名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

24.それは洗練

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 試飲のための準備を、蒼と甲斐チーフがやってくれる。
 片付けが終わったホールに、三つのワインが揃う。
 葉子よりも手慣れた男がふたり、ワインのボトルを氷を使って適温に冷やし終え、ソムリエナイフでキャップシールを切り離し、コルクを抜いていく。

 仕事を終えたが、まだ誰もが制服姿のまま。葉子は神楽君と共に、上司のふたりに甘えて、待っている。

 やがて厨房で父と話し合っていた矢嶋社長も加わる。

「十和田シェフが、こちらを肴にどうぞと、こしらえてくれたよ」

 残った食材でピンチョスのような小さなおつまみを、父が作ってくれていた。
 それを、まさかの矢嶋社長が運んできてくれ、いちばん下っ端の葉子と神楽君の前へと置いてくれる。

「では、俺が持ってきた『トカイ・エッセンツィア』から行きましょうか」
「一年後に飲むはずだった、葉子さんへの愛だったよな」
「ふぇっ!? そういう言い方やめてくださいって、もう~」

 蒼と甲斐チーフも、もうお仕事モードはスイッチオフになっているようで、元の上司と部下に戻ってしまっていた。

 それでもまだパリッとした制服姿の蒼が、いつもの綺麗な所作でワインボトルの底を片手で持ち、グラスに注ぎ口がつかないようにスマートに入れてくれる。

 白ワイン用のグラスに、美しい琥珀色のワインが注がれる。

「葉子ちゃん、覚えているかな。温度比べをすると甲斐さんが言っていたでしょう」
「うん。これはもう、その温度比べのうちのひとつなの?」
「そう。甲斐さんと準備しながら調整しているから、まずはデザートワインの適温よりも温度高めからね。神楽君も味わってみて」

 初心者の若者ふたり、グラスを手に取って顔を見合わせる。再度グラスへ向き合い、そっと口元へ。
 もうグラスを口元に近づけてきたその時から芳醇な葡萄の香りが鼻先を包んでいく。

 神楽君とひとくち含み、一緒にゆっくりテイスティング。

「甘い! ハチミツみたいなかんじ」
「うわ、濃厚だなこの甘み。それに香りがすごい」

 ふたり一緒に同じ事を叫んでいた。
 秀星が飲ませてくれた辛口貴腐ワインも甘かったが、あれが辛口だとやっと理解できるほどに、濃厚な甘みだった。あの時葉子は『梅酒のよう』とイメージしていたが、それは甘みよりも酸味も際だっていたからだとわかった。こちらは、酸味もあるが甘みが勝っている。喩えるなら本当に『糖蜜』だ。

 若いふたりの隣で、矢嶋社長のグラスにもトカイ・エッセンツィアが注がれ、社長もテイスティングを始める。

「うん、この温度だと、香りのほうが際立つな。ただ、辛口に飲み慣れていると甘ったるい、とも言いたくなる」

 矢嶋社長のテイスティングに、蒼と甲斐チーフも顔を見合わせ頷いている。
 そして彼らワインエキスパート持ちのふたりも、グラスに注いでテイスティングをしている。だがふたりは互いに目線を合わせて頷き合っただけ。葉子になにかを教えるために、示し合わせているようだった。

「さて。ここで甲斐チーフが葉子ちゃんに教えたかった適温、温度についてです。甲斐チーフどうぞ」
「葉子さん、神楽君。いまの味を覚えておいてくださいよ。そろそろ適温でしょうかね」
「確認しますね」

 ワインクーラーで冷やすときは、本日の気温に対して何分で適温になるかを予測して冷やしていく。まずはデザートワインの適温と言われるより少し高めの温度のものをいま試飲した。
 甲斐チーフが腕時計を見て蒼に目配せをする。蒼はワインクーラーの氷の中で冷やしているボトルへと温度計を差し込んで、白ワイン液体の温度を計測している。

「デザートワインの適温、7℃になっています」
「では、お三方のグラスへ」

 甲斐チーフが教授で、蒼がアシスタントのようにして指示に従って動いている。
 ワインボトルの底を片手で持ち、また蒼が美しい所作で新しいグラスにトカイ・エッセンツィアを注いでいく。

「先ほどのトカイ・エッセンツィアの一杯は、いわゆる『常温』15℃でした。では適温と言われるデザートワインをどうぞ」

 甲斐チーフのかけ声で、葉子、神楽君、矢嶋社長、三人揃って新しいワイングラスを手に取る。再度、共に香りをまず確かめ、口に含みテイスティング。

 また、葉子と神楽君は一緒に顔を見合わせる。
 きっとおなじ驚きを感じてる!

「さっきより甘い? よね。神楽君」
「でも、あまったるくない? キリッとして飲みやすくなっている?」
 矢嶋社長も続いて感想を呟く。
「うん。世界三大貴腐ワインだからね。甘みだけではない酸味とのバランスの良さが出てくるな」

 すっきりした飲み口になっていた。そうか、これが適温かと葉子は思った。ワイングラスを目の前に掲げて、金色に光る蜜のような白ワインを葉子はじっと見つめるばかり。
 そんな葉子と神楽君の反応を確認した甲斐チーフが、葉子を見た。

「では。葉子さん。15℃と適温7℃で感じた違いをお願いします」

 そう、これは『レクチャー』のための試飲だ。楽しみにしていたが、ただのお楽しみの時間でもない。
 夫が骨折って探し当ててくれた結婚記念日用のデザートワイン。それを二人の記念日のためなのに無視をして『勉強用に飲みたい』と開けてもらったのはこのためだ。

「常温15℃では香りを強く感じました。フルーティーな果実の香りと共にワイン独特の湿気の香りも感じたような……。複雑な香りです。適温7℃、こちらは、まさに甘味です。同時に冷やしたことで酸味も強く加わりすっきりした飲み口になっていました」

 葉子の返答に、蒼が『すごい、葉子ちゃんってば』ときらっと目を輝かせ微笑んでくれている。
 神楽君も『言い方がわからなかったけど、自分もそう感じた』と同調してくれた。

「そのとおりです。ワインそのものの香りを楽しみたいときは、デザートワインであっても常温で飲んでも大丈夫なのです。ただし、その場合は、甘みが強いので味がぼやけて感じることもあります。適温7℃の場合は、塩気の強いブルーチーズと合わせると最高のマリアージュだと言われています。そのため、キリッとした酸味が手伝う飲み口と、とろける甘みを味わうことができます。適温、適温とはいいますが、香りを楽しみたいために常温とはいかずとも、ほんのちょっと温度高め、白ワインと同等ぐらいの温度を好まれる方もいらっしゃいます。それぞれお好みの温度があるわけです。飲み慣れているお客様の場合は、お好みの温度はありますかとお伺いしてもよろしいかもしれません」

 またもや葉子は大興奮! 葉子だけかと思ったら、隣にいる神楽君も大興奮しているのか、妙に鼻息を荒くして、もう一度トカイ・エッセンツィアの常温グラスと適温グラスと交互に飲みくらべている。
 今度は神楽君の師匠になった蒼が、彼に伝える。

「神楽君も覚えておいて。ソムリエが不在だった場合、手が回らないとき、メートル・ドテルが提案してもいいんだよ」
「はい! わかりました。ええ、すごい。ワインって、こんなに複雑だったんだ……。それにこれ、ほんとうにおいしい」
「でしょ、でしょ。だから、結婚記念日用に探していたんだって。愛しい人と飲みたくなっちゃう味でしょ」
「俺も給仕長を見習います! 結婚記念日にデザートワイン!!」
「え! そっくり真似しちゃダメだから! 自分で考えたデザートワインにしてよっ」

 蒼が慌てたので、矢嶋社長も甲斐チーフも声を立てて笑い出した。

「それでは。温度比べはこれぐらいでいいでしょう。次はシャトー・ディケムを試しましょう。こちらは適温7℃にしています」

 次は甲斐チーフが大分のご自宅で秘蔵していた『シャトー・ディケム』を出してくれる。
 しかも、今度は甲斐チーフ自ら、新しいグラスに注いでくれる。

 今度は五人揃って、グラスを手にした。

「トカイが琥珀なら、シャトー・ディケムは黄金おうごんですね」

 葉子の第一印象に、誰もが同感なのか頷いてくれる。

「では。試飲をどうぞ」

 また五人の間に静かな空気が漂う。大事に味わう間があった。
 だが、ひとくち口に含み、また葉子は驚きに震える。

「これが……シャトー・ディケム!」

 それはもう『洗練』のひとことだった。
 舌先に様々な味わいを想像することができる。次々と言いたい言葉が溢れてくる。

「いかがですか、葉子さん」
「……アプリコット? パイナップルのコンポート……? あと、バターのような? え、ワインなのに……」

 葉子の喩えに、今度は蒼が驚き固まっていて、甲斐チーフはどうしてか険しい目をしていて、隣にいる矢嶋社長は笑顔で頷いてくれている。
 葉子ももうその感動のまま、甲斐チーフの厳しい顔をしている目を見て告げる。

「洗練――という言葉がいちばん最初に思い浮かびました」

 何故か。場がシンとしている。

「洗練、ですか……」

 甲斐チーフが妙に寂しそうにうつむいて、緩く笑ったのだ。
 まるでがっかりしているように見えて、葉子は内心焦る。突拍子もないことを言っていたのだろうか!?

「シャトー・ディケムは『妥協しない』と言われています。化学肥料は使わない。収穫量が減ったとしても、状態の良い貴腐ブドウしか使わない。100人以上のたくさんの摘み手が一斉に収穫をして、収穫後一時間以内にシャトーに運ばれます。テイスティングにて基準を満たしたものを熟成していきますが、基準に満たなかったものは『ディケムにふさわしくない』と判断され、生産量が減ったとしても、その樽を基準から外し使わない。そんな潔い厳しさを貫いています。だから、世界一のデザートワインと言われているわけです」

 再び、甲斐チーフの鋭い視線が葉子を貫いた。

「洗練とは、その厳しさを経てあるものです。まさに、洗練。忘れないでください。ただ王者と呼ばれているわけではないということを。たゆまぬ努力の維持と継続、気高い信念とプライドがあってこそです。それがシャトーを誉れ高いものにしているのです」

 手元にまだ残っているシャトー・ディケムを、葉子は見つめる。
 この黄金のワインには、様々な人の手と英知と信念があって、ここにある。
 洗練のひとことでは片付けられないものがある。

「有名だ、高価だ、評価が高いだけで『素晴らしい』わけではない。ソムリエとして、そうなるまでの作り手の信念があることも忘れないでくださいね」

 師匠からの言葉に、葉子も頷く。
 でも、どうして、がっかりしたような顔をされたのだろう? 特に葉子が間違ったことを言ったと怒ってるわけでもなさそうだった。
 だが甲斐チーフがもう、蒼と一緒に『さすがシャトー・ディケム』と嬉しそうに味わって笑っているので、葉子も気にしないようにした。
 そしてもう一度、シャトー・ディケムを口に含み、美しい金色のグラスを見つめる。

 きらきらと輝き、ほんとうに……宝石のようだった。

「宝石……?」

 なにかが急にカチッと重なった奇妙な気持ちになる。
 心の中に、その恍惚としたなにかが広がっていく。

 その時、葉子の目の前にいきなり秀星が現れる。

『ハコちゃん、宝石みたいでしょう』

 大沼はまるで宝石のようなんだ。
 秀星さん、宝石を手に入れたんだね。

「ワインも、宝石――」

『そう、ワインも宝石。ハコちゃん、宝石を見つけたね』

 秀星にとって大沼のあの夜明けが宝石で。
 葉子には磨かれたワインが宝石。

 人は自然に左右されるしかなくて、でも、その自然から美しいものを見つける、作り出す。

 秀星にとっては、あの死した時に撮影した『夜明け』が宝石。
 それをわかっていたはずなのに。でも葉子はまるで、秀星がそこでカメラを構えて最後の撮影をしているその時に立ち合っているような空気に包まれている錯覚に陥っていた。

 途端に、涙が溢れだしていた。

「葉子……?」

 気がついた蒼がワイングラスを手放して、葉子のそばまで来てくれる。
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