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【後日談2】トロワ・メートル
12.デキャンタ、できる?
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まだ睡蓮が咲いている八月初め。
一度、大分に帰った甲斐師匠が、ほんとうに秀星が住んでいたアパートを借りて、大沼に移転してきた。
出勤当日。ホールスタッフの始業前ミーティングにて、制服姿の蒼が、葉子たちと同じ『通常スタッフ』の制服を着込んだ甲斐師匠を紹介する。
「先日、お客様として来られていましたが、採用希望とのことで面接をした結果、当店で働いていただくことになりました」
蒼の隣に並んでいる甲斐師匠が、若い青年ふたりと葉子が一緒にいるところへと対面してお辞儀をする。
「大分から来ました『甲斐 勉』です。隠居生活をしていたじじいですので、若い皆様の足手まといにならないよう、頑張りたいと思っています。よろしくお願いいたします」
ご自分から元メートル・ドテルだったことは言わなかった。
だからなのか、蒼が申し訳なさそうに付け加える。
「えー、すでに皆も知っていると思うけど。矢嶋シャンテで、桐生給仕長の前にメートル・ドテルを務めていた方です。僕、篠田の、師匠の師匠だよ。超超ベテランでプロだから、」
「いまは、そのようなこと関係ありませんから。篠田給仕長、きちんと分別を持って、私のことは採用条件のまま徹底してください」
「はい、そのつもりですよ。あ! ってことで。甲斐さんには『シェフ・ド・ラン』を担当してもらいます」
初めてそのことが告げられ、葉子の隣にいる神楽君が『え』と、恐れを抱いた表情を灯した。
それも蒼がきちんと見抜いて、予測ずみ。
「ですが。ホール全体のシェフ・ド・ランは、いままでどおりに神楽君に一任いたします。甲斐さんは、お歳のこともあり、皆より短い勤務時間になっています。忙しい時間帯の補助と、あとはソムリエを目指している十和田さんの指導を、ワインエキスパートの資格を活かしてお願いすることになりました。ホールでのシェフ・ド・ランは神楽君の指示が優先です。甲斐さんは十和田さんの指導付きとなりますので、ホールではコミ・ド・ラン同様の役割で動いてもらいます」
「篠田給仕長、やはり、ややこしいのでは? 私はほんとうにコミ・ド・ランでいいよ。ね、葉子さんもそう思いますよね!」
ちょっと待て。ここでは篠田給仕長の判断が絶対であるセルヴーズの葉子に対して、師匠としては絶対にこの形態が混乱を招かないと思うから、葉子さん味方になってとばかりに、葉子はいきなり引き合いに出され焦った。
なのにここは、最近、的確な判断力がついてきた神楽君が先に動いた。
「かまいません。自分もまだ任命されて数ヶ月ですから、むしろ、ご指導ご鞭撻、お願いしたいくらいです。葉子さんのお付きで、アルコールに対してはお任せしてもよい、こちらからもお聞きしてもよいということでいいですか?」
神楽君の助け舟に乗ったのは、蒼だった。
「うん、そう。そういうスタイルでと思ってるんだ。だってだって、矢嶋シャンテで、秀星さんのお師匠さんだったわけよ。コミ・ド・ランだなんてムリ。絶対にそれなりの指導したくて首をつっこんでくるでしょ。そのための役割と立場ですよ。師匠」
「うーん。納得いかん」
「甲斐さん。ここでの『親方』は、私ですので」
「かしこまりました。失礼いたしました。篠田給仕長の指示に従います――ってね」
「真面目にやってくださよ。ほんっとに。俺をからかったりしたら許しませんからね。即刻、大分の息子さんに引き取ってもらいますからね」
「はーい」
もう引退した身だからなのか、思った以上に肩の力をぬいちゃっている師匠で、葉子としては意外だった。
「まったく、もう。あんなに怖い給仕長だったのに――」
蒼もまだ戸惑っているようだったが、初日の勤務から甲斐師匠もランチタイムのサービスに入ることになった。
葉子に、新しい上司が誕生する。まずはランチタイムにお出しする本日のドリンクの準備を、さっそく一緒にすることになった。
◇・◇・◇
いつも篠田給仕長に指示をされた銘柄を探し、厨房で栓を開けて、開店に間に合うように冷やす準備をするのは、いまはもう葉子の役割になっていた。
これまでは蒼が常に付き添ってくれていたが、今日からは甲斐師匠が付き添うということらしい。
「本日のドリンクは数日前に篠田給仕長があらかた決めていますが、見直してもよいということなので、お料理と合わせて最終調整をいたしましょう。大分でこちらに来る準備をしている間に、篠田給仕長から、こちらの在庫リストを送ってもらい確認しておきました。だいたい篠田がまとめて仕入れいるものがあるようで、……あ、違った、篠田給仕長がでしたね」
うっかり元上司としての口調になってしまうようで、いかにも初日らしい戸惑いが師匠からときどきこぼれてくる。それを見てしまっては、葉子は笑いたくなって我慢していた。
「アペリティフのメニューに載せるもの、お料理と合わせるワインリストに載せるものを選びましょう。それにはまず、シェフが予定しているお料理を知っておかねばなりません。お父様から、……あ、しまった、シェフからリストをいただきましたか」
ほら、また。葉子のことは、シェフのお嬢様という感覚がまだ多く残っているようだったが、葉子は流した。
「はい。始業前に間近のメニュー予定リストと、本日のお料理のリストをもらってきました。こちらです」
狭いワインカーブの真ん中には、あの立ち飲み用の小さな丸テーブルがある。
テーブルにリストを置いて、師匠と共に本日のメニューを確認する。
父・政則が作った『メニュー予定リスト』を参考に、ワインリストを計画していく。
「ふむ。北海道らしい食材が際立ったお料理ですね。うーん、食べたい」
そこで葉子はついに『ふふ』と笑みをこぼしていた。
秀星のお師匠さん、蒼が怖がる元上司さんだからと、葉子も気構えてこの初日を迎えたのに。師匠からは、そんな恐ろしさがまったく伝わってこない、穏和な空気にうっかり包まれてしまっていた。
きっと甲斐師匠も『元メートル・ドテルだからって、そんなに構えないで』と思っているのかもしれない。
「笑って申し訳ありません。父が喜ぶと思います」
「スタッフになっちゃうと、シェフのお料理が食べられなくなっちゃうのが残念ですね。ですが、動画でも見ていましたよ。こちらのレストランのランチ賄い。楽しみですね~」
ほくほく顔のおじいちゃまになっていたので、またもや葉子は真面目な顔が保てずに、くすっと笑っていた。
「実は、娘の私も大好きなんです。父とスーシェフの石田さんが、ぱぱっと作っちゃう軽食ランチ。おすすめは、パストラミのサンドと、クラブハウスサンドイッチと、シェフ特製スルメイカの塩辛のお茶漬けか、おにぎりです」
「あー、だめだ。酒が飲みたくなってきた。白、辛口の白がいいですね。そのイカの塩辛はオードブルで本日は使われますね」
甲斐師匠は、父のメニュースケジュールに一通り目を通してから、しばし唸っている。
「そうですね……。篠田給仕長がシェフの志向に合わせて『函館周辺のワイナリー』を中心にセレクトをしていますね。本日は地元七飯町産の『バッカス』を白のグラスワインで準備しましょう。グラスワインの赤は変化を付けて、余市産の『ツヴァイゲルト』で。ここのカーブは、北海道産のワインが多いですね。せっかくなので、揃えましょう。アペリティフには、おなじく七飯町産でケルナーのスパークリングワイン。リンゴからつくられるスパークリング酒『シードル』も女性向けに入れておきましょう。あとはボトルオーダー用には……」
初日からスラスラと甲斐師匠が『ワインリスト』を決めていく。葉子もいつも常備しているメモ帳に記しながら、本日のドリンク準備を頭に入れていく。
ではボトルを探して準備をしましょうと、師匠と共に小さなカーブからセレクトした銘柄を探した。
「こちらの掃除は、いまは葉子さんが?」
「はい。桐生が給仕長だった時から、やりなさいと言われてずっと。掃除をすることで、置いてある場所を覚えて、在庫を頭に入れて、銘柄なども覚えなさい――と言われていました。当時は、新人だった私と桐生給仕長、もう辞めてしまいましたがアルバイトの男の子の三人だけだったので、オーナーの娘である私が……ということだったようです」
「そうでしたか。なるほど……。お父様がシェフだから、お嬢様にはアルコールの管理がいつでもできるようにと思っていたのでしょうね。だとしたら、葉子さんはもうだいたい、ここカーブにあるアルコール類のことは把握できているということですね」
「はい。篠田給仕長が来られてからも、掃除と在庫管理は続けて任せてもらっています。でもセレクトと正式な在庫管理と仕入れは、まだ篠田給仕長がしておりまして、私はただ仕入れされてきたものをカーブ内で把握しているだけです」
師匠が顎をさすり目を瞑りながら『ふむふむ』と唸っている。
「秀星も篠田も合格。跡取りお嬢様にその役目という下準備を整えることができていたな。一から教えなくちゃいけないのかなと思いましたが、葉子さんは既に第一段階は合格していますね」
葉子が合格どころか、この六年間、給仕の素人だった葉子に、給仕長だった男二人が、どこまで教育することができていたか――ということまでチェックされている!
いままで蒼が監督している時だって気を抜かなかったけれど、これはますます気構えてやっていかねばと、葉子は気合いを入れ直す。
「では、ランチタイムに合わせてスパークリングワインを冷やしておきましょう」
さらにグラスワインの準備も進める。
余市のツヴァイゲルトの赤ワインを持ってくると、師匠がボトルのラベルと中身を確かめる。
制服の黒ベストのポケットから、ハンディライトを取り出し、ボトルにライトを当てた。
それは秀星も蒼も常備していて、ワインを選ぶときにやっていたこと。
「デキャンタしておきましょう。できますか」
「たまに……。お客様向けではなく練習で、篠田給仕長がさせてくれました。でも、ここ半年のことです」
「篠田給仕長は、それについてなにか評価をしましたか」
「いいえ。ですが、ここのところ、澱がはいらなくなったねと……。先月、一度だけ」
「では、今日からは十和田さんがしてください」
「……はい」
赤ワインは時に『酒石酸やタンニンの結晶』が浮遊していることがある。それらを『澱』と呼ぶ。今日のボトルにはそれがあったようだった。
またデキャンタは、まだ若いワインや還元臭(硫黄のような臭い)を開栓時に感じたときも、香りを戻すために行われる。
しかし本日はその『澱』を取り除くためにということだった。
ボトルの注ぎ口に光やライトを当て、ワインの液体が透けて見えるようにして、その『澱』を入れないよう、液体だけになるよう、デキャンタのガラス容器に注ぎ移す。澱が入ってしまうと口触りがよくなくなるため、それらが混入しないよう慎重に行うものだった。
いままでは秀星と蒼がやってきたことだった。それを今日から葉子にさせると師匠が言い出した。
でも葉子も覚悟を決める。秀星と出会ってから六年、蒼の下のコミ・ド・ランとして二年。二人の男が葉子に与えてくれたものを、示すために。
一度、大分に帰った甲斐師匠が、ほんとうに秀星が住んでいたアパートを借りて、大沼に移転してきた。
出勤当日。ホールスタッフの始業前ミーティングにて、制服姿の蒼が、葉子たちと同じ『通常スタッフ』の制服を着込んだ甲斐師匠を紹介する。
「先日、お客様として来られていましたが、採用希望とのことで面接をした結果、当店で働いていただくことになりました」
蒼の隣に並んでいる甲斐師匠が、若い青年ふたりと葉子が一緒にいるところへと対面してお辞儀をする。
「大分から来ました『甲斐 勉』です。隠居生活をしていたじじいですので、若い皆様の足手まといにならないよう、頑張りたいと思っています。よろしくお願いいたします」
ご自分から元メートル・ドテルだったことは言わなかった。
だからなのか、蒼が申し訳なさそうに付け加える。
「えー、すでに皆も知っていると思うけど。矢嶋シャンテで、桐生給仕長の前にメートル・ドテルを務めていた方です。僕、篠田の、師匠の師匠だよ。超超ベテランでプロだから、」
「いまは、そのようなこと関係ありませんから。篠田給仕長、きちんと分別を持って、私のことは採用条件のまま徹底してください」
「はい、そのつもりですよ。あ! ってことで。甲斐さんには『シェフ・ド・ラン』を担当してもらいます」
初めてそのことが告げられ、葉子の隣にいる神楽君が『え』と、恐れを抱いた表情を灯した。
それも蒼がきちんと見抜いて、予測ずみ。
「ですが。ホール全体のシェフ・ド・ランは、いままでどおりに神楽君に一任いたします。甲斐さんは、お歳のこともあり、皆より短い勤務時間になっています。忙しい時間帯の補助と、あとはソムリエを目指している十和田さんの指導を、ワインエキスパートの資格を活かしてお願いすることになりました。ホールでのシェフ・ド・ランは神楽君の指示が優先です。甲斐さんは十和田さんの指導付きとなりますので、ホールではコミ・ド・ラン同様の役割で動いてもらいます」
「篠田給仕長、やはり、ややこしいのでは? 私はほんとうにコミ・ド・ランでいいよ。ね、葉子さんもそう思いますよね!」
ちょっと待て。ここでは篠田給仕長の判断が絶対であるセルヴーズの葉子に対して、師匠としては絶対にこの形態が混乱を招かないと思うから、葉子さん味方になってとばかりに、葉子はいきなり引き合いに出され焦った。
なのにここは、最近、的確な判断力がついてきた神楽君が先に動いた。
「かまいません。自分もまだ任命されて数ヶ月ですから、むしろ、ご指導ご鞭撻、お願いしたいくらいです。葉子さんのお付きで、アルコールに対してはお任せしてもよい、こちらからもお聞きしてもよいということでいいですか?」
神楽君の助け舟に乗ったのは、蒼だった。
「うん、そう。そういうスタイルでと思ってるんだ。だってだって、矢嶋シャンテで、秀星さんのお師匠さんだったわけよ。コミ・ド・ランだなんてムリ。絶対にそれなりの指導したくて首をつっこんでくるでしょ。そのための役割と立場ですよ。師匠」
「うーん。納得いかん」
「甲斐さん。ここでの『親方』は、私ですので」
「かしこまりました。失礼いたしました。篠田給仕長の指示に従います――ってね」
「真面目にやってくださよ。ほんっとに。俺をからかったりしたら許しませんからね。即刻、大分の息子さんに引き取ってもらいますからね」
「はーい」
もう引退した身だからなのか、思った以上に肩の力をぬいちゃっている師匠で、葉子としては意外だった。
「まったく、もう。あんなに怖い給仕長だったのに――」
蒼もまだ戸惑っているようだったが、初日の勤務から甲斐師匠もランチタイムのサービスに入ることになった。
葉子に、新しい上司が誕生する。まずはランチタイムにお出しする本日のドリンクの準備を、さっそく一緒にすることになった。
◇・◇・◇
いつも篠田給仕長に指示をされた銘柄を探し、厨房で栓を開けて、開店に間に合うように冷やす準備をするのは、いまはもう葉子の役割になっていた。
これまでは蒼が常に付き添ってくれていたが、今日からは甲斐師匠が付き添うということらしい。
「本日のドリンクは数日前に篠田給仕長があらかた決めていますが、見直してもよいということなので、お料理と合わせて最終調整をいたしましょう。大分でこちらに来る準備をしている間に、篠田給仕長から、こちらの在庫リストを送ってもらい確認しておきました。だいたい篠田がまとめて仕入れいるものがあるようで、……あ、違った、篠田給仕長がでしたね」
うっかり元上司としての口調になってしまうようで、いかにも初日らしい戸惑いが師匠からときどきこぼれてくる。それを見てしまっては、葉子は笑いたくなって我慢していた。
「アペリティフのメニューに載せるもの、お料理と合わせるワインリストに載せるものを選びましょう。それにはまず、シェフが予定しているお料理を知っておかねばなりません。お父様から、……あ、しまった、シェフからリストをいただきましたか」
ほら、また。葉子のことは、シェフのお嬢様という感覚がまだ多く残っているようだったが、葉子は流した。
「はい。始業前に間近のメニュー予定リストと、本日のお料理のリストをもらってきました。こちらです」
狭いワインカーブの真ん中には、あの立ち飲み用の小さな丸テーブルがある。
テーブルにリストを置いて、師匠と共に本日のメニューを確認する。
父・政則が作った『メニュー予定リスト』を参考に、ワインリストを計画していく。
「ふむ。北海道らしい食材が際立ったお料理ですね。うーん、食べたい」
そこで葉子はついに『ふふ』と笑みをこぼしていた。
秀星のお師匠さん、蒼が怖がる元上司さんだからと、葉子も気構えてこの初日を迎えたのに。師匠からは、そんな恐ろしさがまったく伝わってこない、穏和な空気にうっかり包まれてしまっていた。
きっと甲斐師匠も『元メートル・ドテルだからって、そんなに構えないで』と思っているのかもしれない。
「笑って申し訳ありません。父が喜ぶと思います」
「スタッフになっちゃうと、シェフのお料理が食べられなくなっちゃうのが残念ですね。ですが、動画でも見ていましたよ。こちらのレストランのランチ賄い。楽しみですね~」
ほくほく顔のおじいちゃまになっていたので、またもや葉子は真面目な顔が保てずに、くすっと笑っていた。
「実は、娘の私も大好きなんです。父とスーシェフの石田さんが、ぱぱっと作っちゃう軽食ランチ。おすすめは、パストラミのサンドと、クラブハウスサンドイッチと、シェフ特製スルメイカの塩辛のお茶漬けか、おにぎりです」
「あー、だめだ。酒が飲みたくなってきた。白、辛口の白がいいですね。そのイカの塩辛はオードブルで本日は使われますね」
甲斐師匠は、父のメニュースケジュールに一通り目を通してから、しばし唸っている。
「そうですね……。篠田給仕長がシェフの志向に合わせて『函館周辺のワイナリー』を中心にセレクトをしていますね。本日は地元七飯町産の『バッカス』を白のグラスワインで準備しましょう。グラスワインの赤は変化を付けて、余市産の『ツヴァイゲルト』で。ここのカーブは、北海道産のワインが多いですね。せっかくなので、揃えましょう。アペリティフには、おなじく七飯町産でケルナーのスパークリングワイン。リンゴからつくられるスパークリング酒『シードル』も女性向けに入れておきましょう。あとはボトルオーダー用には……」
初日からスラスラと甲斐師匠が『ワインリスト』を決めていく。葉子もいつも常備しているメモ帳に記しながら、本日のドリンク準備を頭に入れていく。
ではボトルを探して準備をしましょうと、師匠と共に小さなカーブからセレクトした銘柄を探した。
「こちらの掃除は、いまは葉子さんが?」
「はい。桐生が給仕長だった時から、やりなさいと言われてずっと。掃除をすることで、置いてある場所を覚えて、在庫を頭に入れて、銘柄なども覚えなさい――と言われていました。当時は、新人だった私と桐生給仕長、もう辞めてしまいましたがアルバイトの男の子の三人だけだったので、オーナーの娘である私が……ということだったようです」
「そうでしたか。なるほど……。お父様がシェフだから、お嬢様にはアルコールの管理がいつでもできるようにと思っていたのでしょうね。だとしたら、葉子さんはもうだいたい、ここカーブにあるアルコール類のことは把握できているということですね」
「はい。篠田給仕長が来られてからも、掃除と在庫管理は続けて任せてもらっています。でもセレクトと正式な在庫管理と仕入れは、まだ篠田給仕長がしておりまして、私はただ仕入れされてきたものをカーブ内で把握しているだけです」
師匠が顎をさすり目を瞑りながら『ふむふむ』と唸っている。
「秀星も篠田も合格。跡取りお嬢様にその役目という下準備を整えることができていたな。一から教えなくちゃいけないのかなと思いましたが、葉子さんは既に第一段階は合格していますね」
葉子が合格どころか、この六年間、給仕の素人だった葉子に、給仕長だった男二人が、どこまで教育することができていたか――ということまでチェックされている!
いままで蒼が監督している時だって気を抜かなかったけれど、これはますます気構えてやっていかねばと、葉子は気合いを入れ直す。
「では、ランチタイムに合わせてスパークリングワインを冷やしておきましょう」
さらにグラスワインの準備も進める。
余市のツヴァイゲルトの赤ワインを持ってくると、師匠がボトルのラベルと中身を確かめる。
制服の黒ベストのポケットから、ハンディライトを取り出し、ボトルにライトを当てた。
それは秀星も蒼も常備していて、ワインを選ぶときにやっていたこと。
「デキャンタしておきましょう。できますか」
「たまに……。お客様向けではなく練習で、篠田給仕長がさせてくれました。でも、ここ半年のことです」
「篠田給仕長は、それについてなにか評価をしましたか」
「いいえ。ですが、ここのところ、澱がはいらなくなったねと……。先月、一度だけ」
「では、今日からは十和田さんがしてください」
「……はい」
赤ワインは時に『酒石酸やタンニンの結晶』が浮遊していることがある。それらを『澱』と呼ぶ。今日のボトルにはそれがあったようだった。
またデキャンタは、まだ若いワインや還元臭(硫黄のような臭い)を開栓時に感じたときも、香りを戻すために行われる。
しかし本日はその『澱』を取り除くためにということだった。
ボトルの注ぎ口に光やライトを当て、ワインの液体が透けて見えるようにして、その『澱』を入れないよう、液体だけになるよう、デキャンタのガラス容器に注ぎ移す。澱が入ってしまうと口触りがよくなくなるため、それらが混入しないよう慎重に行うものだった。
いままでは秀星と蒼がやってきたことだった。それを今日から葉子にさせると師匠が言い出した。
でも葉子も覚悟を決める。秀星と出会ってから六年、蒼の下のコミ・ド・ランとして二年。二人の男が葉子に与えてくれたものを、示すために。
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