僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第三部

第三話 二人のギブアンドテイク

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 目が覚めると、裕章ひろあきさんが私の胸元にある金色のアヒルをいじっていた。

「おはよう。もう少し寝ていても大丈夫だよ」

 私が目を開けたのに気がつくと、ニッコリと微笑んで目にかかった髪の毛をはらってくれる。

「それは私が、裕章さんに言う言葉じゃない?」

 ベッドサイドにある時計に目をやれば、朝の六時。休みの時の私ならまだ寝ている時間だし、それは裕章さんだって同じだと思うんだけど。

「ちゃんと寝たから大丈夫。それに睡眠時間が足りなかったとしても、このまま頑張って夜まで起きていれば、時差ボケもきっちりリセットされるからね」

 たしかに、目の前の裕章さんは寝不足そうな顔はしていない。どちらかと言えば、気分爽快っていう感じ?

「思っていた以上に、外交官って大変なのね」
雛子ひなこさん達の仕事ほどじゃないよ」

 そう言いながら、裕章さんは私のことを抱き寄せた。部屋は空調が効いているので寒くはないけれど、こうやって触り心地の良いシーツの間で人肌のぬくもりに包まれるのは、思っている以上に心地良くて、気持ちがほっこりしてしまう。

「今日、裕章さんの仕事がなければ良いのに」

 思わずポソッとつぶやくと、裕章さんが笑った。しかもかなり愉快そう。

「雛子さん、それって今日はずっと、僕とベッドにいたいってこと?」
「そこまでは言ってないけど。……ちょっと、なんでそんなに笑うの?」
「だって、僕がせたとか睡眠が足りないとか心配している雛子さんが、一日中ベッドにいたいだなんて」

 一日中こんなことをしていたら、仕事をするより疲れちゃうんじゃないかなあと、笑い続けている。

「ちがいますー。そんなことしようなんて思っていませんー」

 そんなに笑うことないじゃないと腕を軽く叩いたけど、裕章さんが笑いやむ気配はない。それどころか、ますます笑い声が大きくなって、さすがに腹が立ってきた。

「もう! そんなに笑うことないじゃない! 一緒にいられたらなって思って言っただけなのに!」
「それは分かってる。だけどさっきの言葉からしたら、そう解釈されてもしかたがないんじゃ?」
「人が言ったことで揚げ足をとるなんて、まるで性悪のお役人みたいじゃない」
「性悪かどうかは別として、僕は正真正銘しょうしんしょうめいのお役人なんですが。外務省の」
「ムカつく」

 ますます笑う裕章さんにムカつきながら、ブツブツと文句を言った。

「だけど、雛子さんの気持ちは理解できるよ。……そうだなあ」

 考え込むような気配に顔を上げると、なにやら良からぬことを考えている様子。私の視線に気がついたのか、こっちを見て口元に変な笑いを浮かべた。

「……わかった、こうしよう」
「なにが?」

 嫌な予感がしないでもないけれど、一応はたずねてみる。

「雛子さんがお望みなら、朝ご飯を食べる時間の一部を、こっちに振り分けよう」
「え?」

 振り分ける?

「ここのホテルの朝食はおいしいって話だから、御馳走しようと思っているんだけど、雛子さんがベッドにいたいって言うならしかたがない」
「え、そうじゃなくて、私は裕章さんと一緒にいる時間が……」

 私が言い返そうとしているのを無視して、裕章さんは私のことを仰向けにして覆いかぶさってきた。

「途中でお腹がすいたとか、文句を言わないように。ここには、雛子さんが好きなコーヒー牛乳もクリームパンもないんだからね」
「私の言い分がどうのって言うより、裕章さんがもう一度エッチしたかっただけとか……?」
「そうかもね」

 私の問い掛けに、裕章さんはニッコリと微笑んだ。


+++++


「そう言えば昨日の夜、変な夢を見た気がするんだ」
「そうなの?」
「うん」

 それからしばらくして、シャワーを浴びて服を着ると、私達は部屋を出た。そしてまだ時間があるからということで、最上階にあるメインダイニングで朝食をとることにした。

 朝食はビュッフェスタイルで、おいしそうなパンが並んでいるコーナーを見つけたので、クリームデニッシュを二つお皿に乗せると、裕章さんはおかしそうに笑った。

「やっぱりクリームなのか」
「私のお気に入りのクリームパンじゃないけどね」

 院内のコンビニで売られているクリームパンと、老舗しにせホテルで焼かれたクリームデニッシュを比べるなんて、ホテルの人からしたらとんでもないって話だろうけど。

「それだけで良いのかい?」
「これで十分よ」

 私がトレーに乗せたのはデニッシュと、大きなカフェオレボールに入れてもらったカフェオレ。普段、飲んでいるようなコーヒー牛乳ではないのが残念だけど、たまにはお上品な感じで朝ご飯を食べるのも良いわよね。

 ちなみに裕章さんの方は、絵に描いたようなメニューがお皿に並べられている。野菜や果物までお皿に乗っているところを見ると、ちゃんとバランスを考えているみたい。彼いわく、普段がかたよりがちだから、こういう時は、きちんと野菜や果物を食べるようにしているんだとか。医者である私より、ちゃんと考えてるんだと感心させられてしまった。

「それで、どんな夢を見たの?」

 街並みが見下ろせる窓際のテーブルに落ち着くと、クリームデニッシュを一口かじり、そのおいしさに感激しながら質問をした。

「足元でね、誰かが騒がしく話し合いをしているような夢。きっと、こっちでの仕事のことが気になっていたせいなんだろうけど、僕の赴任地の治安がどうのとか外交特権がどうのとか、外交官の家族はパスポートはどうするんだろうとか、そんな話をしているようだった」

 変な夢だろう?って笑っている。

「すごい偶然。実は私もそれと似たような夢を見てた。アヒルちゃんがね、裕章さんがくれたボールペンの動物達と、会議をしていたの。治安が悪そうだから行きたくないって言い出す子がいて、外国に行く機会なんて滅多にないんだから、ぜひ行かなくちゃって皆で説得してた」

 二人で同じような夢を見ていたなんて、不思議なこともあるものだ。

「つまりは、僕達の足元で話し合いをしていたのは、ボールペン達だったってことかい?」
「もしかして夢じゃなかったのかも?」

 だって私が初めて裕章さんのマンションに泊まった時だって、アヒルちゃんが勝手にキャリーから抜け出してきたんだもの、皆で集まって会議するぐらい不思議じゃないわよね?

「そう言えば、あっちでは皆がかまうから昼寝ができないって、アヒルちゃんが愚痴ってたような気がするんだけど、そうなの?」
「大使館には持っていってるけど、スタッフがそこまでかまうことはないんだけどな。出勤してから退勤するまで、僕のデスクに置いてあるから、勝手に使われることもないし」

 不思議なこともあるものだねと、二人で笑った。

「あ、そうだ。裕章さん、今年のインフルエンザの予防接種はした?」
「いや、まだだけどどうして?」
「ほら、去年の今頃、上野うえのさん達が、うちの病院に予防接種しにきたんだけど、時期的にそろそろでしょ? もし時間があるなら、こっちで一回目を受けておくのが良いんじゃないかって、思ったんだけど」

 私の言葉に、難しそうな顔をしてウーンと考え込んでしまった。

「その時間がとれるかどうか、微妙なところだな。正直言って、病院の診察受付時間内に、仕事が終わるとは思えないし。雛子さんはもう打ったのかい?」
「私達は、先週、一回目の接種が終わったところ。時間かあ……普通にこっちで仕事をしているのとは違うものね。……じゃあ日曜日にできるように手配しておく? 日曜日はお休みなのよね?」
「そんなことができるのかい?」

 表向きはできないことになっている。ただそれにも例外が存在するわけで、特にうちの理事長先生は官庁関係に知り合いが多いから、その手の事情がある人に対しては寛容なのだ。

 ただし、そのシワ寄せが救急外来や夜勤の先生達に来るので、東出ひがしで先生はあまりいい顔をしない。そのせいか、理事長先生の方針を受け入れる代わりに、そこにやってくる人達を、こっそり新人看護師や研修医の練習台にしているみたいだった。

「裕章さんが、東出先生に注射されるのがイヤじゃなかったらの話だけど」

 さすがに練習台にされているらしいっていうのは言えなくて、申し訳ないけれど、東出先生の名前を出させてもらう。

「雛子さんが打ってくれるんじゃないのか」

 裕章さんはガッカリした顔をしてみせた。そう言えば、去年は私が予防接種の注射を患者さん達に打っている時には、出張で日本にいなかったのよね。

「だってその日は私もお休みだし。もちろん裕章さんが受けるなら、一緒について行くけど?」
「じゃあ、予約をお願いしておこうかな。……できたら雛子さんに打ってほしいんだけど、それは無理な頼みなんだろうね?」
「うちの病院がそこまで自由だとは思えないけど、一応は頭にとどめておく」
「頼みます」

 朝ご飯を食べてから一旦部屋に戻ると、お昼から本省に出向かなくてはならない裕章さんはスーツに着替え、私と一緒に駅まで行って、改札口を入ったところで別れることにした。

「じゃあ、お仕事頑張って」
「ありがとう。もし早く終わるようなら、夕飯を誘っても良いかな? それとも、事前になにかしなきゃいけないことがある?」
「今のところはないかな。だけど無理しないで。部屋に戻ってから、あっちに報告しなきゃいけないことも含めての仕事なんでしょ? 次の日曜日には間違いなく会えるんだし、その日を楽しみにしてるから」

 私がそう言うと、裕章さんは残念そうではあるけれど、納得した様子でうなづいた。多分その様子からして、誘っては見たものの、自分でも晩御飯の時間に終われるとは思っていないんだと思う。

「雛子さんが物わかりの良い女性で良かったよ」
「それは、裕章さんも私の仕事に対してちゃんと理解してくれているから。自分のことばかり押しつけてくる人だったら、そんなことないから」

 つまりはギブアンドテイクってことねと、笑ってみせた。

「僕としては、雛子さんにもう少し甘えてもらっても、嬉しいんだけどねえ」
「ダメダメ。まだしばらく離れて暮らさなきゃいけないんだから、いま甘えグセがついたら、とんでもないことになっちゃう」

 それこそ、研修を放り出して追いかけちゃうとか。だから今のままが、お互いにベストだと思うの。

「じゃあ次の日曜日、いや、土曜日かな。会えるのを楽しみにしてる」
「うん。じゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 そう言って、裕章さんは名残惜しそうな顔をしたまま、ホームへと続く階段を上がっていった。それを見届けてから、私も反対側のホームへと上がる階段を上り始める。その途中でハッとなって足を止めた。

「アヒル、ちゃんといるわよね?!」

 慌ててバッグの中をのぞきこむと、バッグの横のポケットから黄色い後頭部が見えた。良かった、今度はちゃんと自宅につれて戻れそう。

 階段を上って反対側のホームを見ると、裕章さんが携帯電話で話しているところだった。私に気がついて手を振ってくれたけど、すぐに真面目な顔つきに戻っているところを見ると、もう仕事に取り掛かっているみたいだ。

 私が乗る電車の方が早く来たので、それに乗ると窓際に立って、もう一度裕章さんの方を伺う。

「……」

 電話をしながらこっちを見ていたので、手を振ると振り返してくれた。そしてあっちも電車がホームに入ってきて、乗客の陰で裕章さんの姿は見えなくなってしまった。

 お互いの姿が見えなくなったところで、あいていた席に座って一息つく。昨日の夜から朝まで濃密な時間をすごしたせいか、頭も体もフワフワした状態だ。今いきなり緊急事態が起きて病院に呼び出されても、仕事にならないかも……。
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