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第一部 航海その1
第五話 猫大佐と当直
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急に目が覚めた。目が覚めたといっても意識が覚醒しただけなので、体を横にして目を閉じたままだ。
―― 体内時計的には、あと三十分ぐらいは寝ていられそうなんだけどな ――
腕にはめたままの腕時計を見ると、案の定の時間。あと三十分はこのままでいられる。
―― 当直に入ったらそのまま深夜までぶっ通しだし、もう少し睡眠時間をためこんでおくかな…… ――
そう考え、目を閉じてそのまま横になっていると、顔になにかが触れた。それがかすかに動いてくすぐったい。
「……なんだよ、まさか蚊……?」
この季節に蚊がいるとは思えないが。
手でそれをはらう。しばらくするとまた触れてきた。本格的にイライラしてきて、ムズムズする場所に手を乱暴にあてる。すると毛玉のようなものが顔のそばにあるのがわかった。毛布にしてはモフモフのフワフワで心なしか温かい。
―― ここの毛布って、こんなに上等な手ざわりだったか……? ――
毛布じゃないのか?と、目を閉じたまま手ざわりを確かめる。毛布にしてはなんとなく丸いようなそうでないような……。しばらくすると、細長いものに手が届いた。紐にしては太いなとにぎってみる。
『おい、こら、吾輩の尻尾は玩具ではないぞ、気安くつかむな』
「!!」
目を開けると、目の前で二つの目が光っていた。
「うわっ?! いたたたた……っ なんなんだよ、まったく!」
驚いて飛び起きたひょうしに、上のベッドの板に頭をぶつけてしまい、その場で頭を抱えながらうなる。今、間違いなく目から星が出た。
そしてこれだけ痛いということは、夢ではないということだ。
『起きたか。そろそろ航海当直の時間だぞ、早く着替えろ』
「……着替える以前に、痛すぎて失神しそうだ」
『バカめ』
俺の顔をのぞき込んでいたのはあの猫だった。そして蚊だと思ったものは、どうやらこいつのヒゲが顔にあたっていたらしい。
「なんでそんなに偉そうなんだよ……」
ベッドから飛び降りて、少し離れた場所で毛づくろいを始めた猫をにらむ。誰のせいで痛い思いをしたと思っているんだ、この化け猫は。
『吾輩はこの艦で一番偉いからだ』
「ここで一番偉いのは艦長だろ? ……いや、先任伍長かな」
『吾輩はこの艦の猫神なのだぞ。ここで一番偉いのは吾輩に決まっている』
「ねこがみ?」
そう言えば、寝る前にこの化け猫は「この艦の主」と言っていたような気がする。
『代々、守り神として船に乗っていた猫達の魂が集まって猫神になるのだ。猫神となった者達は、そうやってそれぞれの船を守り続けているのだ』
「それぞれの船……?」
『吾輩のような猫神は、すべての船にいる』
「海自だけじゃないのか?」
『当然だ』
艦内神社があるのも、海自に限ったことじゃないと言われている。その理屈でいくと、猫神なるものが官民問わず、他の船舶にいても不思議ではない。
「だけど、猫神と艦内神社が同時にあるって問題ないのか? 猫神っていうぐらいだし、どっちも神様になるわけだろ?」
俺の質問に、猫は毛づくろいの動作をとめて尻尾をパタパタさせた。
『神社は神社、吾輩達は吾輩達で、それぞれが分担してこの艦を守ってるから問題ない』
「神様も職種が競合するのか。そっちの世界も大変だな」
『そうでもない。そろそろ着替えろ。航海当直の時間が迫っているぞ』
「ああ、そうだった」
猫に言われて、部屋を出る準備を始めた。
「あれ? そういえば、お前のお世話係のあの軍人さんはどうしたんだよ」
『あやつは今、他の部屋にいる。船酔いで、今にも倒れそうな新人が心配らしくてな。寝床で吐いて喉を詰まらせないように、見守っているらしい。船乗りなのに船酔いとはな』
誰のことを言っているかすぐにわかった。
「比良か。目を覚まして軍人さんが自分を見おろしているのに気づいたら、吐く前に気絶して倒れそうだけどな」
『心配するな。吾輩達の姿は、お前にしか見えておらん』
「そこが不思議なんだよな。どうして俺だけに?」
しかも見えるだけではなく、触れるのだから不思議だ。
『さて、どうしてだろうな』
「なんだよ、わからないのか? 猫神なんだろ?」
『猫神にもわからないことはある』
着替えを終えるとベッドを整える。
入隊したての頃は、ベッドを整えること一つですら苦労したものだ。ちょっとでも布団が曲がっていたりシーツがたるんでいたりしたら、容赦なく教官がすべてを引っ繰り返してしまい、最初からやり直しをさせられた。
そして今も、油断していると同室の紀野三曹から、引っ繰り返されないまでも厳しいチェックを入れられる。さらには、指導教官の山部一尉が抜き打ちで部屋をのぞきにくることもあった。それもあって、航海中でもまったく気が抜けないのだ。
『まだなのか?』
「うるさいな。護衛艦にずっといるなら、ここをおろそかにできないのはわかってるだろ?」
『お前の要領が悪いからだ』
「しかたないだろ、まだ下っ端のペーペーで、艦内生活に慣れてないんだから」
言い返しながら帽子を手に部屋を出る。赤い夜間照明で照らされている廊下を、猫は尻尾をぴんと立ててのんびりと歩いていた。
「なあ」
『なんだ?』
「ここの廊下も床も灰色だろ? どうせならもっと目立つ色にしないか? チャトラとか白猫とか。サバトラだと同化してうっかり踏みそうだ」
『吾輩が、お前に踏まれるような間抜けな猫神だと?』
「もしかして変えられないとか?」
とたんに猫が、不機嫌そうに鼻にしわをよせる。
『できないのではない。しないのだ、バカ者め』
「……だからなんで偉そうなんだよ、猫のくせに」
『吾輩はこの艦の猫神だ。それと吾輩のことは猫大佐と呼べ』
ツンとすました顔でそう言い放つと、猫は俺の前を走っていき、上にあがる階段のところで姿を消した。
「猫のくせに大佐なのかよ……」
一番偉いと言ったわりには、艦長と同じ階級なんだな。どうせなら猫元帥って名乗れば良いのに。
―― いや、もしかして猫元帥とか別の艦にいるのかも ――
ちょっと会ってみたい気がしないでもなかった。
+++++
「紀野海曹、そろそろ交代時間です」
暗い艦橋に入ると、レーダーの前に立っていた三曹に声をかける。俺の声に三曹は顔をあげた。
「寝坊はしなかったか。残念だな、ベッドを思いっきり蹴り上げてやろうと、楽しみにしていたのに」
顔をあげて返事はしたものの、三曹の目はレーダーにはりついたままで、振り返ることはない。
「申し送りで聞いておくべきことはありますか?」
「そうだなあ……」
後ろから人が階段を上がってくる気配がした。航海長の山部一尉だ。
「おはようございます、航海長」
「おう。今回の当直もよろしくたのむ」
「はい」
「紀野、なにか聞いておくことはあるか? 波多野、紀野に代わってレーダーを見てろ」
「了解しました」
一尉と三曹が海図の前に立った。中が明るいと外が見えにくくなるので、夜が明けるまでは、艦橋の照明も必要最低限のものとなる。そんな中で海図を見るのは、なかなか大変な作業だ。
今も小さな光を頼りに、画面に貼りつくようにして海図を見ながら、一尉と三曹長は話をしている。
「そろそろ低気圧の影響はなくなるころですが、まだうねりが高い状態は続きそうですね。自分の予想ですと、今日の夕刻までは、今のような状態ではないかと思います」
「なるほど。船酔いをする隊員達には、つらい状態がもうしばらく続くということか」
一尉が気の毒そうに笑う。
「今のところ、高波で近辺を通る民間船がどうにかなったという無線は入っていません。ですが、もうしばらく警戒を続けたほうが良いかもしれませんね。現状の航路に関しての誤差は想定内です、問題ありません。機関にも異常なしです」
「艦長のいつもの散歩は?」
〝艦長の散歩〟とは、大友艦長が独自に行っている深夜の艦内点検のようなものだった。特にチェックがあるわけでもないのだが、イレギュラーでおこなわれる〝艦長の真夜中のお散歩〟は、俺達の間ではちょっとした名物になっていた。
「それは三時に終わってます」
「了解した。では引き継ごう。あがってくれ、御苦労さんだった」
「はい。では、お先に失礼します」
三曹は敬礼をしてから、俺の肩に手をおく。
「じゃあ波多野、よろしくたのむ」
「はい。お疲れ様でした」
「おい、比良、生きてるか?」
比良が艦橋に上がってきた。三曹の問い掛けに、なんとも言えない笑みを浮かべてみせる。
「酔い止めのお蔭でなんとか生きのびてます。紀野海曹、ワッチお疲れ様でした」
比良は、艦橋の横で当直に立っていた先輩二曹に声をかけ、引き継ぎのための申し送りを受けている。
「あいつ、大丈夫かな……」
「今回は、出航していきなり時化に突入だったからな。ま、そのうち慣れるだろ。今は酔い止めもあるし、薬を飲んで改善するのならまだ大丈夫だ」
申し送りの最中にも、先輩二曹に心配されているのが聞こえてきた。薬を飲んでも酔う人間は酔う。薬が効く比良は、まだ恵まれているほうだった。
「さて、同期のことが気になるのはわかるが任務に集中しろ」
「はい」
しばらくして、海図を確認している俺の視界の隅っこに化け猫、ではなく猫大佐の姿が入ってきた。他の人間に見えないというのは本当らしく、山部一尉も、目の前でウロウロしている猫大佐にまったく気がついた様子がない。
猫大佐は、レーダーの画面をのぞきんでから艦長の椅子に飛び移り、そこで毛づくろいを始めた。すっかり艦長きどりだ。
―― おいおい、毛がついたらどうするんだよ…… ――
姿が見えないということは、たとえ椅子に毛がついたとしても、他の人には見えないはずだ。だが俺には猫の姿が見える。その理屈でいうと、抜けた毛も見えるはず。猫が座った場所が気にならないわけがない。
艦長の服に猫の毛がついていたら、一体どうしたら良いんだ?
「……!!」
そして反対側の視界に、今度はあの軍人さんの姿が現われた。
どうやら比良のことが心配で、ここまでついてきたらしい。望遠鏡をのぞいている比良の後ろに立つと、慰めるように肩を叩いた。
もちろん比良には軍人さんの姿は見えないし、肩を叩かれてもわからない。だが、わからないなりに気配を感じたのか、比良は軍人さんが叩いたほうの肩に手をやった。
―― まったく、心臓に悪いよな、この状態…… ――
うっかり声をあげてしまわないように気をつけないと。そうでないと、頭がおかしいと思われるのはこの俺だ。
引き継ぎを終えた先輩二曹が、山部一尉に挨拶をして艦橋を出ていった。これから明け方までの数時間、俺達は航海当直としてこの艦と周囲の監視をしなければならない。
艦長の席に居座っている猫神様と、外にいる軍人さんが気になるところだが、とりあえずはあいつ等の存在は、頭から締め出しておかなくては。
―― 体内時計的には、あと三十分ぐらいは寝ていられそうなんだけどな ――
腕にはめたままの腕時計を見ると、案の定の時間。あと三十分はこのままでいられる。
―― 当直に入ったらそのまま深夜までぶっ通しだし、もう少し睡眠時間をためこんでおくかな…… ――
そう考え、目を閉じてそのまま横になっていると、顔になにかが触れた。それがかすかに動いてくすぐったい。
「……なんだよ、まさか蚊……?」
この季節に蚊がいるとは思えないが。
手でそれをはらう。しばらくするとまた触れてきた。本格的にイライラしてきて、ムズムズする場所に手を乱暴にあてる。すると毛玉のようなものが顔のそばにあるのがわかった。毛布にしてはモフモフのフワフワで心なしか温かい。
―― ここの毛布って、こんなに上等な手ざわりだったか……? ――
毛布じゃないのか?と、目を閉じたまま手ざわりを確かめる。毛布にしてはなんとなく丸いようなそうでないような……。しばらくすると、細長いものに手が届いた。紐にしては太いなとにぎってみる。
『おい、こら、吾輩の尻尾は玩具ではないぞ、気安くつかむな』
「!!」
目を開けると、目の前で二つの目が光っていた。
「うわっ?! いたたたた……っ なんなんだよ、まったく!」
驚いて飛び起きたひょうしに、上のベッドの板に頭をぶつけてしまい、その場で頭を抱えながらうなる。今、間違いなく目から星が出た。
そしてこれだけ痛いということは、夢ではないということだ。
『起きたか。そろそろ航海当直の時間だぞ、早く着替えろ』
「……着替える以前に、痛すぎて失神しそうだ」
『バカめ』
俺の顔をのぞき込んでいたのはあの猫だった。そして蚊だと思ったものは、どうやらこいつのヒゲが顔にあたっていたらしい。
「なんでそんなに偉そうなんだよ……」
ベッドから飛び降りて、少し離れた場所で毛づくろいを始めた猫をにらむ。誰のせいで痛い思いをしたと思っているんだ、この化け猫は。
『吾輩はこの艦で一番偉いからだ』
「ここで一番偉いのは艦長だろ? ……いや、先任伍長かな」
『吾輩はこの艦の猫神なのだぞ。ここで一番偉いのは吾輩に決まっている』
「ねこがみ?」
そう言えば、寝る前にこの化け猫は「この艦の主」と言っていたような気がする。
『代々、守り神として船に乗っていた猫達の魂が集まって猫神になるのだ。猫神となった者達は、そうやってそれぞれの船を守り続けているのだ』
「それぞれの船……?」
『吾輩のような猫神は、すべての船にいる』
「海自だけじゃないのか?」
『当然だ』
艦内神社があるのも、海自に限ったことじゃないと言われている。その理屈でいくと、猫神なるものが官民問わず、他の船舶にいても不思議ではない。
「だけど、猫神と艦内神社が同時にあるって問題ないのか? 猫神っていうぐらいだし、どっちも神様になるわけだろ?」
俺の質問に、猫は毛づくろいの動作をとめて尻尾をパタパタさせた。
『神社は神社、吾輩達は吾輩達で、それぞれが分担してこの艦を守ってるから問題ない』
「神様も職種が競合するのか。そっちの世界も大変だな」
『そうでもない。そろそろ着替えろ。航海当直の時間が迫っているぞ』
「ああ、そうだった」
猫に言われて、部屋を出る準備を始めた。
「あれ? そういえば、お前のお世話係のあの軍人さんはどうしたんだよ」
『あやつは今、他の部屋にいる。船酔いで、今にも倒れそうな新人が心配らしくてな。寝床で吐いて喉を詰まらせないように、見守っているらしい。船乗りなのに船酔いとはな』
誰のことを言っているかすぐにわかった。
「比良か。目を覚まして軍人さんが自分を見おろしているのに気づいたら、吐く前に気絶して倒れそうだけどな」
『心配するな。吾輩達の姿は、お前にしか見えておらん』
「そこが不思議なんだよな。どうして俺だけに?」
しかも見えるだけではなく、触れるのだから不思議だ。
『さて、どうしてだろうな』
「なんだよ、わからないのか? 猫神なんだろ?」
『猫神にもわからないことはある』
着替えを終えるとベッドを整える。
入隊したての頃は、ベッドを整えること一つですら苦労したものだ。ちょっとでも布団が曲がっていたりシーツがたるんでいたりしたら、容赦なく教官がすべてを引っ繰り返してしまい、最初からやり直しをさせられた。
そして今も、油断していると同室の紀野三曹から、引っ繰り返されないまでも厳しいチェックを入れられる。さらには、指導教官の山部一尉が抜き打ちで部屋をのぞきにくることもあった。それもあって、航海中でもまったく気が抜けないのだ。
『まだなのか?』
「うるさいな。護衛艦にずっといるなら、ここをおろそかにできないのはわかってるだろ?」
『お前の要領が悪いからだ』
「しかたないだろ、まだ下っ端のペーペーで、艦内生活に慣れてないんだから」
言い返しながら帽子を手に部屋を出る。赤い夜間照明で照らされている廊下を、猫は尻尾をぴんと立ててのんびりと歩いていた。
「なあ」
『なんだ?』
「ここの廊下も床も灰色だろ? どうせならもっと目立つ色にしないか? チャトラとか白猫とか。サバトラだと同化してうっかり踏みそうだ」
『吾輩が、お前に踏まれるような間抜けな猫神だと?』
「もしかして変えられないとか?」
とたんに猫が、不機嫌そうに鼻にしわをよせる。
『できないのではない。しないのだ、バカ者め』
「……だからなんで偉そうなんだよ、猫のくせに」
『吾輩はこの艦の猫神だ。それと吾輩のことは猫大佐と呼べ』
ツンとすました顔でそう言い放つと、猫は俺の前を走っていき、上にあがる階段のところで姿を消した。
「猫のくせに大佐なのかよ……」
一番偉いと言ったわりには、艦長と同じ階級なんだな。どうせなら猫元帥って名乗れば良いのに。
―― いや、もしかして猫元帥とか別の艦にいるのかも ――
ちょっと会ってみたい気がしないでもなかった。
+++++
「紀野海曹、そろそろ交代時間です」
暗い艦橋に入ると、レーダーの前に立っていた三曹に声をかける。俺の声に三曹は顔をあげた。
「寝坊はしなかったか。残念だな、ベッドを思いっきり蹴り上げてやろうと、楽しみにしていたのに」
顔をあげて返事はしたものの、三曹の目はレーダーにはりついたままで、振り返ることはない。
「申し送りで聞いておくべきことはありますか?」
「そうだなあ……」
後ろから人が階段を上がってくる気配がした。航海長の山部一尉だ。
「おはようございます、航海長」
「おう。今回の当直もよろしくたのむ」
「はい」
「紀野、なにか聞いておくことはあるか? 波多野、紀野に代わってレーダーを見てろ」
「了解しました」
一尉と三曹が海図の前に立った。中が明るいと外が見えにくくなるので、夜が明けるまでは、艦橋の照明も必要最低限のものとなる。そんな中で海図を見るのは、なかなか大変な作業だ。
今も小さな光を頼りに、画面に貼りつくようにして海図を見ながら、一尉と三曹長は話をしている。
「そろそろ低気圧の影響はなくなるころですが、まだうねりが高い状態は続きそうですね。自分の予想ですと、今日の夕刻までは、今のような状態ではないかと思います」
「なるほど。船酔いをする隊員達には、つらい状態がもうしばらく続くということか」
一尉が気の毒そうに笑う。
「今のところ、高波で近辺を通る民間船がどうにかなったという無線は入っていません。ですが、もうしばらく警戒を続けたほうが良いかもしれませんね。現状の航路に関しての誤差は想定内です、問題ありません。機関にも異常なしです」
「艦長のいつもの散歩は?」
〝艦長の散歩〟とは、大友艦長が独自に行っている深夜の艦内点検のようなものだった。特にチェックがあるわけでもないのだが、イレギュラーでおこなわれる〝艦長の真夜中のお散歩〟は、俺達の間ではちょっとした名物になっていた。
「それは三時に終わってます」
「了解した。では引き継ごう。あがってくれ、御苦労さんだった」
「はい。では、お先に失礼します」
三曹は敬礼をしてから、俺の肩に手をおく。
「じゃあ波多野、よろしくたのむ」
「はい。お疲れ様でした」
「おい、比良、生きてるか?」
比良が艦橋に上がってきた。三曹の問い掛けに、なんとも言えない笑みを浮かべてみせる。
「酔い止めのお蔭でなんとか生きのびてます。紀野海曹、ワッチお疲れ様でした」
比良は、艦橋の横で当直に立っていた先輩二曹に声をかけ、引き継ぎのための申し送りを受けている。
「あいつ、大丈夫かな……」
「今回は、出航していきなり時化に突入だったからな。ま、そのうち慣れるだろ。今は酔い止めもあるし、薬を飲んで改善するのならまだ大丈夫だ」
申し送りの最中にも、先輩二曹に心配されているのが聞こえてきた。薬を飲んでも酔う人間は酔う。薬が効く比良は、まだ恵まれているほうだった。
「さて、同期のことが気になるのはわかるが任務に集中しろ」
「はい」
しばらくして、海図を確認している俺の視界の隅っこに化け猫、ではなく猫大佐の姿が入ってきた。他の人間に見えないというのは本当らしく、山部一尉も、目の前でウロウロしている猫大佐にまったく気がついた様子がない。
猫大佐は、レーダーの画面をのぞきんでから艦長の椅子に飛び移り、そこで毛づくろいを始めた。すっかり艦長きどりだ。
―― おいおい、毛がついたらどうするんだよ…… ――
姿が見えないということは、たとえ椅子に毛がついたとしても、他の人には見えないはずだ。だが俺には猫の姿が見える。その理屈でいうと、抜けた毛も見えるはず。猫が座った場所が気にならないわけがない。
艦長の服に猫の毛がついていたら、一体どうしたら良いんだ?
「……!!」
そして反対側の視界に、今度はあの軍人さんの姿が現われた。
どうやら比良のことが心配で、ここまでついてきたらしい。望遠鏡をのぞいている比良の後ろに立つと、慰めるように肩を叩いた。
もちろん比良には軍人さんの姿は見えないし、肩を叩かれてもわからない。だが、わからないなりに気配を感じたのか、比良は軍人さんが叩いたほうの肩に手をやった。
―― まったく、心臓に悪いよな、この状態…… ――
うっかり声をあげてしまわないように気をつけないと。そうでないと、頭がおかしいと思われるのはこの俺だ。
引き継ぎを終えた先輩二曹が、山部一尉に挨拶をして艦橋を出ていった。これから明け方までの数時間、俺達は航海当直としてこの艦と周囲の監視をしなければならない。
艦長の席に居座っている猫神様と、外にいる軍人さんが気になるところだが、とりあえずはあいつ等の存在は、頭から締め出しておかなくては。
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