僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第二部

第十八話 概ね合意の模様

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「もしもし、南山みなみやまさん?」

 ツンツンと突っついても、反応はウーンとかフーンとか、そんな意味不明な言葉しか返ってこない。

「もう、なんでそこまで言って寝ちゃうのよ」

 それとも、言って気が抜けたから寝てしまったのか。

 とにかくと、てつもなく重要なことを言い放って寝てしまった南山さん。私の内なるせっかち大王は、すぐにでも叩き起せと言い張っている。だけどここで無理やり起こして問いただしたとしても、ロクな返事は返ってこないからと、そんな大王をなだめつつ、自分の寝床をベッドの横に作ることにした。

 私のベッドはシングルなので、二人で仲良く並んで寝るなんていう選択肢はない。予備の布団一式はあるし、こっちの部屋はフローリングのダイニングと違って、昔ながらの畳敷きの和室。部屋にカーペットを敷いているから、寒さもかなりマシなはずだ。

「まさか、ベッドから落ちてくることは、ないよね……?」
 
 お布団を押し入れの中から引っ張り出してベッドの横に置いてから、南山さんの様子をうかがいつつ、着替えを持ってダイニングの方へと移動した。そして置きっぱなしになっていたレジ袋から、ペットボトルと他に購入したものを取り出す。南山さんのための新しい歯ブラシに髭剃りにシェーブローション。そして、なぜか避妊具まで。

『大事なものを忘れてますよ、雛子ひなこさん』

 コンビニに入った私の後ろを、おとなしくついて歩いていた南山さんが、ニコニコしながら持ってきたものだ。それは要らないですからと元の場所に戻したのに、レジで精算する直前に再び放り込んできたものだから、そのまま店員さんにピッと通されてしまったもの。店員さんの生温い営業スマイルが、なんとも言えないものだった。

 ペットボトルを冷蔵庫に入れて、南山さんが明日に使うであろうものは洗面所に置いておく。そしてこの小さい箱はどうしたものか……。しばらく考えた末に、洗面台の下にある棚に放り込んでおくことにした。それからシャワーを浴びて、いつものようにダイニングのチャブ台前に落ち着く。

 ベッドの方を見れば、南山さんはさっきと同じ格好で眠っている。

 夢の住人になった南山さんを起こさないように、音をしぼってテレビをつけてニュースを見ることにした。寝る前の一時間ほどは、こうやってテレビのニュースやネットでチェックするのが日課だ。外来にやってくるお年寄りの話には、けっこう時事問題が絡んだものが多く飛び出してくるので、そういう患者さん達とのコミュニケーション手段として、大事な事前準備でもあるのだ。

「あ、またここのチームは負けたのか……」

 夜食用のクリームパンをかじりながらニュースを見ていると、番組はいつものスポーツコーナーになり、ある野球チームが不名誉な記録をのばしてしまいましたと、担当のお兄さんが残念そうに言った。そしてその後ろでは、チームが連敗したせいで荒ぶっているマスコットの映像が流れている。

「いつになったら、連敗記録から脱出できるんだろ、ここのチーム」

 借金がとうとう10に!なんていうお兄さんの悲痛な叫びを聞きながら、そんなことを考えていると、隣の部屋でなにか音がした。南山さんが起き出してきたのだろうか?と部屋の方を見ると、南山さんの頭の上に、カラフルな色が散らばっている。

「え、また……?」

 南山さんの頭に降り注いだのは、ベッド横の机のペン立てに入れてあったボールペン達。本数が増えてきたので大き目のマグカップを買ってきて差してあったのに、まだバランスを崩して倒れたらしい。

「……重たいマグカップなのに」

 この重さなら大丈夫だと思って買ってきたものなのに、ボールペン達の重さには耐えられなかったようだ。カップが南山さんの頭の上に落ちなくて、幸いだったと思っておこう。

「それにしても幸せそうな顔して寝ちゃって」

 これだけの数のボールペンが頭に降り注いだのに、南山さんは呑気な顔をしたままで起きる気配さえない。ある意味うらやましい。

 あ、そう言えば今夜はアヒルはお留守番なんだろうか、それとも密かに背広のポケットに潜んでいるかも? 立ったついでに、ハンガーに掛けてある背広とコートにシュッシュッと消臭スプレーを吹きかけながら、上から軽く叩いてみる。細長い感触は手に感じられないから、やはりアヒルは一人で留守番のようだ。今頃は南山さんのことを心配して……いるはずもないか。

 それから一時間ほど、病院で行った治療や検査のことで気になったことや、川北かわきた先生から言われた注意点などをノートにまとめて寝ることにした。お布団に入ってから、東出ひがしで先生の言葉が思い出される。

『もし任地についてきて欲しいと言われたらどうする? 医者としてのキャリアを捨てて、あいつについていくか?』

 もしついてきて欲しいって言われたら、私はどうしたいんだろう。そんなことを考えながら眠りについた。


+++++


『ダメだ、こいつ。ほんとに、うんともすんとも言いやしないよ』
『僕達じゃなくて、悪いヤツだったらどうするんだろ?』

 南山さんの様子をうかがっている気配が漂ってきた。

『で? 外国に長期バカンスって本当なのかな?』
『それを言うなら、カイガイフニンってやつだろ?』
『御主人様はこいつと一緒に行くの? そしたら僕達も連れて行ってもらえる?』
『バカだな。フニンっていうのは、遊びに行くことじゃないんだぞ』
『似たようなものじゃないか、どうせ僕達は仕事しないんだし』
『それはそうだ』
『じゃあやっぱりバカンスだ』

 呑気な口調で、飛行機に乗る時の心得はかくあるべきと語り合っている声がする。

『あれ? そう言えばさ、あいつは今夜は来ないの?』
『この前のことで、まだ不貞腐ふてくされてるんだよ、まったくおとなげないったら』
『こいつと御主人様がくっつけばなんも問題ないのに、なにをやさぐれてるんだろうね』
『帰れるって喜んでいたから、余計にショックだったんじゃないの?』
往生際おうじょうぎわが悪いよね』
『まったくね~』


+++++


 朝刊を配っている、新聞屋さんのバイクの音で目が覚めた。寝たような寝てないような、中途半端な感じの目覚めに溜め息が出る。とは言っても睡眠が不足しているという感じはないので、まあ睡眠はしっかりとれていたんだと思う。ただ、頭の上でずっとボソボソと騒がしかったような気がするだけで。そして目が覚めると、なぜかミントの香りが漂っていることに気がついた。

「……歯磨き粉?」
「ごめん、夜中に目が覚めて口の中が気持ち悪かったから。置いてあった新品のを使わせてもらったよ」

 そんな声が後ろでしたので、振り返ろうとしたのに動けない。背中に当たっているのはベッドではなく、温かい南山さんの体だった。

「……なんで一緒のお布団に?」
「だって雛子さん寒そうに丸まっていたから。二人でくっついていたら温かいだろう?」
「まあ温かいですけど、せまくるしいですよ。一人用のお布団だし、下手したら体が外に出て、よけいに寒くなっちゃいます」
「だからこうやって、ピッタリ密着しているわけ。それと」

 腰に回されていた手がパジャマの中に滑り込んできた。

「せっかく買ったんだし、使わないともったいないよね?」

 南山さんはそう言って、私の前に洗面所の下にしまい込んだはずの箱をかざした。


+++


「ところで、寝る直前に自分がなにを言ったか覚えていますか?」

 しばらくして、落ち着いたところで南山さんの顔を見上げる。

「覚えているよ。それをどう雛子さんに切り出そうか考えていたら、うっかり飲みすぎてしまったんだから」

 上野うえのさん達に、そんなことでウジウジ悩むなんて女々めめしいぞ飲め!と言われたらしい。

「それで本当に、海外に赴任することが決まったんですか?」
「ここまで早い時期に内示が出るのは、珍しい事なんだけどね。来年度から、南米にある日本大使館の一つに、赴任することになると思う」

 南山さんはそう言うと、私の首筋に顔をうずめた。どうやら落ち込んでいる様子だ。しかし、なぜ?

「それって、すごいことなんですよね?」
「まあそれなりに? 大使への第一歩ってところだから」
「じゃあ、なんでそんなに落ち込んでいるんですか? しかも、ベロンベロンになっちゃうぐらいに悩んじゃって。外務省に入省したからには、最終目標は大使になることなんでしょう?」
「だって、雛子さん。今度は大臣の随行とかではなく、赴任なんだ。そりゃあ休暇で一時帰国はあるけど、少なくとも五年は戻ってこれないんだ。それでも良いのかい?」
「言ってることの意味がわかりません」

 私がそう言うと、南山さんは顔を上げて、信じられないといった表情をした。

「今でさえすれ違い気味なのに、僕が海外に赴任したら、まともに会うこともできなくなるんだぞ? それでも良いのか? もしかして別れたいとか言わないよな? 僕が戻ってくるまで待っていてくれるって信じて良いのか?」
「待ちませんよ、私」
「?!」

 この時の南山さんの表情は、ちょっとした見ものだった。

「やだなあ、ついていくに決まってるじゃないですか。ああ、もちろん南山さんが、一緒に来てくれって言ってくれたらの話ですけど。わっ」

 南山さんは素早く起き上がると、私のことも引っ張り起こした。急に冷たい空気にさらされてブルッと体が震える。

「なんですか、寒いからお布団の中から出なかったのに」
「そうじゃなくて!」

 そう言いながらも毛布を体にかけてくれるあたりは、なかなか気遣いの人なんだなと思う。

「そうじゃなくて、僕がどうして悩んだかというとそこなんだよ! 本当はついてきてくれって言いたいけど、雛子さんはあと一年は研修が残っているじゃないか。ちゃんとそれを終えないと、一人前の医者じゃないだろう?」
「もう国家資格は持っているから、一応は一人前の医者ではあるんですけどね……」
「それは建前ってやつだ。現実的には二年間の研修を終えなければ、一人前の医者とは認めてもらえないわけじゃないか。それを途中で放り出して一緒に来てくれなんて、とても言えるわけがないじゃないか」
「でも、私は南山さんについて行きたいです。もちろん、南山さんだけのためじゃないんですよ? 医者として、あちらの医療現場の現実も自分の目で確かめたいんです」
「待っていてくれというのは、僕のワガママなのかい?」

 少しだけ恨めし気な口調でたずねてきた。

「五年も待っていたら私、三十歳のおばさんになっちゃうじゃないですか。そんなのイヤですからね」

 南山さんはうなって考え込んでしまった。その優秀な頭の中で、なにを考えているんだろう?

「じゃあ妥協案を。あと一年。正確には一年と数ヶ月だけど、雛子さんはちゃんと今の職場で研修を終えること。それが終わったら、僕がちゃんと迎えにくる。これでどう? そうすれば、雛子さんの医者としてのキャリアも問題ないと思うし、あちらで好きなだけ勉強ができる」

 これ以上の譲歩はないからねと、怖い顔をする。

「一年と三ヶ月ですか?」
「そう、一年三ヶ月、研修が終わるまで」
「そうしたら、迎えにきてくれるんですか?」
「そこは約束する」

 南山さんの案をじっくりと吟味ぎんみしてみる。

「あの、南山さん」
「なに?」
「これって考えようによっては、プロポーズですか?」
「そうとも言えるかな。指輪もなにもないけれど」

 そこで少しだけ悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「探せばカバンの中に、イワトビペンギンのボールペンぐらいならあると思うよ?」
「もうボールペンはお腹いっぱいです」
「そうか。だったら僕が迎えにくる時までに、なんとかしよう」
「どうして一年三ヶ月後?」
「僕は自分の気持ちがはっきりわかっているけど、雛子さんはまだそうじゃないだろ? そのための猶予期間。本当に僕と一生添い遂げる覚悟があるかどうか、この一年三ヶ月でちゃんと考えてほしい」

 まだ僕よりアヒルの方が大切なようだしねと、南山さんはすました顔をして付け加えた。もしかして昨晩、背広を探っていたのに気づいていたんだろうか?

「それで、さっきの妥協案ついての雛子さんにの返事は?」
「……南山さんが迎えにきてくれるって約束してくれるなら私、一年三ヶ月はこっちで頑張ります」

 南山さんは、私の答えに安心した様子でうなづく。
 
「双方合意に達したね。だったら、きちんと調印式をしておこう」

 そう言うと、南山さんは私のことを再び押し倒して、おおいかぶさってきた。
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