帝国海軍の猫大佐

鏡野ゆう

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第五部 招かざるモノ

第六十八話 いつもと違うあれこれ

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「こういうのって、誰か対処マニュアルを作成しているんですかね」

 狩りをしている候補生達の後ろをついて歩きながら、相波あいば大尉に質問をした。

『こういうのとは、今回のことですか?』
「はい」
『少なくとも、このみむろでは見たことはありませんね。みむろは新しいふねですから、まだ作られていないだけかもしれませんが』

 幹部も先任伍長も、ある程度したら次の勤務地へと異動していく。長くとどまるであろう伊勢いせ海曹長は、習うより慣れろタイプだし、そういうのを作るタイプには見えない。となると、やはり俺や比良ひらが作るしかないだろうか。

「猫神から教えを受けるわけじゃないんだ……」

 護衛艦には、艦内神社の神様と猫神がいる。神様は人とコミュニケーションをとれそうにないが、猫神は少なくとも幹部とは意思疎通ができるのだ。だからそういうことは、猫神から伝えられているのだとばかり思っていた。

『ただ、少なくとも幹部と先任伍長経験者の間では、口伝くでんで引き継がれていることは間違いないですね。今回も皆さん、冷静に対処されていましたし』
「それって海保もですか?」
『おそらく』

 今回のようなことは年に一度ぐらいはあるらしいし、今までにかなりの海上自衛官や海上保安官が目撃しているはずだ。それが噂レベルでも流れていないことに驚いた。どれだけ徹底して情報管理をしていたのやら。

―― ま、こんなことを話しても、誰にも信じてもらえないだろうけどさ ――

 もしかしたらオカルトネタとして、某大型掲示板の片隅で語られているのかもしれないが。医務室の前を通りかかると、医官の仲司なかつかさ三佐に見送られて、何人か隊員が出てきた。

「あ、お疲れさまです!」
「おう。清掃作業ご苦労さん」

 俺と比良は、浮かない表情をしたまま行ってしまった隊員の背中を見送る。

「先輩達、どうしたんですか?」
「ん? よく眠れるように特別に薬を処方したんだよ。今回のようなことがあった後は、毎回そういう隊員が何人か出るんだ」
「ほら、波多野はたのさん。やっぱり一服盛るのは有効なんですよ」
「いやいや、比良。起きる前と起きた後じゃ、ぜんぜん違うから」
「そうかなあ……」

 比良ときたら、まだ物騒な思考から抜け出せていないようだ。

「お前達も必要か? だったら処方してやるが」
「俺は必要ないと思います」
「俺もです」
「そうか。たしかに二人とも大丈夫そうな顔をしているな」

 三佐は医師らしい顔で、俺と比良の顔を観察する。

「艦橋の横で思いっ切り吐いちゃいましたから」
「俺も比良と同じです。おかげで今はスッキリです」

 比良と俺の告白に、三佐は大笑いした。

「たいした度胸だな。まあアレだ。その時は大丈夫でも、急に夜中に不安になって目が覚めるヤツもいる。お前達もなにか不調を感じたら、遠慮なく医務室に来い。今夜はずっとここにいるから。比良も船酔いを感じたら遠慮なく来るんだぞ」
「ありがとうございます」

 三佐は医務室に引っ込み、俺達は清掃作業を再開した。その後も候補生三匹は、俺達が入れないような場所にもぐり込み、黒い物体をくわえて戻ってくるという行動をくり返す。

「まだいそうか?」

『『『ここにはもういませーん!』』』

 かなりの数に、そろそろ水の残量が心もとない状態だ。比良が黒い物体に水を吹きかける。

「足りなくなったら補充してもらえるんでしょうかね、これ」
「だと思うけどなあ……」
「もし底をついたら、どうするんでしょうね」
「大佐みたいに、艦外に蹴り落すぐらいしか思いつかないよな。あ、大尉の軍刀はどうなんですか? これだけ小さいと効率が悪そうですが」

 俺の提案に、大尉は困ったような顔つきになった。

『残念ながら、私の軍刀は役に立たないと思いますよ。軍刀が切れるのは、死んだ人間の魂の残滓ざんしです。いわゆる幽霊や亡霊のたぐいですね。ですがこれはそういうものではなく、人の悪意が変質したものですから』
「なるほどー……」

 と言いつつ、なにがどう違うのか、俺にはよくわからなかった。だが、大尉が無理と言うのだから、本当に切れないんだろう。

「今はとにかく、神水じんすいが足りるよう祈りながら作業を続行だな」
「ですねー」

『おそうじ続行ーー!』
『次いきまーす!』
『おそうじおそうじ――!』

 それから三十分ほどで掃除は完了した。霧吹きの中身は底をつく直前だった。多分だが、候補生達のおかげでかなり効率的に作業が進んだようだ。

―― こいつらが一人前になって他のふねに行ってまったら、この作業は大変だろうな…… ――

 今の環境に慣れてしまうのも考えものだなと思った。掃除道具を清原きよはら海曹長のところに持っていくと、他の隊員達も次々と戻ってきているところだった。

「ご苦労だったな、お疲れさん。飯食って風呂入って今日はさっさと休めよ」

 海曹長はそれぞれの隊員達に声をかける。俺と比良も夕飯の時間だったので、道具を返却して食堂へと向かった。

「……」
「……」

 食堂は異様な静かさに包まれていた。

「なんか話せる雰囲気じゃないよな」
「ですねー……」

 食堂内を見渡すと、若いほど食欲がない隊員が多いように思える。普通に食っている俺達がおかしいのか?と思えてしまうぐらいだ。そして普段はきちんと食べないと怒髪天どはつてんの料理長も、今夜は何も言わずに返されるトレーを受け取っていた。

「でも俺は食うぞ」
「俺もです」

 二人とも胃の中がからっぽ状態なのだ。こんな状態で部屋に戻ったら、夜中に空腹で目が覚めるに決まっている。そんなわけで、俺と比良はいつものようにトレーにそれぞれのおかずを取り分け、いつものように完食した。だがしかし、、、

「でも、これはちょっとなあ……」
「さっきのこれですからねー……」

 今日の夕飯についているデザートは、よりによってコーヒーゼリーだった。なんというタイミングの悪さ。それを見て苦笑いしつつ、もちろん俺達はゼリーも完食した。

「お前達、ゼリーが余っているから食べないか?」

 トレーを返しにいくと、料理長に声をかけられた。

「「いただきます」」

 出されたゼリーを嬉々として食べている俺達を、数人の隊員がドン引きした顔で見ていたが、そんなことは気にしない。甘いモノを遠慮なくお代わりできるなんて、最高じゃないか。

「そうだ、波多野さんは知ってました?」
「ん?」

 比良がゼリーを食べながら、そう言えばと口を開いた。

「このコーヒーゼリーのコーヒー、艦長コーヒーと同じコーヒー豆を使ってるんですよ」
「え、わざわざそこから作ってるのか? てっきりインスタントコーヒーを使ってるんだと思ってた」
「副長が教えてくれたんです。料理長が艦長コーヒーをすごく気に入って、わざわざ豆をひくところから作ってるって」
「そんなに手間をかけてるのか、これ。だったらなおさら、余らせるなんてもったいなさすぎ」
「ですよねー」

 まったくもってもったいない。そんなわけで気がついたら三つも食べていた。

 そして夕飯後の風呂も静かだった。あと、普段は耳タコなぐらい節水を言い渡されるのだが、今回はとにかくしっかりと体を洗えと命じられた。今日はなにもかも普段と違うことばかりだ。

―― 海水を真水にできる装置が作られて良かったよなあ ――

 きっと今日はあの機械もフル稼働中だろうな。湯船の水は相変わらず海水だが、それでも水量を気にせず体や頭を洗えるのはありがたかった。

「ふー、極楽ごくらく極楽ごくらく~~」

 いつもより少しだけ長い入浴時間のおかげで体もしっかり温まり、普段よりずっとリラックスした状態で部屋に戻った。部屋に戻ると、大尉と候補生達が待っていた。大尉の手には、艦長達が奉納した猫じゃらしがある。俺を待っている間、候補生達を遊ばせていたらしい。

『今日はお疲れさまでした。自覚がなくとも、こういう体験はひどく消耗するものです。しっかり休んでください』
「ありがとうございます」

 候補生達が俺を見あげる。

『波多野さん、ミルクはー?』
『ミルクの時間ですー!』
『波多野さんミルク――!』

『ダメですよ。今日は波多野さんも比良さんも、早く休ませてあげないと』

 たしなめる大尉の言葉に、三匹が抗議の鳴き声をあげはじめた。だが仔猫の可愛らしい鳴き声も、お世話係の大尉には通じない。

『なにもミルクがないとは言っていないでしょう。今日は艦長さんのお部屋でミルクです。大佐も今夜はあちらにいますからね。それから、お休みするのは応接室ですよ』

 そう言って三匹を一抱えにする。

『では、おやすみなさい』
「おやすみなさい!」

『おやすみなさいー!』
『波多野さん、おやすみー!』
『比良さんにもおやすみする――!』

『はいはい。比良さんにもですね。では行きますよ』

 大尉はスッと部屋を出ていった。

「さすがお世話係。すっげー手慣れてる……」

 なんやかんや言いつつ、いつも大佐を丸め込んでいるのだ。大尉にとって仔猫三匹ぐらい、お安い御用なのかもしれない。

「やれやれ。今日はめちゃくちゃ濃い一日だったよな……」

 静かになって一人になると、どっと疲労感が押し寄せてきた。自分では平気だと思っていたが、部屋に戻るまで気を張っていたようだ。ベッドに入ると体を横にした。枕に頭をつけたとたん、強烈な睡魔がやってくる。

―― 今あの国がミサイルを発射しても、俺、起きられる気がしないぞ ――

 簀巻すまきにされた隊員、睡眠薬を処方された隊員もいるのだ。たにかぜ、やましろでも同じようになっている隊員や保安官達がいるだろう。一週間ぐらいは、静かで穏やかな日が続いてくれると良いのだが。

―― 年に一度もこんなことがあるのかぁ……もう遭遇したくねえなあ。ああでも、水量を気にせず風呂にはいれるのはうれしいかも ――

 そんなことを思いつつ、俺は目を閉じた。もちろん朝まで爆睡だった。起きたらなぜか、大佐が胸の上で鼻をスピスピいわせながら眠っていたが。
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