政治家の嫁は秘書様

鏡野ゆう

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新人秘書の嫁取り物語

新人秘書の嫁取り物語 第五話 side - 影山

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 沙織さんが髪をカットしてもらっている間、俺と小日向さんは、同じビルにテナントで入っている喫茶店で、遅めの昼食をとることにした。出掛けるのが昼にずれ込んだのを気にして、先にお昼ご飯を食べてから出掛けても良いですよと、沙織さんは言ってくれたのだが、待ち時間を有効に使うのでお気になさらずと、いま目の前でオムライスを食べている彼女がキッパリと断ったのだ。前の職場の女性社員や、重光事務所で働く女性スタッフとまったく違う態度に、少しばかり驚かされる。

「そんなにジロジロと見て、なんですか?」
「いや、別に」

 そう言いながら、自分の前に置かれた皿のポークソテーに目を落とす。すると彼女は意外なことを口にした。

「ところで知ってましたか? ここ、口コミで、オムライスがとても美味しいと言われているお店だってこと」
「そうなのか?」

 俺が知らなかったことに、驚いたような顔をしている。

「奥様が来られるお店と同じビルにある店だから、とっくに影山さんも知っているかと思ってました」
「普段の俺は、沙織さんを送迎をすることがほとんどないから」

 いま、沙織さんと俺が一緒に行動することが多いのは、前任の倉島さんが担当していた件について、沙織さんがそこそこ詳しいからであって。送迎を含む秘書的な仕事を兼任しているからではない。さらに付け加えると、この手の店舗関係の情報は、倉島さんからそちら関係の情報を引き継いだ沙織さんの方が、圧倒的に詳しい。

「なるほど。じゃあ奥様は、一人でお出掛けになってるんですね、普段は」
「送ってもらうなんてもったいないとか、俺達の仕事の邪魔になるから申し訳ないと言ってね」

 政治家の奥様方というのは、大体は自家用車かタクシーかと思っていたが、若い沙織さんは普通に電車やバス、地下鉄を利用して、あちらこちらに友人達と出掛けている。もちろん重光先生と一緒の時は車を利用しているが、まだ、そういう生活に慣れることができないらしい。そう言えば、自宅に家政婦さんがいるのも落ち着かないと言っていたな。

「もちろん、出掛ける先がお互いに近ければ、ついでに送迎することはあるんだが」
「警護対象の安全を考えれば、玄関から目的地までエスコートすることが理想なんですが、そうもいかないようですね」
「本人が嫌がるだろうな、大袈裟すぎると言って。実際のところどうなんだ? そこまで差し迫った危険が存在すると?」

 小日向さんが沙織さんにつくことは決まったが、急だったこともあって、初日も「本日より、奥様のお世話をすることになった小日向さんです」と紹介された以外は、他のスタッフにも彼女の経歴は周知されていない。ここ数ヶ月の間に、沙織さんも秘書としてだけでなく、議員夫人としての予定が入るようになっていたから、スタッフ達もその説明で納得した様子だった。ただ、美月さんあたりの古参のスタッフは、元後援会長襲撃事件が関係しているのではと察してはいるようだが。

「現時点での私の主観ですが、そこまで差し迫ったものがあるとは考えにくいと思います。ただ、重光議員としては、奥様の元の勤め先にいたセクハラ男のこともありますから、少しばかり奥様の安全確保にナーバスになっているのではないかと」
「ナーバス……」
「影山さんは違う考えを持っているんですか?」

 俺の呟きに、彼女の目つきが少し冷たいものになった。

「いや。先生が沙織さんのことで、神経質になるのは今に始まったことではないから、今回の手配には驚いただけだ。それに今回の怪我に関しては、俺の責任もあるわけだし、俺がとやかく言う資格も無いわけで」
「自分の責任と考えるなんて馬鹿げてます」

 ビシッと言い放たれ、思わず箸でつかんだ肉が落ちる。

「いやしかし」
「しかしもかかしもありません。警護経験の無い影山さんに、奥様の警護役をしろというほうが間違っています。だいたい素人が下手に動き回れば、それだけで状況が混沌として大迷惑なことなんですよ。以後も、変なヒーロー根性は出さず、そういうことがあったら私に一任してください」
「大迷惑……」
「そうです。秘書に警護はできません。もちろん、影山さんが元SPというなら、話は別ですが」
「……元証券マンだ」
「なら、大人しく自分の職務に集中したほうが、お互いのためですね。次になにかあった時は、なにかしようとはせず、大人しく安全な場所に隠れるのが最善です」

 そうは言われてもなかなか納得できない自分がいる。それは恐らく、小日向さんが女性ということもあるのだろう、と自分の中にある男のプライド部分がささやいた。

 それからしばらくして、食後のコーヒーを飲んでいると沙織さんがお店に入ってきた。それまで肩の下まであった髪がバッサリと切られていて、一瞬誰だかわからなかったぐらいの変わりようだ。

「随分と思い切りましたね」
「思いのほか枝毛が凄くて。思い切って短く切っちゃいましょうってことになりました。これから暑くなりますし、ちょうど良かったです」
「なにかお食べになりますか?」

 小日向さんが、席についた沙織さんに、テーブルの横に立てかけてあったメニューを差し出す。

「ここのオムライス、食べました?」
「私は食べましたよ。影山さんは何故か、お昼の定食にしてましたが」
「もったいない。ここのオムライス、美味しいって評判なのに……」

 ガッカリし口調でそう言いながら、沙織さんが俺を見つめた。そんなことを言われても、小日向さんに言われるまで知らなかったんだからしかたがない。

「いやそれは、そのことを知らなかったからであって。知っていたら頼んでましたよ、俺だって」
「じゃあ次に来た時は、是非とも食べてみてくださいね。で、時間が大丈夫なら、私はここのチョコパフェが食べたいかな。お二人がお仕事中じゃなかったらこれ、頼むんだけど……」

 そう言って指でさしたのは、ジャンボパフェと書かれた、ビールジョッキにアイスやフルーツが積まれているもの。一体これは、何人がかりで食べるものなんだ……?

「これ、一人で全部食べるとか言いませんよね?」
「まさか! 三人いるからいけるかなと思ったんですけど。甘いものは別腹って言うでしょ?」
「……俺は無理ですよ、別腹なんて生まれる余地はありません」

 こんなものを三人で食べたなんてバレたら、絶対に先生になにか言われる。この事務所で働き始めてすぐに、重光先生の沙織さんに対する度を超した溺愛っぷりに気がついた。長い付き合いの杉下さん達は慣れたもので、そんな様子を見てもハイハイと笑って軽く流しているのだが、とにかく凄い。そんな先生に、沙織さんと仲良くパフェを食べたなんて知られてみろ、小日向さんはともかく、俺は次の日に東京湾に浮いているかもしれないじゃないか。だから例え別腹の余地があっても、それを認めるわけにはいかない。俺の明日がかかっているのだから。

「今日は、普通サイズのものを頼んだほうが無難ですね」
「ですねえ、じゃあジャンボパフェも次の機会ということで」

 次の機会があるのかと、密かに突っ込みを入れた。


+++++


「ところで小日向さんはいつまでここに?」

 沙織さんを病室に送り届けてから、事務所の車を取りに自宅へ戻る途中、助手席に座っていた小日向さんに尋ねた。

「私がこちらにいたら、ご迷惑ですか?」
「いや、そういうことじゃなくて単なる世間話的な質問。いつまでも休んでいたら、勘がにぶるだろ?」

 他のスタッフには詳しく知らされていないが、俺達秘書には、彼女が怪我で休職中だったこと、首相夫人の警護をしていた経歴があるなどの情報は知らされている。そんな彼女が、言葉は悪いが、いつまでも若手議員夫人の警護をしているとは思えない。首相夫人の担当を任されていたということは、かなり優秀なんだろうし、休職期間が終わって本格的に現場復帰ともなれば、再び首相夫人の警護担当になる可能性もあるわけで。

「どうでしょうね。これまでの仕事には誇りを持っていますが、戻りたいかと問われると少し考えてしまう状態で」
「そうなのか?」

 意外な言葉だった。すぐにでも現場復帰をしたいのでは?と思っていたんだが。

「入院している間、色々と考える時間がありましたし、今の仕事を辞めても、しばらくは食べていけるだけの蓄えもありますから。それに、重光先生からはうちで働かないかと言われているんですよ」

 公務員というのは給料はそれほど高くはないものの、それを使う時間がなくて、どんどん貯金残高が増えていくという話を聞いたことがある。彼女もそれなんだろうか。だがそこまで長く仕事をしている年には見えないんだが。

「影山さんだから言いますけど、実は入院直前に夫の浮気が判明しまして。友人の弁護士が、嬉々として状況収集にあたってくれたんですよ。なので住む場所にも食うことにも困らないと」
「あー……両者からしっかりと」
「そうです、しっかりと」

 話を聞けば、彼女の元夫も同じ警察官で、擦れ違いの生活が続くうちに、留守がちな妻を裏切って別の女に走ったという。同じ警察官なら、彼女の仕事にも理解がありそうなものなんだが、人の心というのはわからないものだ。

「それもあって、気分を変えてみるかということで」
「そうなのか。じゃあ俺と同じなんだな、小日向さんも」
「同じ?」

 小日向さんがこちらに視線を向け、首をかしげた。

「俺の場合は、仕事に没頭しすぎて家庭をかえりみないでいたら、嫁が浮気して離婚届を置いて出て行ったんだ。会社を辞めて、ダラダラとちょっとした仕事をしている時に、重光先生の知り合いから声をかけてもらったんだ。前の仕事が少しは役立つだろうし、やってみないかって」
「そうだったんですか。どちらも、仕事に理解の無い伴侶を選んでしまったということですね」
「俺の場合は、仕事にのめり込みすぎていたわけなんだが」
「そういうの、やめたほうが良いと思いますよ?」
「……どの部分?」

 ちょっときつめの言葉を投げつけられて戸惑う。

「なんでも自分のせいだと思うところです。沙織さんの怪我しかり、奥さんの浮気しかり。沙織さんの怪我は、素人の影山さんに阻止できたとは思えませんし、奥さんのことにしても、どういう理由であれ浮気をするほうが悪いんです」
「そういうものなのかな……」
「そういうものです。まあ今の言葉は、弁護士である友人が私に言った言葉なんですけど」
「俺も小日向さんの友達に頼めば良かったな」
「喜んでケツの毛まで毟り取ってくれますよ。今からでも依頼してみますか?」

 その言葉に思わず吹き出してしまった。まさか真面目そうな小日向さんの口から、そんな言葉を聞こうとは思わなかった。

「いや、やめておくよ。取り敢えずはふんだくってやったし、今は新しい職場で楽しく仕事をしているんだ、いまさら、あの二人の顔をみて心機一転な気分を台無しにしたくない」
「なるほど。それは前向きな考えですね」


+++


 自宅に戻り、事務所の車に乗り換えた直後に杉下さんから電話が入った。沙織さんのことでなにか言われるかと思っていたがそれはなく、以後は急ぎの案件も無いので、小日向さんを自宅まで送ってからこちらに戻ってきてくださいとのことだった。彼女の自宅は都内のマンション。なかなか凄いところに住んでいるなと感心していたら、友人のお蔭ですと澄ました顔で言ってきた。なるほど、ケツの毛まで毟り取った結果がこれか。

「もし、重光先生のところでずっとお世話になるんでしたら、ここを売り払って、もう少し事務所に近い場所に家を買っても良いんですけどね」
「たしかに松平のあたりは、地価も住宅も都心に比べればまだまだ安いから可能だろうね。もしその気があるなら、不動産を扱っている知り合いがいるから紹介するよ」
「ありがとうございます。そのうち、お願いするかもしれません」

 そう言いながら小日向さんは車を降りる。

「今日はありがとうございました。車まで出していただいて」
「いや。こういうこともあるさ。頻繁にあるのは困るけどね」
「それは奥様次第ですね。私は奥様の希望が最優先ですから。では、お休みなさい」

 ドアを閉めると、彼女はマンションのエントランスへと真っ直ぐ歩いていった。

 夕飯でも誘えば良かったかなと思いついたのは、車を出してしばらくしてから。ま、そのうち誘う機会があるだろうと思い直すと、そのまま事務所へと車を走らせた。
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