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【後日談2】トロワ・メートル
28.生きているのに、いない
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秀星が逝去したのは三年前の三月、甲斐チーフの奥様はその半年後と聞いていた。
そういえば、いまは九月。半年後だと葉子も気がつく。
「そうでしたか。三年目ですね」
「はい。三年目。葉子さんはどうしていましたか」
大切な人を同じ時期に亡くした者同士、師匠は先にその日を迎えていた弟子がどう過ごしたのか気になるようだった。
「今年の三月、秀星さんが撮影していたポイントで、蒼さんと夜明けを迎えました。秀星さんのカメラで同じポイントで、夜明けの写真を撮りました。それまでは動画配信で必死だったんですけれど、写真集の発売を待つだけになりましたので、一区切りつける決心もつきました」
「篠田とそんなことを……」
「いきなり声がでなくなった時期で、蒼さんが一生懸命支えてくれていた時期でもあります」
ああ、そうでしたね――と、甲斐チーフも思い出した顔になる。
「あの時もハラハラしていました。篠田しっかりしろよと画面で拳を握っていました。またアイツがハコちゃんの代わりに朝の配信に登場した時の、あのうるさい声。画面越しに『声デカいわ!』と思わず叫んでいました」
「あれ、私に内緒で決行されちゃったので、あとでうんと怒った時のですね」
「なんですって? 篠田はチャンネル運営者のハコちゃんに無許可で配信していたんですか」
「いえいえ、声が出なくなったので配信を任せたら、いきなり写真集発売を告知しちゃったり、声がでなくなったことは内緒にするはずだったのに、視聴者の皆さんに教えちゃったり。私も配信を自宅の部屋で観て初めて知ったので度肝を抜かれたかんじでしたね」
もうそれも笑える思い出になっていたので、葉子がクスクス笑うと、甲斐チーフも呆れて白髪をかき上げていたが、次には彼も顔をほころばせてくれていた。
「そう、そういう男です。篠田は。止める暇もないほどダッシュで行ってしまい、それはやりすぎだと思うこともありますが、総じて良い結果に転ぶので怒れなくてですね」
若い時そんなことしていたのかなと窺えるような、元上司が見てきた夫の姿。葉子も『わかるなあ』と笑ってしまっていた。
「そうですか。葉子さんにとって、あの動画配信が心の整理をつけるものだったのですね」
「私にとって、動画配信で唄うこと、それに併せて秀星さんの写真を見てもらうこと。その活動が慰めでした」
「あなたたちは、どうやって秀星の死と向き合ってきたのか。遠い大分から目で追っていたのですが、耐えられなくなりました。ハコちゃんの声が出なくなったと聴いたときも、篠田がそばにいるからきっと大丈夫と思いつつも、私も駆けつけたかった。いや、一緒に……亡き者を思うばかりの日々を、どうしているかと、……教えて欲しかった……!」
突然だった。向き合っていた立ち飲み用の丸テーブルがあるそこで、甲斐チーフが両目を覆って嗚咽を漏らし始めたのだ。部下である葉子の目の前であることも憚らず――。
「チーフ……」
葉子にはよくわかる。今日は哀しみのコップに少しずつ溜まっていた涙が、そこから溢れ出てしまった日なのだろう。葉子もそう、昨夜がそれだった。
奥様と飲みたかった後悔のシャトー・ディケムを開けた夜。平気でいられるわけがない。元気がなかったのもそのためだとわかった。
向き合っていたそこから葉子はそっとそばに行き、自分より背が高い老師の背中を静かに撫でた。
「申し訳ない……」
「いいえ、わかりますから。突然、生きて現れますよね」
生きて現れるという葉子の言葉にも、チーフはなにか気がついたかのように目を見開き、一旦涙が止まったようだった。
「そう。生きているのに、いないんです」
また、師匠が泣きさざめく。その哀しみがわかるから、葉子も一緒に涙ぐんでいた。
そうしてしばらく、甲斐チーフが落ち着くまで背中を撫でて一緒に居た。
今日はもう無理かなと思った葉子は、カーブから甲斐チーフを連れ出し、蒼がいる給仕長室まで連れて行った。
蒼もひと目見て呆然としている。
元上司がくたびれて泣きはらした顔を見ただけで、蒼も悟ってくれたようで青ざめている。座っていたデスクの椅子から、彼も力なく立ち上がって、葉子が連れてきた甲斐チーフへと歩み寄った。
「甲斐さん……。どうしたの、葉子ちゃん、これ」
「明日、奥様の命日だそうです。昨夜のシャトー・ディケムは、ほんとうは奥様が退院することを願って取っておいたものだったそうです。急にいろいろ思い出されたみたいで……」
蒼も吃驚の様相に変貌した。結婚祝いにと出してくれたシャトー・ディケムに、そんな願いが込められていたとは、さすがの蒼も気がつかなかったのだろう。
「俺ったら、知らないで戴いてしまいました」
「こちらから言わなかっただけで、お祝いで飲んで欲しかったのだから気にしないでくれ」
「良ければ本日はお休みされては……」
蒼ははっきりと言い切らなかった。葉子も心配だ。いまの住まいであるアパートに帰宅したところで、一人きり。余計に哀しみに浸かってしまい、抜け出せなくなるのではないかと思うからだ。
それならばまだ、働かなくてもいいから人目があるここにいたほうがいいのでは?
蒼もそう思って迷っているのが、葉子にはわかる。
どうしよう――。
葉子の頭の中に、たくさんのことが思い浮かぶ。とにかく今日はカーブにいてもらおう。あ、それとも、十和田の家で母に見ておいてもらおうか。いや人の家だと余計にくつろげないかも。さて、どうしよう。『あ』、葉子は急に閃く。
「あの、給仕長。私も一緒にちょっとだけ、遅刻をしてもいいですか」
「はぃ? 遅刻??」
突然の提案に、蒼が仰天してのけぞっている。
「ランチのアルコールの準備は終わっています。でかけますから、ほんのちょっとだけ不在になってもいいですか」
「え、まあ。アルコールのサーブぐらい、ランチだからなんとかなると思うよ。今日は江藤君がいる日だし、神楽君と揃っているからなんとか」
「お願いします。甲斐チーフと、ほんの一時間だけ時間をください」
「うん、わかった」
葉子と蒼のやりとりに、甲斐チーフはきょとんとしていた。
そんなチーフの背を葉子は押す。
「はい。チーフはいますぐ着替えてください。外に行きましょう」
「え、葉子さん……?」
「ほんのちょっとの外出です。気分転換です」
着替えが出来るロッカーへと師匠を追いやった。
葉子もロッカーで急いで着替える。ロッカーに揃えているものをかき集めて、バッグパックに詰め込む。最後、ギターを肩に担いで外に出た。
給仕長室でおろおろしていた蒼が、葉子の出で立ちを見てハッとした顔に。
「ちょいと、葉子ちゃん、なんのつもり!?」
「そんなつもりです」
「えーえー! 俺も行きたいよーー!!」
「お仕事、頑張ってください」
「ずるーーいぃ!!!」
給仕長にぺこっと頭を下げて、葉子はにっこり笑う。そのあとすぐに厨房に向かうと、私服姿で入ってきた葉子を見て、父がギョッとした顔になった。
「葉子、おまえ、なにしているんだ。もうすぐ開店だぞ」
「篠田給仕長にお聞きください。許可をもらっているので、甲斐チーフと少し出かけてきます。あ、これ、今日のランチ軽食ですよね。いただきます!」
「はあ? おい、こら。なにがあったんだ!」
そんな父の呼び止めも構わずに、葉子はラップに包まれている『おにぎり』と、マリネのパックをレジ袋に入れて手に引っかけて厨房を飛び出す。
休憩室とロッカーがある通路に戻ると、お師匠さんも着替えて出てきた。
「行きましょう! チーフ」
いつになく張り切っている葉子を見て、甲斐チーフも困惑している。
「行ってきます。篠田給仕長」
「え~、俺も行きたいぃぃ」
蒼が地団駄を踏んでいるのを見た甲斐チーフが、『なにをするつもりなのか』とばかりに戸惑っている。
「あの、葉子さん? いったい」
「帰ったら、頑張って仕事をしましょう」
「は、はい……」
「ひとあし先に、ランチが取れるように厨房からお昼ご飯も持ってきました。行きましょう!」
葉子から甲斐チーフの手を取ってひっぱり、外へ!
白樺の木立にある小路を歩いて、湖畔を辿って、森林の散策道へ。甲斐チーフを引っ張っていく。
「葉子さん、葉子さん。どこへいくのですか」
「東屋です」
行き先がわかったぶんだけ、甲斐チーフがほっとした顔を見せた。
夏の暑さがすっかり和らいで、北国にとってもいい季節、秋の青空が広がっていた。
平日だから人も少なくて静かで、森林がさざめく風の音しか聞こえない。水辺も優しい波音で穏やか。真っ青な空にまだ緑を纏っている駒ヶ岳がそびえ立ち、森の緑は綺麗にきらめいている。九月の爽やかな薫りがしている。
徐々に、師匠との足取りもゆっくりと落ち着いてきて、ふたり一緒に木漏れ日があふれる森林の散策道へと入った。
師匠の顔も柔らかになっていた。哀しみに捕らわれていた闇から、心が落ち着く光溢れるところへと抜け出たような表情になっていると、葉子もほっとしてきた。
まだ緑に囲まれている湖畔の東屋に到着する。今日も奥まったところにあるこの沼は静寂な鏡のような湖面に緑と空を映している。
東屋の中へとふたり一緒に入る。
先に甲斐チーフが、この前と同じ場所に座った。
「はあ。やはりいいですね。緑の中は」
もう大丈夫そう。落ち着かれたなと葉子も思えた。だからって、じゃあ帰りましょうで終わるつもりもない。
ベンチに荷物を置いて、葉子はバックパックからあれこれと外に出す。
いそいそと準備をしている葉子を見て、甲斐チーフが何をしているのかと怪訝そうに見ている。
「葉子さん……、なにを出しているのですか」
「これはですね。撮影したものを動画に変換してくれる機器ですね。ビデオキャプチャーです。そしてモバイルルーター、野外でもインターネットに接続できる機器です。それと動画配信サイトへアクセス、準備などをするタブレットです。それで、これが――」
葉子は三脚を出して、師匠の目の前に置いた。
さらにバッグパックの中から出したものは――
「これがハコの唄チャンネルで動画を撮影しているカメラです。これとビデオキャプチャーを繋いで、モバイルルーター……っと。最後にカメラをここ、三脚にセットして固定してですね――」
もう甲斐チーフにもわかったようで、仰天した顔で彼が立ち上がった。
「ちょっと待って。葉子さん!!」
だが葉子は淡々と支度をして、最後、ギターをケースから出して肩にかける。
「いまから動画撮影をします。ライブ配信というやつですね」
ええ!? 驚きおののく師匠の顔に、もう哀しみの色は見られなかった。
そういえば、いまは九月。半年後だと葉子も気がつく。
「そうでしたか。三年目ですね」
「はい。三年目。葉子さんはどうしていましたか」
大切な人を同じ時期に亡くした者同士、師匠は先にその日を迎えていた弟子がどう過ごしたのか気になるようだった。
「今年の三月、秀星さんが撮影していたポイントで、蒼さんと夜明けを迎えました。秀星さんのカメラで同じポイントで、夜明けの写真を撮りました。それまでは動画配信で必死だったんですけれど、写真集の発売を待つだけになりましたので、一区切りつける決心もつきました」
「篠田とそんなことを……」
「いきなり声がでなくなった時期で、蒼さんが一生懸命支えてくれていた時期でもあります」
ああ、そうでしたね――と、甲斐チーフも思い出した顔になる。
「あの時もハラハラしていました。篠田しっかりしろよと画面で拳を握っていました。またアイツがハコちゃんの代わりに朝の配信に登場した時の、あのうるさい声。画面越しに『声デカいわ!』と思わず叫んでいました」
「あれ、私に内緒で決行されちゃったので、あとでうんと怒った時のですね」
「なんですって? 篠田はチャンネル運営者のハコちゃんに無許可で配信していたんですか」
「いえいえ、声が出なくなったので配信を任せたら、いきなり写真集発売を告知しちゃったり、声がでなくなったことは内緒にするはずだったのに、視聴者の皆さんに教えちゃったり。私も配信を自宅の部屋で観て初めて知ったので度肝を抜かれたかんじでしたね」
もうそれも笑える思い出になっていたので、葉子がクスクス笑うと、甲斐チーフも呆れて白髪をかき上げていたが、次には彼も顔をほころばせてくれていた。
「そう、そういう男です。篠田は。止める暇もないほどダッシュで行ってしまい、それはやりすぎだと思うこともありますが、総じて良い結果に転ぶので怒れなくてですね」
若い時そんなことしていたのかなと窺えるような、元上司が見てきた夫の姿。葉子も『わかるなあ』と笑ってしまっていた。
「そうですか。葉子さんにとって、あの動画配信が心の整理をつけるものだったのですね」
「私にとって、動画配信で唄うこと、それに併せて秀星さんの写真を見てもらうこと。その活動が慰めでした」
「あなたたちは、どうやって秀星の死と向き合ってきたのか。遠い大分から目で追っていたのですが、耐えられなくなりました。ハコちゃんの声が出なくなったと聴いたときも、篠田がそばにいるからきっと大丈夫と思いつつも、私も駆けつけたかった。いや、一緒に……亡き者を思うばかりの日々を、どうしているかと、……教えて欲しかった……!」
突然だった。向き合っていた立ち飲み用の丸テーブルがあるそこで、甲斐チーフが両目を覆って嗚咽を漏らし始めたのだ。部下である葉子の目の前であることも憚らず――。
「チーフ……」
葉子にはよくわかる。今日は哀しみのコップに少しずつ溜まっていた涙が、そこから溢れ出てしまった日なのだろう。葉子もそう、昨夜がそれだった。
奥様と飲みたかった後悔のシャトー・ディケムを開けた夜。平気でいられるわけがない。元気がなかったのもそのためだとわかった。
向き合っていたそこから葉子はそっとそばに行き、自分より背が高い老師の背中を静かに撫でた。
「申し訳ない……」
「いいえ、わかりますから。突然、生きて現れますよね」
生きて現れるという葉子の言葉にも、チーフはなにか気がついたかのように目を見開き、一旦涙が止まったようだった。
「そう。生きているのに、いないんです」
また、師匠が泣きさざめく。その哀しみがわかるから、葉子も一緒に涙ぐんでいた。
そうしてしばらく、甲斐チーフが落ち着くまで背中を撫でて一緒に居た。
今日はもう無理かなと思った葉子は、カーブから甲斐チーフを連れ出し、蒼がいる給仕長室まで連れて行った。
蒼もひと目見て呆然としている。
元上司がくたびれて泣きはらした顔を見ただけで、蒼も悟ってくれたようで青ざめている。座っていたデスクの椅子から、彼も力なく立ち上がって、葉子が連れてきた甲斐チーフへと歩み寄った。
「甲斐さん……。どうしたの、葉子ちゃん、これ」
「明日、奥様の命日だそうです。昨夜のシャトー・ディケムは、ほんとうは奥様が退院することを願って取っておいたものだったそうです。急にいろいろ思い出されたみたいで……」
蒼も吃驚の様相に変貌した。結婚祝いにと出してくれたシャトー・ディケムに、そんな願いが込められていたとは、さすがの蒼も気がつかなかったのだろう。
「俺ったら、知らないで戴いてしまいました」
「こちらから言わなかっただけで、お祝いで飲んで欲しかったのだから気にしないでくれ」
「良ければ本日はお休みされては……」
蒼ははっきりと言い切らなかった。葉子も心配だ。いまの住まいであるアパートに帰宅したところで、一人きり。余計に哀しみに浸かってしまい、抜け出せなくなるのではないかと思うからだ。
それならばまだ、働かなくてもいいから人目があるここにいたほうがいいのでは?
蒼もそう思って迷っているのが、葉子にはわかる。
どうしよう――。
葉子の頭の中に、たくさんのことが思い浮かぶ。とにかく今日はカーブにいてもらおう。あ、それとも、十和田の家で母に見ておいてもらおうか。いや人の家だと余計にくつろげないかも。さて、どうしよう。『あ』、葉子は急に閃く。
「あの、給仕長。私も一緒にちょっとだけ、遅刻をしてもいいですか」
「はぃ? 遅刻??」
突然の提案に、蒼が仰天してのけぞっている。
「ランチのアルコールの準備は終わっています。でかけますから、ほんのちょっとだけ不在になってもいいですか」
「え、まあ。アルコールのサーブぐらい、ランチだからなんとかなると思うよ。今日は江藤君がいる日だし、神楽君と揃っているからなんとか」
「お願いします。甲斐チーフと、ほんの一時間だけ時間をください」
「うん、わかった」
葉子と蒼のやりとりに、甲斐チーフはきょとんとしていた。
そんなチーフの背を葉子は押す。
「はい。チーフはいますぐ着替えてください。外に行きましょう」
「え、葉子さん……?」
「ほんのちょっとの外出です。気分転換です」
着替えが出来るロッカーへと師匠を追いやった。
葉子もロッカーで急いで着替える。ロッカーに揃えているものをかき集めて、バッグパックに詰め込む。最後、ギターを肩に担いで外に出た。
給仕長室でおろおろしていた蒼が、葉子の出で立ちを見てハッとした顔に。
「ちょいと、葉子ちゃん、なんのつもり!?」
「そんなつもりです」
「えーえー! 俺も行きたいよーー!!」
「お仕事、頑張ってください」
「ずるーーいぃ!!!」
給仕長にぺこっと頭を下げて、葉子はにっこり笑う。そのあとすぐに厨房に向かうと、私服姿で入ってきた葉子を見て、父がギョッとした顔になった。
「葉子、おまえ、なにしているんだ。もうすぐ開店だぞ」
「篠田給仕長にお聞きください。許可をもらっているので、甲斐チーフと少し出かけてきます。あ、これ、今日のランチ軽食ですよね。いただきます!」
「はあ? おい、こら。なにがあったんだ!」
そんな父の呼び止めも構わずに、葉子はラップに包まれている『おにぎり』と、マリネのパックをレジ袋に入れて手に引っかけて厨房を飛び出す。
休憩室とロッカーがある通路に戻ると、お師匠さんも着替えて出てきた。
「行きましょう! チーフ」
いつになく張り切っている葉子を見て、甲斐チーフも困惑している。
「行ってきます。篠田給仕長」
「え~、俺も行きたいぃぃ」
蒼が地団駄を踏んでいるのを見た甲斐チーフが、『なにをするつもりなのか』とばかりに戸惑っている。
「あの、葉子さん? いったい」
「帰ったら、頑張って仕事をしましょう」
「は、はい……」
「ひとあし先に、ランチが取れるように厨房からお昼ご飯も持ってきました。行きましょう!」
葉子から甲斐チーフの手を取ってひっぱり、外へ!
白樺の木立にある小路を歩いて、湖畔を辿って、森林の散策道へ。甲斐チーフを引っ張っていく。
「葉子さん、葉子さん。どこへいくのですか」
「東屋です」
行き先がわかったぶんだけ、甲斐チーフがほっとした顔を見せた。
夏の暑さがすっかり和らいで、北国にとってもいい季節、秋の青空が広がっていた。
平日だから人も少なくて静かで、森林がさざめく風の音しか聞こえない。水辺も優しい波音で穏やか。真っ青な空にまだ緑を纏っている駒ヶ岳がそびえ立ち、森の緑は綺麗にきらめいている。九月の爽やかな薫りがしている。
徐々に、師匠との足取りもゆっくりと落ち着いてきて、ふたり一緒に木漏れ日があふれる森林の散策道へと入った。
師匠の顔も柔らかになっていた。哀しみに捕らわれていた闇から、心が落ち着く光溢れるところへと抜け出たような表情になっていると、葉子もほっとしてきた。
まだ緑に囲まれている湖畔の東屋に到着する。今日も奥まったところにあるこの沼は静寂な鏡のような湖面に緑と空を映している。
東屋の中へとふたり一緒に入る。
先に甲斐チーフが、この前と同じ場所に座った。
「はあ。やはりいいですね。緑の中は」
もう大丈夫そう。落ち着かれたなと葉子も思えた。だからって、じゃあ帰りましょうで終わるつもりもない。
ベンチに荷物を置いて、葉子はバックパックからあれこれと外に出す。
いそいそと準備をしている葉子を見て、甲斐チーフが何をしているのかと怪訝そうに見ている。
「葉子さん……、なにを出しているのですか」
「これはですね。撮影したものを動画に変換してくれる機器ですね。ビデオキャプチャーです。そしてモバイルルーター、野外でもインターネットに接続できる機器です。それと動画配信サイトへアクセス、準備などをするタブレットです。それで、これが――」
葉子は三脚を出して、師匠の目の前に置いた。
さらにバッグパックの中から出したものは――
「これがハコの唄チャンネルで動画を撮影しているカメラです。これとビデオキャプチャーを繋いで、モバイルルーター……っと。最後にカメラをここ、三脚にセットして固定してですね――」
もう甲斐チーフにもわかったようで、仰天した顔で彼が立ち上がった。
「ちょっと待って。葉子さん!!」
だが葉子は淡々と支度をして、最後、ギターをケースから出して肩にかける。
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ええ!? 驚きおののく師匠の顔に、もう哀しみの色は見られなかった。
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