着いたのか、お参りに行くのは、半年に一度とか一年に一度になっている。随分と扱いが軽くなったよな俺、なんて兄貴は笑っているけどね。母親の信心のお蔭か本人が優秀だったのか、兄貴は今も怪我一つすることなく、元気に消防士をやっている。
「たしかにそうね、こっちがいくら心配しても、本人が望んで進んだ道ですものねえ」
「そちらも?」
「息子と孫がね、やっぱり船乗りなのよ。この勢いだとひ孫も船乗りになって、船乗り三代になるかもしれないわ」
「それはすごいですね!」
お婆ちゃんは困ったものよねと呟きながら、ため息をついた。
「まったくねえ。こっちが苦労しているのを見ていたから、違う道を進んでくれると期待したんだけど。男って困った生き物だわ」
「ひ孫さんも、ですか?」
「まだ小さいから分からないけれど、私の勘、良く当たるのよ。あなたのカレシさんも船乗りなのよね、留守がちなんでしょ? 寂しくない?」
「もちろん寂しいですよ。ですけど仕事の都合で会えないのは、どのカップルさんでもあることですし、たまたま私達のところは、会えない時間が長いっていうか頻繁っていうか。今は会えないなりに、楽しい思い出作りをしようと、お互いに創意工夫中ってところです。だから今日のお参りのことも、メールで送るつもりなんですよ」
「なかなかたくましいのね、あなた」」
「そうですか? あ、そうだ。もしよろしければ、一緒に写真撮ってもらえますか? お参りした時に会いましたって、相手に送りたいので」
「あら、素敵」
そんなわけで、私とお婆ちゃんは一緒に写真を撮った。
うちも親子三代の船乗り目指してみようかなって呟いたら、お婆ちゃんはとても楽しそうに笑っていた。それからお別れをして自宅に戻ってから、写真をメールに添付して佐伯さん宛に送る。もしかしたら金毘羅宮の御利益よりも、見ず知らずのお婆ちゃんとの写真の方が、私達にとっては御利益があるんじゃ?なんて、ちょっと罰当たりなことを考えてしまったのは秘密だ。
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