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本編
第十六話 空から恐怖の鍋蓋が降ってきた
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糧食班でご飯作りをする班員の多くは、駐屯地内の様々な部隊から持ち回りで派遣されてくる隊員達だっていうのは、前にも話した通り。
そして中には以前ここにいた兵長君のように、一から教えなくてはならない子達もいる。そして今回もそういう子がいた、しかも、今までどこに隠れていたんだろうって思うぐらい強烈な、女子隊員ちゃんが。
「おい」
「…………」
「おい、音無」
「…………」
「魂が抜けてるぞ、音無」
「あ?」
他の上官にやったら、間違いなく叱責を受けるような返事をして振り返る。森永二尉はそんな私の顔を見下ろして苦笑いをした。
「なんて顔をしてるんだ」
ここは幹部専用の食堂で、普段は私達のような一般の隊員は立ち入らない場所だった。だけど、片づけるものや補充する必要があるものがある時などは、私達でもこうやって立ち入ることが許されている。ただし只今の私は片づけているというより、片づけるふりをしながら機能停止中。
「どうした? 新しく来た隊員との間でなにかあったのか?」
「お米を洗剤でとがれました」
「……なんだって?」
「お米を、食器洗い用の洗剤で、とがれました!!」
私が言ったことを理解するまで少し時間がかかったみたいで、二尉はその場で立ち尽くしていた。
「……マジか」
そして口から出たのがそんな一言。私も最初にそれを見た時は思わず「マジか」と呟いてしまったから、その気持ちはよく分かる。
「お米を洗剤でといだとか納豆を水洗いしたとかいう話は、都市伝説級の冗談だと思っていましたよ。まさか生きている間に、本当にそんなことをする人間に遭遇するとは思いませんでした」
「隊員なんだよな?」
「そうですよ。陸士長さんです」
その子は衛生科に新年度に配属されてここにやって来た、ピカピカの新人さんだ。つまりは江崎さんの後輩にあたる。ただ少しばかり厄介なのは、そのピカピカちゃんのお父さんが、陸自の偉い人らしいってことだった。
おしなしく普通にお嬢さんをしていれば良いのに、何故よりによってここに?というのが、その話を聞いて真っ先に浮かんだことだった。さらに話を詳しく聞けば、頼りない自分の娘に少しでもシャキッとして欲しくて、お父さんなりに考えてのことらしい。その気持ちは分からないでもないけど、うちは修行の場じゃないし、受け入れるこっちの身にもなって欲しいな。まあ少なくとも訓練は無事に潜り抜けてきたんだから、身体的能力はあるんだろうけど……多分。
「おい待て音無。その米はどうなった」
「さっきの夕飯で皆さんのお腹の中ですよ。ああ、もちろんきれいに水洗いしましたよ、私が。だから安心してください。駐屯地で隊員が謎の腹痛なんてことにはなりませんから」
「俺達に食わせたのか、おい」
「だからー、綺麗に洗浄したって言ったじゃないですか。大丈夫ですよ、すぐに気がついて止めに入ったから、お米が洗剤を吸ったってことはありません。ちなみに私が出す前に毒見しましたよ」
私が無事なんだから、そ私以上に頑丈な皆さんは大丈夫でしょと言ったら、二尉はものすごーく複雑な顔をしていた。
「だって人数分ですよ? 破棄するなんてとんでもないですよ」
「それはそうかもしれないが、いくらなんでも……」
「蓮田班長とも話し合って決めたことですよ。心配ありません」
納得しているようなしていないような顔だ。
「二尉も食べたんでしょ?」
「ああ」
「お腹痛いんですか?」
「いや、至極普通だ」
「味、まず味かったんですか?」
「いや、いつも通りでうまかった。少し柔らかいかなとは思ったが」
「それは私が洗いまくって水を吸ったせいですね。それぐらいなら問題ないでしょ」
多少のご飯の柔らかさや味つけの微妙さは、新しい子が糧食班にやってきたシーズンなんだなってことで、皆が納得するところだ。だから特に叱責があるというわけではない。炊く時に水加減を調整したつもりでいたけど、もう少し水の量を減らしておけば良かったな。
「……ところで話は変わりますが二尉」
「なんだ?」
「たしか明日の訓練で、小隊は裏山の中に分け入るんですよね?」
藤谷二尉の小隊と、敵味方に分かれての訓練をするって大森さんから聞いていた。
「そうだが、それがなにか?」
「その訓練に私を連れ出してもらえませんかねえ……ご飯要員として」
「また無茶なことを」
「もー、今回の子は私の手に負えませんよ。私、宇宙人を見ている気分です」
言うなればこれは敵前逃亡希望ってやつだ。私の溜め息まじりの言葉に、二尉は気の毒そうに笑った。少しでも気の毒だって思うなら連れ出してくれ!!
「下の隊員の教育も任務のうちの一つだろ?」
「そうなんですけどね。正直言って、今度ばかりは私にも自信がありませんよ。とにかく今は、何かあったら大変なので、つきっきりで監視してますけど」
気分は何が飛び出すか分からない、ビックリ箱を抱えている気分だ。
「俺は連れ出してやっても構わないが、音無がいなかったら食堂が大惨事になるんじゃないか?」
「そこまで考えなくて良いですよ。二尉は私のことだけを心配してくれれば良いんです。野草の見分けぐらいなら私でもつきますよ? どうです?」
しばらく考えるように首をかしげてたけど、気の毒そうに笑うだけだった。ちっ、連れて行ってもらえないのか、無念だ。連れ出してくれたら、おいしいキャンプ料理でも作ってあげようと思ったのに。
+++++
そんなわけで私は、不承不承そのピカピカちゃんの指導をし続けることになる。
私が憂鬱そうな顔をして毎日すごしていたせいか、蓮田班長が心配して調理室に顔を出すまでになってしまった。もちろん班長は他の班員にはそんなことは言わず、呑気な顔をして調理現場をのぞいている風を装ってくれてはいたけれど。
そして、嫌々ながらの気分でのぞんでいれば注意力も散漫になるのは当然のことで、その日、気がついたら何故か彼女が開けた大鍋の蓋が、私の足の上に落ちてきた。
「……釜屋陸士長」
「は、はい!!」
「その蓋、どうして鍋本体から離れた場所に存在しているのかな? たしかこれ、くっついていたはずだよね、鍋本体と?」
痛みに悶絶したいのを何とかこらえて、横で慌てふためいている彼女に声をかける。あああ、蓋と足の甲がぶつかった時に変な音がしたんだけどな、大丈夫かな、これ……。たかが蓋、されど蓋、落ちた角度が悪かったとしか言いようがない。自分の注意力散漫さも反省しなきゃ。だけど今は、蓋がどうして本体から分離した状態になっていたかってことだ。
「あ、あの、大鍋を洗う時につながっていると洗いにくいので、本体と蓋を分離しました」
「うん、それは前にそうしなさいって指示を出したね。それで?」
「その、元の場所に置いた時に蓋をかぶせたんですが、そのままボルトをしめるのを忘れてました……」
「そういうことだよね。とにかく今ここで、きちんと蓋と鍋本体をつなげておこうか、他の人の上に蓋が飛んでいっても困るから」
「はい……あの……すみません……」
「その話は後で改めて。とにかく今は蓋の設置が優先」
ここまで話を続けた自分を褒めてあげたい。
「苅部二曹、後を頼めるかな。私は音無三曹を医務室に連れて行くから」
蓮田班長が私の横に立つと、今の班員の中で一番年長の苅部さんに声をかけた。彼は高校時代にバイトで飲食店にも勤めた経験もあるので、その点では安心して任せることができる。
「分かりました。こちらは自分が責任を持ってやらせます」
「じゃあ行こうか」
「あの、私も行きます」
「君がまずしなければならないことは、鍋と蓋を責任もってきちんと設置し直すことだろう? 音無三曹は私が連れて行くから、ちゃんと言われたことをしなさい」
蓮田班長が普段より少し厳しめの口調で、私達について来ようとした釜屋陸士長に申し渡す。
「蓮田班長、その口調なんだか自衛官みたいですよ」
「だから僕は自衛官だって言ってるだろ。さあ、行こう。こっちの肩につかまりなさい」
班長の肩を借りて調理室を出る。そして医務室に向かおうとしたところで、二尉と藤谷二尉と鉢合わせをした。こっちの様子を見て驚いた顔をしている。
「一体どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも……大鍋の蓋が何故か足の上に落ちてきたんですよ」
釜屋陸士長のせいだとは言わず、事実だけを伝えた。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないからこうやって、医務室に行くんじゃないですか。はいはい、どいてどいて邪魔なんですよ、お二人とも」
藤谷二尉は廊下の端っこに寄ってくれたのに、二尉は私の前から動かない。
「あのですね、ここで二尉と問答をしている気にはなれないんですよ」
めちゃくちゃ痛いんだから!!
「……音無、運んでやるから、俺におとなしく背負われろ」
「はあ?」
二尉は私の返事を待たずに、背中を向けて屈んだ。
「そんな|大袈裟《おおげさ」な。医務室はすぐそこですからいいですよ、頑張って歩きます」
「いいから早く。蓮田一尉、三曹をこっちに」
「背負って行ってもらいなさい。かなり顔色も悪くなってきたから」
「いやでも」
「土嚢のように運ばれたいのか? さっさとしろ」
二尉の口調が苛立ったものに変わった。これ以上くだくだ言い続けたら、問答無用で土嚢みたいに運ばれる。ここはおとなしく従っておこう。それに背負って運んでもらう方が、歩くよりもずっと楽だし。
「あの、やっぱり私もついていきます、三曹の怪我は私のせいですし」
「釜屋陸士長、心配なのは分かるが君は鍋蓋が先だろう? 音無三曹と私の指示を聞いていなかったのかい?」
「でも」
まあ自分のせいでこんな事態になっているんだから、心配なのは分かるし気遣ってくれているのも分かる。だけど今はまず鍋蓋でしょ?!と叫びたくなる。それはイラついていた二尉も同じだったみたいで、私のことを背負うと釜屋陸士長の方に顔を向けた。
「お前がついてきても、医官の邪魔になるだけで役に立たない。音無がいなくても片づけぐらいはできるるだろう。持ち場に戻れ、これは命令だぞ。言われたことを即実行しろ」
普段の緩い糧食班の雰囲気とはまったく違うきつい命令口調で言われ、釜屋陸士長はしゅんとなって分かりましたと言って、調理場へと戻っていく。はあ、やれやれ……。
「蓮田班長、やっぱり心配です。こちらに残って彼女のこと見ていてください」
「たしかなそうだね。じゃあ森永二尉、音無君のことは頼むよ」
「分かりました」
私は二尉に背負われたまま、医務室に運ばれることになった。藤谷二尉がその横を一緒に歩きながら、気の毒そうに私のことを見ている。
「あの重たい鍋蓋が足の上に落ちるなんて、運が悪かったね」
「まさか分離したままだなんて思いもしなかったですよ……」
痛みで冷や汗が出てくる。
「まったくここしばらくは厄年みたいな気分ですよ、二尉に捕まるし鍋蓋は落ちてくるし……」
「なんで俺と鍋蓋が同列なんだ」
二尉が不満げな声をあげた。
「似たようなものでしょ。神社にお参りにでも行って厄払いしなきゃ」
「今の言葉は聞き捨てならないぞ、音無」
「だってそんな気分なんだからしかたないでしょ。いたっ!! あの、もうちょっと優しく運んでくれませんかね? 私、これでも怪我人なんですが!」
二尉が腹立たしげに私を背負いなおしたものだから、その振動で足の先から膝辺りまで痛みが電気のように走った。
「こんな元気で口うるさい怪我人に気遣いは無用だろ」
「そんなことを言うなら、やっぱり鍋蓋と同列で厄払いですよ」
「……まったく」
藤谷二尉がおかしそうに笑う。
「森永、レディには優しくが基本だろ」
「ですよね? ですよねえ! 藤谷二尉は良く分かっていらっしゃる!」
「耳元で叫ぶな。土嚢にするぞ」
「まったくもってひでーヤツですよ……」
「お前が言うな」
そして私の足の甲の骨はものの見事に折れており、思いのほか深刻ということで、全治三ヶ月との診断をもらうことになった。
そして中には以前ここにいた兵長君のように、一から教えなくてはならない子達もいる。そして今回もそういう子がいた、しかも、今までどこに隠れていたんだろうって思うぐらい強烈な、女子隊員ちゃんが。
「おい」
「…………」
「おい、音無」
「…………」
「魂が抜けてるぞ、音無」
「あ?」
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「なんて顔をしてるんだ」
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「どうした? 新しく来た隊員との間でなにかあったのか?」
「お米を洗剤でとがれました」
「……なんだって?」
「お米を、食器洗い用の洗剤で、とがれました!!」
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「……マジか」
そして口から出たのがそんな一言。私も最初にそれを見た時は思わず「マジか」と呟いてしまったから、その気持ちはよく分かる。
「お米を洗剤でといだとか納豆を水洗いしたとかいう話は、都市伝説級の冗談だと思っていましたよ。まさか生きている間に、本当にそんなことをする人間に遭遇するとは思いませんでした」
「隊員なんだよな?」
「そうですよ。陸士長さんです」
その子は衛生科に新年度に配属されてここにやって来た、ピカピカの新人さんだ。つまりは江崎さんの後輩にあたる。ただ少しばかり厄介なのは、そのピカピカちゃんのお父さんが、陸自の偉い人らしいってことだった。
おしなしく普通にお嬢さんをしていれば良いのに、何故よりによってここに?というのが、その話を聞いて真っ先に浮かんだことだった。さらに話を詳しく聞けば、頼りない自分の娘に少しでもシャキッとして欲しくて、お父さんなりに考えてのことらしい。その気持ちは分からないでもないけど、うちは修行の場じゃないし、受け入れるこっちの身にもなって欲しいな。まあ少なくとも訓練は無事に潜り抜けてきたんだから、身体的能力はあるんだろうけど……多分。
「おい待て音無。その米はどうなった」
「さっきの夕飯で皆さんのお腹の中ですよ。ああ、もちろんきれいに水洗いしましたよ、私が。だから安心してください。駐屯地で隊員が謎の腹痛なんてことにはなりませんから」
「俺達に食わせたのか、おい」
「だからー、綺麗に洗浄したって言ったじゃないですか。大丈夫ですよ、すぐに気がついて止めに入ったから、お米が洗剤を吸ったってことはありません。ちなみに私が出す前に毒見しましたよ」
私が無事なんだから、そ私以上に頑丈な皆さんは大丈夫でしょと言ったら、二尉はものすごーく複雑な顔をしていた。
「だって人数分ですよ? 破棄するなんてとんでもないですよ」
「それはそうかもしれないが、いくらなんでも……」
「蓮田班長とも話し合って決めたことですよ。心配ありません」
納得しているようなしていないような顔だ。
「二尉も食べたんでしょ?」
「ああ」
「お腹痛いんですか?」
「いや、至極普通だ」
「味、まず味かったんですか?」
「いや、いつも通りでうまかった。少し柔らかいかなとは思ったが」
「それは私が洗いまくって水を吸ったせいですね。それぐらいなら問題ないでしょ」
多少のご飯の柔らかさや味つけの微妙さは、新しい子が糧食班にやってきたシーズンなんだなってことで、皆が納得するところだ。だから特に叱責があるというわけではない。炊く時に水加減を調整したつもりでいたけど、もう少し水の量を減らしておけば良かったな。
「……ところで話は変わりますが二尉」
「なんだ?」
「たしか明日の訓練で、小隊は裏山の中に分け入るんですよね?」
藤谷二尉の小隊と、敵味方に分かれての訓練をするって大森さんから聞いていた。
「そうだが、それがなにか?」
「その訓練に私を連れ出してもらえませんかねえ……ご飯要員として」
「また無茶なことを」
「もー、今回の子は私の手に負えませんよ。私、宇宙人を見ている気分です」
言うなればこれは敵前逃亡希望ってやつだ。私の溜め息まじりの言葉に、二尉は気の毒そうに笑った。少しでも気の毒だって思うなら連れ出してくれ!!
「下の隊員の教育も任務のうちの一つだろ?」
「そうなんですけどね。正直言って、今度ばかりは私にも自信がありませんよ。とにかく今は、何かあったら大変なので、つきっきりで監視してますけど」
気分は何が飛び出すか分からない、ビックリ箱を抱えている気分だ。
「俺は連れ出してやっても構わないが、音無がいなかったら食堂が大惨事になるんじゃないか?」
「そこまで考えなくて良いですよ。二尉は私のことだけを心配してくれれば良いんです。野草の見分けぐらいなら私でもつきますよ? どうです?」
しばらく考えるように首をかしげてたけど、気の毒そうに笑うだけだった。ちっ、連れて行ってもらえないのか、無念だ。連れ出してくれたら、おいしいキャンプ料理でも作ってあげようと思ったのに。
+++++
そんなわけで私は、不承不承そのピカピカちゃんの指導をし続けることになる。
私が憂鬱そうな顔をして毎日すごしていたせいか、蓮田班長が心配して調理室に顔を出すまでになってしまった。もちろん班長は他の班員にはそんなことは言わず、呑気な顔をして調理現場をのぞいている風を装ってくれてはいたけれど。
そして、嫌々ながらの気分でのぞんでいれば注意力も散漫になるのは当然のことで、その日、気がついたら何故か彼女が開けた大鍋の蓋が、私の足の上に落ちてきた。
「……釜屋陸士長」
「は、はい!!」
「その蓋、どうして鍋本体から離れた場所に存在しているのかな? たしかこれ、くっついていたはずだよね、鍋本体と?」
痛みに悶絶したいのを何とかこらえて、横で慌てふためいている彼女に声をかける。あああ、蓋と足の甲がぶつかった時に変な音がしたんだけどな、大丈夫かな、これ……。たかが蓋、されど蓋、落ちた角度が悪かったとしか言いようがない。自分の注意力散漫さも反省しなきゃ。だけど今は、蓋がどうして本体から分離した状態になっていたかってことだ。
「あ、あの、大鍋を洗う時につながっていると洗いにくいので、本体と蓋を分離しました」
「うん、それは前にそうしなさいって指示を出したね。それで?」
「その、元の場所に置いた時に蓋をかぶせたんですが、そのままボルトをしめるのを忘れてました……」
「そういうことだよね。とにかく今ここで、きちんと蓋と鍋本体をつなげておこうか、他の人の上に蓋が飛んでいっても困るから」
「はい……あの……すみません……」
「その話は後で改めて。とにかく今は蓋の設置が優先」
ここまで話を続けた自分を褒めてあげたい。
「苅部二曹、後を頼めるかな。私は音無三曹を医務室に連れて行くから」
蓮田班長が私の横に立つと、今の班員の中で一番年長の苅部さんに声をかけた。彼は高校時代にバイトで飲食店にも勤めた経験もあるので、その点では安心して任せることができる。
「分かりました。こちらは自分が責任を持ってやらせます」
「じゃあ行こうか」
「あの、私も行きます」
「君がまずしなければならないことは、鍋と蓋を責任もってきちんと設置し直すことだろう? 音無三曹は私が連れて行くから、ちゃんと言われたことをしなさい」
蓮田班長が普段より少し厳しめの口調で、私達について来ようとした釜屋陸士長に申し渡す。
「蓮田班長、その口調なんだか自衛官みたいですよ」
「だから僕は自衛官だって言ってるだろ。さあ、行こう。こっちの肩につかまりなさい」
班長の肩を借りて調理室を出る。そして医務室に向かおうとしたところで、二尉と藤谷二尉と鉢合わせをした。こっちの様子を見て驚いた顔をしている。
「一体どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも……大鍋の蓋が何故か足の上に落ちてきたんですよ」
釜屋陸士長のせいだとは言わず、事実だけを伝えた。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないからこうやって、医務室に行くんじゃないですか。はいはい、どいてどいて邪魔なんですよ、お二人とも」
藤谷二尉は廊下の端っこに寄ってくれたのに、二尉は私の前から動かない。
「あのですね、ここで二尉と問答をしている気にはなれないんですよ」
めちゃくちゃ痛いんだから!!
「……音無、運んでやるから、俺におとなしく背負われろ」
「はあ?」
二尉は私の返事を待たずに、背中を向けて屈んだ。
「そんな|大袈裟《おおげさ」な。医務室はすぐそこですからいいですよ、頑張って歩きます」
「いいから早く。蓮田一尉、三曹をこっちに」
「背負って行ってもらいなさい。かなり顔色も悪くなってきたから」
「いやでも」
「土嚢のように運ばれたいのか? さっさとしろ」
二尉の口調が苛立ったものに変わった。これ以上くだくだ言い続けたら、問答無用で土嚢みたいに運ばれる。ここはおとなしく従っておこう。それに背負って運んでもらう方が、歩くよりもずっと楽だし。
「あの、やっぱり私もついていきます、三曹の怪我は私のせいですし」
「釜屋陸士長、心配なのは分かるが君は鍋蓋が先だろう? 音無三曹と私の指示を聞いていなかったのかい?」
「でも」
まあ自分のせいでこんな事態になっているんだから、心配なのは分かるし気遣ってくれているのも分かる。だけど今はまず鍋蓋でしょ?!と叫びたくなる。それはイラついていた二尉も同じだったみたいで、私のことを背負うと釜屋陸士長の方に顔を向けた。
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普段の緩い糧食班の雰囲気とはまったく違うきつい命令口調で言われ、釜屋陸士長はしゅんとなって分かりましたと言って、調理場へと戻っていく。はあ、やれやれ……。
「蓮田班長、やっぱり心配です。こちらに残って彼女のこと見ていてください」
「たしかなそうだね。じゃあ森永二尉、音無君のことは頼むよ」
「分かりました」
私は二尉に背負われたまま、医務室に運ばれることになった。藤谷二尉がその横を一緒に歩きながら、気の毒そうに私のことを見ている。
「あの重たい鍋蓋が足の上に落ちるなんて、運が悪かったね」
「まさか分離したままだなんて思いもしなかったですよ……」
痛みで冷や汗が出てくる。
「まったくここしばらくは厄年みたいな気分ですよ、二尉に捕まるし鍋蓋は落ちてくるし……」
「なんで俺と鍋蓋が同列なんだ」
二尉が不満げな声をあげた。
「似たようなものでしょ。神社にお参りにでも行って厄払いしなきゃ」
「今の言葉は聞き捨てならないぞ、音無」
「だってそんな気分なんだからしかたないでしょ。いたっ!! あの、もうちょっと優しく運んでくれませんかね? 私、これでも怪我人なんですが!」
二尉が腹立たしげに私を背負いなおしたものだから、その振動で足の先から膝辺りまで痛みが電気のように走った。
「こんな元気で口うるさい怪我人に気遣いは無用だろ」
「そんなことを言うなら、やっぱり鍋蓋と同列で厄払いですよ」
「……まったく」
藤谷二尉がおかしそうに笑う。
「森永、レディには優しくが基本だろ」
「ですよね? ですよねえ! 藤谷二尉は良く分かっていらっしゃる!」
「耳元で叫ぶな。土嚢にするぞ」
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