僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第三部

第七話 なにやら事件です

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 昨夜の夜はなかなか大変な夜で、まともな仮眠もとれなかった。とにかく早く時間になりますようにと腕時計を見ながら、あくびをかみ殺しつつ廊下を歩く。朝の回診はまだ始まっておらず、早朝の病棟はトイレに向かう患者さんの姿を見かける程度で、夜と違って静かなものだ。

「あ、おはよーございます、北川きたがわ先生」

 目の前の病室から、松葉杖をついた男の子が出てきた。男の子と言っても、一ヶ月ほど前に乗っていたバイクが横転して、足を複雑骨折してしまった大学生さんだ。

「おはよう。松葉杖でトイレに行っても良いって、主治医の先生から許可が出たの?」
「はい! トイレぐらいの距離なら、大丈夫だって言われました。牛乳を毎日たくさん飲んでるから、治りも早いみたいですよ」

 そう言えば清掃をしているおばちゃんが、ここの病室のゴミ箱は、やたらと牛乳パックが多いのよねと、あきれながら笑っていたことを思い出す。

「清掃のおばちゃんが言ってたよ。ここの病室からは、牛乳パックが大量に出るって」
「それ全部、俺が飲んだやつですね」

 下のコンビニで買ってきては飲んでいるらしい。お腹を壊さなければ良いんだけれど。

「まあ牛乳のお蔭もあるんだろうし、若いから回復力も早いんだろうけど、あまり無理はしないようにね。これからきついリハビリがひかえているんだから、余力は残しておかないと」
「それは主治医の先生にもおどされました」

 うちの理学療法士の先生達は、プロのスポーツ選手もお世話になりに来るぐらい優秀なんだけど、鬼軍曹の巣窟と呼ばれるほど厳しいと評判なのだ。彼にはこれから、その鬼の巣窟での厳しいリハビリが待っている。

 彼がトイレに行くのを見守っていると、後ろから入院患者さんの家族なのか、バッグをかかえた人が会釈えしゃくをしながら、私の横を通りすぎていく。

「……?」

 なぜか違和感を感じて、その人の背中を見つめる。なんだろう? 面会時間前でも、それぞれの家庭の事情で時間外に病室に来る御家族は珍しくないし、そういう人達と廊下ですれ違うことなんて、しょっちゅうなのに。

 その人がやって来た廊下を振り返った。いくつかの大部屋があって、そこには、トイレにいった彼のような怪我をして、動けない患者さん達がいる。

「んー……?」

 首をかしげながら、もう一度その人の背中に目を向けた。なんだろう、この違和感。

「……それにしても大きなバッグ。洗濯物でもつめ込んでいるのかしら」

 そんなことをつぶやきながら、ぬぐえない違和感に、その人の後ろをさりげなくついていくことにする。つめ所の前を通り抜けて、エレベーターホールに。そしてその人は、下にいくボタンを押した。

「……おはようございます。朝からお見舞いですか?」

 その人は私に声をかけられ、飛び上がるようにして振り返った。別に足音を忍ばせていたわけでもないのに、驚きすぎな気がする。……なんだか怪しい。

「もしかして、お洗濯ものを引き取りにみえたんですか?」
「えっと……」
「コインランドリーは上にありますけど、時間がかかりますものね~」

 そう言いながら、相手が抱えているカバンをのぞき込むと、その人は慌てた様子でカバンを腕に抱え込んだ。んー? ますます怪しい? そして抱え込まれた腕の隙間から、変な場所に裂け目があることに気がつく。

「あら、ここ、破れてますよ?」

 そう言いながら裂け目のところを指でさしたとたん、その人がカバンを振り回して私を突き飛ばした。突然のことに避けることもできず、顔にカバンの直撃をくらい、その場で尻餅をついていまう。

「ちょっと!」

 フロアにエレベーターが到着して、チーンという軽い音と共にドアが開く。その人は中に駆け込むと、乱暴にボタンを連打する音をさせた。そしてドアが閉まる。

「先生、大丈夫?!」

 声がした方に顔を向けると、トイレからあの学生さんが出てきたところだった。

「つめ所の看護師さんに、泥棒らしき人が逃げて下に行ったって、伝えてくれる?」
「わかった!」
「あああ、松葉杖はちゃんとついて!!」

 片足飛びで廊下を飛んでいく彼に慌てて声をかけると、立ち上がって階段に向かった。病院のエレベーターは、比較的ゆっくりと昇降するようになっている。うまくいけば、一階で追いつけるかもしれない。

「それにしても、なんであんなに硬いカバンなんだか……」

 患者さんが病室に持ち込んでいるものなんて知れているし、あんなに硬いものなんてあったっけ? まさか病院のテレビを盗んだとか? いやいや、さすがにテレビはあの中には入らないよね。カバンの直撃を受けて痛む顔半分を押さえながら、階段を急いで駆け下りる。

 そして一階のエレベーターホールへと走っていくと、そこには、いつもの青い術衣を着た東出ひがしで先生が立っていた。さっきの男の人を猫つかみした状態で……。

「あ、先生、ちょうど良かったです、その人、泥棒なんですよ」
「そうなのか? いきなりエレベーターから飛び出してきたかと思ったら、俺の顔を見てカバンで殴り掛かってきたぞ」
「すぐに警備員のおじさんが来てくれると思うので、そのまま捕まえていてもらえます?」
「まあそれはかまわんが……」

 先生は私の顔を見て、眉をひそめた。

「北川、お前その顔どうしたんだ」
「顔? 私の顔がなにか?」
「こっち側に変な跡がついてるぞ」

 そう言って、自分の顔の右側を手で触ってみせた。

「ああ。私もそのカバンで、一発かまされちゃったものですから」

 それを聞いた先生の顔が、急に恐ろしいものになった。

「おい、うちの若いのにまで手を出したのか」

 先生、それ、どこかのヤクザなセリフでは……。しかも猫つかみしたまま、ブンブンと相手のことを揺すっているし。

「北川、これ証拠になるから、確保しておけよ」

 先生は足元に転がっていたカバンを、足でこっちに押しやってくる。

「あ、はい。……なんでこんなに重たいんだか。どんだけ盗んだのって話ですよね」

 そう言えば最初に気がついた裂け目って、一体どうなっていたんだろうと気になって、そこをのぞき込んでみた。裂け目は裂け目じゃなくて、丸く開けられた穴みたいだ。そしてその奥にあるのはガラスの……レンズ?

「先生、これ、カメラですよ。もしかしてその人、うちの病院の防犯カメラを盗んだのかも!」
「そんなものが簡単にむしりとれるものか。北川、カバンを開けてカメラを確認してみろ」

 カバンの穴を見た先生が私に指示を飛ばしたので、反射的に「はい」と返事をしてファスナーを開けた。すると出てきたのは病院の防犯カメラではなく、家庭用であるビデオカメラのようだった。しかも録画中のランプがついている。

「……先生、これは一体……あ! まさか患者さんを盗撮?! その人、泥棒じゃなくて痴漢ちかんですか?!」
「あわてるな、北川。そのへんのことは、警備員が来てからゆっくり聞けば良いだろ。いや、警察を呼ぶか?」

 捕まっている人は怯えた顔をして、ブンブンと首を横に振っている。

 しばらくして、警備員のおじさんが四人ほど走ってきた。

「カメラで撮影しながら、院内をうろうろしていた不審人物だ。もしかしたら例のアレが目的の、マスコミ関係者かもしれんぞ。不法侵入で警察に突き出すかどうかは、理事長に判断してもらうのが良いだろう」

 マスコミ関係者? 先生と警備員のおじさんとの会話を聞きながら、なんでマスコミさんが出てくるんだろうと、心の中で首をかしげながら四人を眺めていると、東出先生がこっちを見た。

「おい、そのカバンもこっちによこせ。大事な証拠の品だ」
「ああ、はい」

 チャックを閉めて警備員さんに渡す。

「そっちのことは任せても良いかな?」
「はい。こちらで理事長に連絡します。先生お手柄でした」
「いや、お手柄なのは北川先生だろ。最初に気がついたのはこいつのようだからな」

 先生に猫つかみされていた泥棒だか痴漢ちかんだかの人は、警備員さん二人に抱え込まれるようにして連行されていった。それを見送っていると、先生が私の腕をつかんだ。

「お前はその顔の治療だ」
「え、大したことないですよ」
「打撲を甘く見るなよ。放っておいたら、にぎやかな色合いの顔になるが、かまわないのか?」

 え、それは困る。

「次の休みに、パスポートの写真を撮ろうと思っていたのに」
「だったらおとなしくついて来い。次の休みは一週間後だったな。それまでにどこまで消えるかわからんがな」
「なんとかしてください、先生」
「俺は救命救急の医師で、形成外科の医師じゃないんだ。まったく。救命救急は、なんでも屋じゃないんだからな」
「先生ならなんとかしてくれるって、期待していたのに」

 ブツブツと文句を言うと、先生は溜め息をついた。

「やかましい。俺は当直明けで機嫌が悪いんだ。黙って治療を受けろ」
「私だって当直明けなのに……」

 とは言っても傷があるわけでもないので、とりあえずはアイシングをするだけだ。氷を包んだタオルを渡されたので、それで痛む顔を冷やす。

「朝からとんでもない目覚まし時計ですよ、まったく」
「しかしまあ、よく気がついたな、あれに」
「最初は、ちょっとした違和感を感じた程度だったんですよ。その時は、なに感じたのかわからなかったけど、今ならわかります。あの人、私の横を通りすぎる時に、あの穴を見えないように、両手で隠してたんですよ」

 それで変だなと感じたんだと、いまさらのように納得した。先生は、なるほどなと言いながら、机でなにやら記入している。

「なに書いてるんですか?」
「処方箋に決まってるだろ。あざを早く消したいんだろうが。だったら塗り薬を出しておくから、それを塗っとけ」
「ヘパリンって、外の薬局でも買えますよね?」
「処方箋で出す薬の効果とは段違いだろうが。それと価格も」
「あー、なるほど」

 まだまだ貧乏研修医ですからね、私。

「これ、労災おりますかね」
「場合によっては金一封ぐらい出るかもな」

 先生は、カルテの最後にサインをしながら笑った。

「え、そうなんですか?」
「あの男、十中八九マスコミの人間だろ。つまりヤツの目的は、特別室にいるあの偏屈爺へんくつじいさんだ」
偏屈へんくつだなんてひどい。患者さんなのに」

 まあ確かに偏屈そうではあるけれど。

「今回のことは、理事長からあの爺さんの耳に入るだろう。そうなったら、あいつを真っ先に見つけたのは誰かって話になるだろ?」
「……報奨金みたいなものですか」
「ああ」

 なるほど。極秘入院で手術だものね。写真を撮られていたら、それこそ政界の大スキャンダルになっていたかもいれない。あ、ちょっと待って。

「先生、良くないです、それ。真っ先に見つけたのは、先生ってことにしてください」
「は? なんでだ」
「だってあの先生、外務大臣の議員さんと犬猿の仲だって、西入にしいり先生が言っていたんですよ。ほら、私の婚約者は南山みなみやまさんで外務省の人だから、逆に変な疑いをかけられたら困るじゃないですか」

 私の言い分に、先生は苦笑いした。

「北川、お前はドラマの見すぎだ」
「いやいや、そんなことないです。それでうっかり変な波風が立って、裕章ひろあきさんの出世に響いたら一大事です。やはりここは、第一発見者は取り押さえた東出先生ってことに。で、金一封が出たらおごってください」
「まったくお前ときたら。ますます似てきたな、あの盲腸に」

 イヤそうな顔をしながらも、先生は「分かった、そういうことにしておこう」と請け負ってくれた。
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