シャウトの仕方ない日常

鏡野ゆう

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本編 1

第二話 今日も飛行日和

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 何年か前にここにいた整備員が、絶好の訓練飛行日和な天気のことを「イルカ日和びより」と呼んでいたそうだが今の天気はまさにそれ。

 雲も少なく風も静穏せいおん、今日の天候は終日こんな感じらしい。まさに訓練飛行にはもってこいの飛行日和でイルカ日和だ。ということは隊長を筆頭に飛ぶのが大好きなイルカ集団のこと、今日は一日目一杯飛ぶことになりそうだ。

「はぁぁぁぁぁ、超ブルーやわあ、嫁ちゃん、俺やっぱ今日は飛びたないねん、なんでこんなに晴れてるんやろうなあ?」

 歯ブラシをくわえながらベランダから空を見上げると、台所で朝飯を作っている嫁ちゃんに声をかけた。

「はいはい、歯磨き粉を落とさないでね~」
「つれないなあ……」

 朝の嫁ちゃんは、俺達の朝飯にパートに出掛ける準備にと多忙で、なかなか俺の相手をしてくれそうにない。チビスケのこともあるから俺も手伝うぞと申し出ても、手順が狂うとよけいな仕事が増えるから、手出し無用と言い渡されていた。

 だから俺が朝すべきことは、可能な限り嫁ちゃんの邪魔にならないように、おとなしく自分の出掛ける準備をするなのだ。

 しかし、言いたいことは手を止めない程度になら口にしてもかまわないと、許可が出ていた。なんでも俺は黙ったら死んでしまう大阪人だからだそうだ。なんでやねん。

「なあ嫁ちゃーん、ほんま飛びたないねん、聞いてるかー?」

 もう一度そう口にする。台所で自分の昼飯を弁当箱に詰めていた嫁ちゃんが、こっちに顔を向けた。

「わかったわかった今日〝も〟飛びたくないのよね。それより今日のおにぎりの具はなにがいい? 昨日の焼き鮭が残ってるけどそれにする? それともたらこ? 梅干? 牛肉のしぐれ煮と野沢菜もあるよ?」
「俺の言ったこと聞いてた?」
「聞いてたわよ。で? なんでもいいならホヤの塩辛にするけど?」

 俺がホヤが苦手なのを知ってて言うんだからな、まったく。

「……鮭でお願いします」
「わかった」

 これに似たやり取りをつい最近どこかでしたなあと思いつつ、ベランダに立ってにわか雨でも降らないものかと見上げていると、チビスケが俺の足に突進してきた。

「ゥオエッ?!」

 その衝撃で歯ブラシが口の奥に入ってしまい、思わず変な声が出る。嫁ちゃんが、そこで吐き出したら承知しないわよって顔をこっちに向けた。俺が悪いんやないのに理不尽や。

「パパ、チュナはー? チュナしないのー?」
「パパは歯磨き中やっつーの、危ないやろー?」
「チュナはーーー?」

 やれやれ。最近のチビスケのお気に入りはなぜかツナだ。一日一回は食卓にツナがあがらないと、ご機嫌ななめという気に入りようだった。

 そして自分が気に入ったうまいものを俺達にも食べさせようと、まるでツナ缶メーカーの手先のようにすすめてくる。そんなわけで最近の我が家の食費は、ツナ缶の占める数字がかなり高くなっているらしい。

「んじゃあ二個目はツナにするな。嫁ちゃん、二個目はツナマヨでよろしく」
「りょーかい。今日のツナは和風だし風味のやつだよ。みっくんのお気に入りなんだよねー」
「おおー。あのツナはけっこううまいよな」

 俺と嫁のやり取りを聞いて、チビスケは満足げに鼻の穴をふくらませた。

 ちなみに嫁ちゃんとチビスケにも、ちゃんと真由美まゆみ光流みつるという立派な名前がある。ん? なんだって? 光流はキラキラネームじゃないのかって? やかましい、俺の愛する嫁ちゃんがつけた名前なんだ、文句は言わさんぞ。

「そろそろ歯磨き終わらせてー」
「へーい」

 嫁の命令で洗面所に向かう俺の後ろで、チビスケが「チュナはー?」と催促する声が聞こえた。ほんまにどんだけ好きやねんってやつだよな。

 そして朝飯を食って片づけると、準備完了と同時に三人そろって自宅を出た。

「あ、おはようございます、影山三佐、奥さん。みっくんもおはよう」

 階段を降りたところで声をかけてきたのは、同じ官舎に住む整備班の坂崎さかざきだった。まだ通勤の時間には早い時間なのだが、機体整備をする彼等の朝は俺達よりもずっと早い。今日は朝からあがることがわかっているので、普段よりも早めに出勤することにしたのだろう。

「おはようさん。整備班はいつも朝がはようて大変やな」
「いえいえ、好きでやってる仕事ですから大したことないですよ。じゃあ、お先に失礼します。三佐がエプロンに出てくるまでに、きちんと五番機は点検しておきますから!」
「いや、なんもせんでええよ。五番機と一緒に地上でおとなしゅう留守番してるし」

 俺の声が耳に入ったはずなのに、坂崎はニコニコしながら五番機の横でお待ちしてますからね!と念を押すように言うと、ご機嫌な様子で行ってしまった。

「まったく人の話を聞けっちゅうねん」
「きちんと点検してくれるって言ってるんだから、素直にありがとうって言っとけば良いじゃない。あなたの後輩君で優秀なんでしょ?」

 たしかにあいつは優秀な整備員で、沖田おきた隊長と総括班長の青井あおい三佐の覚えもめでたい、そこは認める。だがそれとこれとは別の話だ。

「だから俺は飛びたないねんてば。機体がな? こー、グルングルンする時なんてやなあ」
「はいはい、今日も安全飛行で頑張ってね」

 本当に誰も理解してくれなくて切なくなる、はあ……。

「できたら天候不良になってくれると良いんやけどなあ……昨日の天気予報、雨とか言ってへんかった?」
「達矢君は気象庁さえ勝てない超晴れ男だから、この空模様で雨を期待しても無駄だと思うの」
「そやねんなあ……」

 ここに来てから、訓練や展示飛行が中止になったことは、片手で数える程度しかなかった。しかも天候が悪い日でも、俺が飛ぶ時間になると確実に晴れるときたもんだ。

 おひぃさんに愛された五番機さんと密かに言われているようだが、俺だってたまには飛行訓練中止とか走行展示だけとか、そういうのも経験してみたいんやけどなあ。ブルー仕様の雨天用ポンチョだって、ここに着隊してからまだ一度も袖を通したことがないんだぞ? あれだって一度は着てみたいのに。

「じゃあ、みっくんのことお願いね。お迎えはいつもと同じ時間になりますって先生に伝えておいて。なにか連絡事項があるようなら、昼間にスマホを確認するから、メッセージを入れておいてくれたら良いから」
「了解」

 俺の朝一番の重要任務は、チビスケを保育園に送り届けることだ。最初のころは、制服姿のおっさんが子供を送ってきたということで、ママさん達が大騒ぎだったがそこはやはり基地の街、ここ最近はずいぶんと落ち着いている。

 駐輪場で俺の自転車の前にチビスケを乗せると、嫁ちゃんがその頭にヘルメットをかぶせた。最初はいやがっていたんだが、パパとおそろいよと言われてからは喜んでかぶるようになっている。というわけで、チビスケのヘルメットは嫁ちゃんお手製の五番機仕様のヘルメットだ。

「じゃあ行ってきます」
「おう、気ぃつけてな。それとおばちゃん達によろしゅうな」

 嫁ちゃんを見送ってから俺も自転車にまたがる。

「ほな、みっくん、いくでー。ちゃんとつかまっときやー? ブレーキリリース、ナウやで?」
「はーい、なうー!」
「ラジャー、みっくん五番機、レッツゴー!」
「れっしゅごー!」


+++++


「……はあ。やっぱり晴れとるわ」

 制服からフライトスーツに着替え、嫁ちゃんが作ってくれたおにぎりを食いながら窓の外を見上げる。

「しかもさっきより雲の数が減ってへん? ってことは今日も第一区分間違いなし?」
「たしかに減ってますね。しかしすごいです。三佐の晴れ男っぷりは、うちの親父の上をいきますよ」

 俺の横で窓の外を見上げていた葛城かつらぎが笑いながらうなづく。葛城の父親は元イーグルドライバーで、現役時代にはいくつもの愉快な逸話いつわを残している人物だ。

「葛城一佐の晴れ男ぶりも伝説級やもんな。イーグルを降りた今でも、その効力は健在なんか?」

 そして葛城一佐の晴れ男伝説は少しばかり変わっていて、一佐の高笑いに雨雲が恐れをなして逃げ出すから晴れるらしいというものだった。ちなみに俺は、残念ながらその伝説の高笑いにお目にかかったことは一度もない。

「ええいまだに。うちの母親は、テルテル坊主代わりに父親を局のロケに同行させたいっていつも言ってますよ。あ、そうだ、ブリーフィングで隊長から話が出るとは思いますが、三佐にはその前にお知らせしておきます。今日から自分が六番機の前席になります」
「ってことはそろそろ展示デビューもいよいよか」

 葛城が六番機として飛行訓練を初めて、もう半年が経ったのか。早いものだ。

「はい。そういうわけですので今日からデュアルソロ、よろしくお願いします」
「俺にもはよう弟子がきーひんかなあ、さっさと正パイロットの座を押しつけてやるのに」
「まだ五番機として飛び始めて半年じゃないですか、気が早すぎますよ三佐」

 葛城があきれたように笑った。

 それから俺達はミーティングを終えると、ヘルメットと耐Gスーツを手に外に出た。

「はあああ、葛城は俺のデッシーちゃうやん、なんで付き合わなあかんねん」

 なんでも、今日から六番機の前席で操縦桿を握る葛城の曲技精度をさらに上げるため、五番機の俺は、可能な限り六番機とともに訓練飛行に上がれとの隊長からのお達しだった。ってことはほぼ毎日フルフライトということになる。しかもメインはデュアルソロ課目。

「もしかして、ずっと引っ繰り返ったまんまになるんちゃうん、俺」
「そんなことないでしょ……いや、そうなのかな?」

 葛城の師匠で、六番機ライダーをつとめる長尾ながおが首をかしげてみせた。

「とにかく、六番機と飛ぶ機会が一番多いのが五番機なんですから、葛城の技量向上のためだと思ってあきらめてください」
「なにがあきらめろやねん。お前の弟子なんやから、師匠のお前がなんとかしろって話やろ」

 俺のかわりに五番機に乗って飛びやがれと言ってやったら、ヤツが大笑いする。

「さすがに俺でも五番機のかわりはできませんからね。今の五番機は三佐ただ一人です。まあ頑張ってください、シャウト」
「だからシャウトちゃうって言ってるやろ!」
「ほら叫んでるじゃないですか。イヤならシャウトするなってことでしょ?」
「ぐぬぬぬぬ……」

 このタックネームでいる限り、俺の飛行中の愚痴りは黙認と隊長が決めてから反論できなくて困る。そのうち、航空祭でもシャウトさんって呼ばれる日が来るんじゃないかと、今から憂鬱ゆううつだ。

「まったく飛びたないゆーてんのに」

 ブツブツ言いながら、全員でいつものように整列する。今日は長尾にかわって葛城が俺の横に立った。最初から操縦桿を任されるとあって、いつも以上に誇らしげな顔をしている。

「嬉しそうやな」
「はい。ようやく一人前のブルーだと認められた気分です……まだデビューは先ですが」

 本当に嬉しそうだ。その状態が実にうらやましい。

「きっと今日のブルーファンのSNSは大騒ぎなんちゃうか? 六番機デッシーの独り立ちの時が近づいてきたって」
「だったら、師匠の長尾一尉に負けないようなフライトをしないといけませんね。師匠に恥をかかせるわけにはいきませんから」

 そんな心配は杞憂きゆうだと言ってやろうかと思ったがやめておく。何事も最初が肝心。独り立ちのプレッシャーを跳ねのけることも大事なステップの一つなのだから。

 横一列で足並みをそろえて歩きながら、それぞれの機体の前に立つ。チラリと横に視線を向けると、少し緊張気味の横顔が見えた。今日は、いつも以上に気をつけて飛行しなければならないだろうな。

「……ってあっかーん、なに先輩パイロットらしいこと考えてんねん! 自分のことだけで精一杯やのに、葛城のことにまで気ぃ配れるわけないやん。あかんあかん、あっち弟子のことはあっちの師匠に任せるに限るわ。俺は俺のことだけで精いっぱいやって」
「なにブツブツ言ってるんですか。奥さんのおにぎりもお腹におさまって、今日も三佐は元気いっぱいでしょ。はい、どうぞ、さっさと乗りましょう!」

 耐Gスーツを身につけると、坂崎がようしゃなくそう言い放って俺をコックピットに追い立てる。

「坂崎君、今日こそは」
「却下です却下。俺はキーパー、貴方はライダー、俺は首になりたくありません。頑張れ先輩」
「はい、準備OK、安全ベルトも異常なし、テイクオフのお時間ですよ、三佐」

 ハーネス装着などを確認していた神森かみもりもさっさと顔を引っ込めた。まったく五番機組は薄情者の集団だ……。

「はあ、今回も何事もなくはよう終わりますように……!!」

 いつものように柏手をうって拝む。本日最初の飛行訓練は当然のことながら第一区分、二十七課目。そして今日の六番機の操縦桿を握るのは葛城二尉。

「ああああ、まったく、葛城! 長尾のことなんてどーでもええから、ちゃんと飛ぶんやで!」
『了解です、シャウト』
「だーかーらー! シャウトやなくてシャドウやっちゅうねん!」



 本日も松島基地上空は実に騒々しい、じゃなくて清々すがすがしい飛行日和。
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