貴方は翼を失くさない

鏡野ゆう

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本編

第十六話 初めての乾杯と物資補給

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「……」
「なんだ、なにが不満なんだ」
「なにも不満だなんて思ってませんよ。ちょっとばかりサービス過多すぎて、脳味噌が地上に戻ってきてないだけです」

 私だってパイロットのはしくれだ。だから訓練課程では、それなりのアクロバティックな飛行も経験してきた。だけど、今回の飛行教導隊の模擬空戦ほど無茶な飛び方はしていない。

「さすが空自トップクラスと賛辞したいところですけど、よくもあんな飛び方をして事故が起きませんよね。そっちのほうで感心しちゃいます」
「そうか?」
「そうですよ。こっちの鼻先を横切ったり、二機で追い越しざまに交差していったり。もしかして皆さん、自分達がブルーインパルスだって思い込んでませんか?」

 私がそう言うと、一尉は愉快そうに笑う。

「俺達は自分達がアグレッサーだって、ちゃんと自覚しているぞ?」
「どうだか怪しいもんですよ」

 ロッカーで着替え終わったところでやっと人心地ついた。普段からあんな無茶な飛び方をしているなんて、絶対に嘘に決まっている。私を乗せると決めてから、打ち合わせをしたに違いない。

「それだけ念入りに打ち合わせもしているし、訓練もしていてるからな。今回のだってある意味、天音あまねに見せるための、デモンストレーションみたいなものだ」

 ほら、やっぱり。

「三佐なんて、本番の模擬空戦ではもっとえげつないぞ。今日は天音がいるから、全員が行儀よく飛んでいたほうだ」

 ちょっと待った、今日より無茶な飛び方を?! 駄目だ、まったく想像がつかない。

「そう言えば、一尉が以前にオヤジって呼んでいたのって、日下部くさかべ三佐のことなんですよね? 私、もっとお年を召したかただと思ってました」
「戦闘機パイロットは現役で飛べる期間が短いからな。三佐は御年おんとし四十歳で、すでに戦闘機パイロットの中では長老様だ」
「四十歳で長老呼ばわりだなんて、ちょっとお気の毒です。こっちのパイロットでは考えられないですよ」

 戦闘機パイロットの現役期間が短いのは、それだけ操縦環境が過酷だということだ。理由があるとはいえ、完全な与圧がされていない環境下であれだけ体に負荷がかかる飛び方をするのだ。一線から退く頃には、戦闘機パイロットの体はガタガタになっていると聞いたことがある。

「ここを出る前に、全員と顔を合わせていけよ。皆、今日の感想を聞きたがっているから」
「もちろんですよ、今日のお礼はきちんと言っておかなくちゃ」

 そう言いながら榎本えのもと一尉に連れて行ってもらったのは、全員が集まっている会議室みたいなところ。部屋に入ると、日下部三佐がホワイトボードに描かれた飛行隊の展開図を前に、腕を組んでなにやら考え込んでいるところだった。そしてその後ろでは他のパイロット達が、思い思いに今日の飛行訓練に対する感想を、身振り手振りを交えながら話している。

「三佐、うちの機長殿をお連れしましたよ」

 一尉の呼びかけに、三佐がこっちに顔を向けてニヤッと笑った。

「ああ。その顔からして、ちょっとおふざけが過ぎたか?」
「そんなことありません。ただ普段とは違う飛行環境でしたので、少し戸惑っただけです」

 お行儀よくそう返事をした私の横で、一尉がニヤニヤと笑いながら口をはさむ。

「俺達がムチャクチャな飛行をするってオカンムリですよ」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
「言っただろ」
「それはそれは申し訳なかったな」

 ニヤニヤしながら謝っているところを見ると、三佐も本気で謝っているわけではないらしい。

「じゃあ、あらためてうちの坊主どもを紹介しておこう」

 そう言いながら、三佐は一人一人のパイロットの前に行き、タックネームと併せて私に紹介してくれた。パイロットは総勢二十名足らず。私はここの部隊の人間ではないけれど、なんだか身内として認めてもらえたような気がしてちょっと嬉しい。あ、これもまた風間かざま君がうっとおしくなりそうな出来事なので、彼の耳に入らないように秘密にしておかないと。

「あの、明日も見学にうかがっても良いですか? 地上であれこれと眺めているだけで良いので」

 その質問に、なぜか三佐は妙な顔をして一尉の顔をうかがう。一尉はそんな無言の問い掛けに、肩をすくめるだけだった。

「まあ来たければ来ればいい。だがせっかくの休暇なんだ、ゆっくりとすごしたらどうだと言いたいところだが、榎本の休暇は明後日あさってからだったな」
「この機長が休みをずらせと言うものですから」
「そうか。もし明日こっちに出てくることがあるようなら、誰かに案内させよう。無理して出てこなくても良いから、そっちの気分次第ってことでかまわないからな」
「ありがとうございます」

 三佐の言い方に妙な引っ掛かりを感じたものの、素直にお礼を言っておく。輸送機と戦闘機の整備がどう違うのか、比べてみるのも面白そうだ。明日は是非とも、整備員の皆さんに話を聞かせてもらおう。


+++


「じゃあ鍵を渡しておくから、一足先に帰っていてくれ。適当にお茶なりなんなり使ってくれて良いから」

 皆さんに挨拶をすませて廊下に出たところで、一尉のお宅の鍵とここからの地図を渡された。

「了解です。お戻りは何時ごろになりそうですか?」
「そうだな。なにごとも無ければここを六時には出るから、七時前にはそっちに戻れると思う。それから飯を食いに行こう。それまでの時間は、テレビを見るなりゴロゴロするなり好きにすごしてくれ」
「わかりました。勉強道具は持ってきているので、こっちのことは気にしないでください。あ、もし良ければ晩御飯、作りますよ?」

 私の申し出に、いやいやと一尉は首を横に振った。

「一人住まいの男所帯だから、冷蔵庫には酒ぐらいしか入ってないんだ。俺が休みに入って一緒に買い出しをしてから、好きなだけ料理してくれると助かる。ちなみに勉強道具とは?」
「防衛省が調達を計画している、機動衛生ユニットと空中給油ポッドについてです。数年のうちに正式採用される見込みになったので、その時になって慌てるより、今から勉強しておいたほうが良いだろうって、うちの教官が」

 調達を希望しても値の張るものだから、本省で計画が承認された後に、国会での審議と財務省との折衝が待っている。国会のことは良いとしても、財政的な問題で政府専用機の三号機導入を断念した経緯もあるので、財務省を相手にするところからが防衛省背広組の腕の見せ所、正念場といったところだ。

「なるほど。迷子になることは無いと思うが、気をつけて行くようにな。もし迷ってわからなくなったら、ここに戻れば良いから」

 そう言いながら一尉は、私の頬を指の背で軽く撫でた。その仕草にここが基地内だということを忘れて、ドキッとしてしまう。

「こ、この地図があれば大丈夫ですよ。じゃあまた後ほど」
「おう、気をつけて行け」

 こっちがドキッとしたことがわかったのか、一尉は意地悪い笑みを浮かべるとうなづいた。

 荷物を手に背中を向けて歩き出したとたん、背後でなにやら楽し気にワイワイ言う声と、一尉の怒っている声が聞こえてきた。少なくとも私の前では皆さん紳士的であったし、女子会がそうであるように男同士だけになれば、この手の冷やかしは良くあることなんだから、気にしないでおこう。


+++++


 一尉が住んでいるのは家族向けの官舎ではなく、民間の不動産会社から借りている物件だった。基地の近くということで、きちんと防音サッシになっている。窓を開けると、ちょうど上をT-4が結構な音を立てて横切っていくのが見えたので、試しにそのまま窓を閉めてみた。当然のことながら気にならないレベルまで音が遮断された。

「すごーい、うちの寮より高級装備かも」

 輸送操縦課程を修了した後、幹部候補生学校を卒業すれば、営内ではなく営外に住むことが許可される。それまでは特に考えず、基地のすぐ横にある官舎にしようと思っていたけど、ここまで違うなら、民間不動産のほうで探してみるのも良いかもしれない。あっちに帰ったら、緋村ひむら三佐や山瀬やませ一尉に話を聞いてみよう。

 荷物とコートを居間の隅っこに置かせてもらうと、エアコンのスイッチを入れてから、勝手にゴメンナサイと思いつつ台所に行って冷蔵庫の中をのぞかせてもらった。なるほど、本当に調味料と缶ビールとチーズ鱈しかない。

「毎日飛んでいるのに、ビールなんていつ飲むんだろ……」

 そんなことを呟きながら冷蔵庫を閉めて、やかんにお水を入れてお茶の準備を始めた。途中にあったスーパーに立ち寄ってお菓子を買って良かった、本当になにもないんだから。もしかしてチーズ鱈があったことのほうが珍しいのかも。

 お湯が沸くのを待つ間に、荷物とコートを一尉に言われていた寝室に持っていく。コートをハンガーにかけて台所に戻ってくる頃には、やかんから湯気が上がっていた。整理整頓がされていたお蔭で急須とお湯呑はすぐに見つけることができたので、出した急須にお茶っ葉を入れる。

「男の一人暮らしって散らかってるか、なにもないかの二択しかないのかな。まあ散らかってるよりずっと良いけどさ」

 自衛官の場合、防大や航空学校で整理整頓をイヤというほど叩きこまれるから、散らかっていないのはわからないでもないけど……。ブツブツと独り言を言いながらお茶を居間のテーブルに置くと、カバンの中から英和辞典と一緒に引っ張り出した分厚いテキストを開いた。

 C-130輸送機はアメリカから輸入されたものでなので、その周辺機器のマニュアルのほとんどが英語で書かれているものだった。こっちで飛ぶようになってからは日本語の簡易的なマニュアルが作られたけれど、まだ正式採用が認可されていない海外製のユニットに関しては、日本語版のマニュアルが存在しないのだ。だから辞書を引かないとわからない単語がひんぱんに出てくるので、辞書は手放せない。こういう事情もあって、整備員やパイロットなど自衛官には意外と高い英語能力が求められるのだ。

 お茶を飲みながらマニュアルを夢中で読みふけっていると、横に置いてあった携帯電話がブルブルと震えた。時計を見ればかなりの時間が経過していたらしく、外も暗くなっている。

「はい、もしもし?」
「俺だ。そっちに戻る途中なんだが出てこないか? 途中にスーパーがあっただろ? その近くによく行く店があるんだ」
「スーパーですね。その前で待っててもらえますか? 今から出るので」
「俺も基地を出たところだから急がなくていいぞ」
「了解しました」

 急がなくても良いと言われても、のんびりできないのが自衛官。立ち上がると急いで急須と湯呑を台所に持っていく。お茶っ葉はまだ使えそうなのでそのままにして、湯呑だけをすすぎ水切りのカゴに入れると、コートとバッグ、それから預かっていた鍵を手に部屋を出た。


+++


「だから急がなくても良いって言っただろ」

 一尉は、小走りに駈け寄った私を見下ろして呆れたように笑う。

「これは習性なんですから気にしないでくださいって、言いませんでした?」
「まったく可愛くない機長殿だな」

 そう言って、今度はほっぺたをムギュッと摘まんできた。

「それで? 何処に連れていってくれるんですか?」
「地元料理を出す居酒屋なんだがな。家族連れも多いし、うまいから天音でも大丈夫だろうと思ったわけだ」
「へえ。そう言えば私、あっちこっちに飛び回る任務をしているのに時間がなくて、ほとんど基地から出ることができないんですよね。遊びじゃないってことはわかってるんですけど、行った先の御当地料理を食べるチャンスがなかなか無いなんて、すごく損した気分」

 地元のおいしいもので食べることができたのは、那覇なは長門ながと一尉にご馳走してもらったサーターアンダーギーぐらいだ。

「じゃあ今回は、心行くまで味わっていってくれ」

 お店に入ると、お座敷席が空いていたのでそちらを使わせてもらうことにする。

「俺はビールを頼むが、天音はどうする?」
「じゃあこの日向夏ひゅうがなつのチューハイを」

 さっそく地元特産品の味を試してみようと、メニュー写真を指さした。

「ところで一尉、明日は休みじゃないのに飲んでも良いんですか?」
「俺は明日は飛ばないから問題ない」
「そうなんですか。なら良いですけど。……なんで飛ばないんですか?」

 私の質問に、一尉はやれやれと言った顔をして私のことを指さす。

「天音が見学に来たいと言ったからじゃないか。来た時の案内役を隊長からおおせつかっているわけだ。それと、これ幸いにと山のような書類仕事を押しつけられた」
「そうなんですか? だったら是非とも行かなくちゃ」
「行けたらな」
「ん? なんで?」
「さて。他に食べたいものはないのか?」

 また引っ掛かるような言い回しをされたので首をかしげてしまったけど、一尉は説明をする気がなさそう。そのまま色々なお料理が並んでいるページを開いて私に見せてくれた。

「えっと、やたらと地鶏の名前が多いってことは、このお店は地鶏おしってことですよね。だったらこの炭火焼きの盛り合わせってやつと、それから~~、あ、だけどこっちの鰹丼かつおどんってのも捨てがたい」
「遠慮なく好きなものを頼め」

 お料理を頼むと、お店の人がビールとチューハイ、それから一尉が注文した簡単なおつまみを持ってきてくれた。

「一年間お疲れさん。来年はいよいよ飛行幹部候補生だな」

 そう言いながらグラスを持ったので、私もグラスを手にして差し出す。カチンとお互いのグラスがぶつかって音をたてた。

「航空学校に入った頃はこの先長いなって思ってましたけど、いざここまで来るとあっという間の五年でした。特に小牧こまきに来てからは毎日が楽しくて」
「よほど飛ぶのが好きと見える」
「それもあります。それから指導教官の緋村三佐が凄く良くしてくださるので。あ、そうだ」
「ん?」
「お酒を一緒に飲むの、これが初めてだって気がついてました?」

 私に言われて気がついたのか一尉が笑った。最初に居酒屋で偶然会った時は、私が験担ぎでお酒断ちをしていた。そして小牧でご飯を食べた時は、次の日が訓練飛行だから飲めなかった。だから今回が初めて一緒に飲むお酒なのだ。

「ここまで来るのになんと長かったことか」

 一尉がそう言いながら笑っている。

「でも実際に会っている回数からすると、物凄く早い展開とも言いますよね? えーと、最初の適性訓練を入れても三回? 四回?」
「それは五年越しのことが無い天音の意見だろ? 俺からすると随分と待たされた」
「そうかなあ……」
「そうなんだよ。俺もよくこれだけ我慢してこれたなと、自分でも不思議でならない」

 溜め息をつきながら笑っている。

「そんなに会うの我慢してたんですか?」
「それ、本気で聞いてるのか?」
「ん? なんで?」
「いや、まあアレだ。そのへんは帰ってからゆっくりと話すことにする」
「そうですか。あ、そうそう、さっきのスーパーマーケットって、けっこう遅くまで営業してましたよね。ついでだから帰りに買い出しに行きませんか?」

 一尉が、どうしてかわからないけどなんとも言えない顔つきをした。

「それも本気で言ってるんだよな?」
「当たり前ですよ。申し訳ないけど、一尉がお酒しか入ってないって言ってたのが本当かどうか確かめたくて、冷蔵庫をのぞかせてもらいました。さすがにあれはひどいです。チーズ鱈とビールだけじゃ、お腹の足しになりません」
「別にチーズ鱈を飯にしているわけじゃないんだがな……」
明後日あさっては年越しですよ? お蕎麦もいるし、お節はともかく年明けのお雑煮用のお餅も必要じゃないですか。って言うか、今までどうしてたんですか」
「休みの時は独り者同士で集まって、酒盛りして年越しだったかな」

 普段の一尉の生活はともかく、せっかく花山はなやま三佐がガンバって、年末年始の休暇をもぎとってくれたのだ。ちゃんと年越し蕎麦もお雑煮も作らなきゃ。

「良いですよね? お買い物に行った時に、一尉のお宅に有る物と無い物を教えてもらわなきゃ。まさかお鍋や炊飯器がないとか言いませんよね?」
「それぐらいあるから心配するな」
「まあ独身の一尉が外食ばかりになるのは致し方ないことですし、寮生活で食堂使ってる私が偉そうには言えませんけどね……」

 にしたって、チーズ鱈とビールだけってのはやっぱりひどい。卵すらなかった。あれじゃあ冷蔵庫が、自分の存在意義に疑問を持っちゃいそうなぐらい可哀想な状況だ。

「とにかく、年末年始でお店がお休みに入っちゃう前に、物資の補給はきちんとしておかなくちゃ。あんな物資のないすっからかんの冷蔵庫を放置していたら、我が第401飛行隊の名がすたります」
「わかったわかった、そのへんのことは機長殿に任せるよ」

 一尉は降参だとばかりに笑いながら、そう言った。
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