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【後日談2】トロワ・メートル
6.秀星さんに会えましたか
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「おまたせいたしました。本日のアミューズでございます」
ビールがまだ残っていることを確認しながら、葉子は甲斐氏の左側から手前へと、アミューズのグラスを乗せた白い角皿をそっと置く。
指先まで神経を尖らせて、決して気を抜かない。美しく置く。その方が楽しみに待っているそのまま、流れるように召し上がっていただくことを心に置いて。『そうだよ、ハコちゃん。いいね、綺麗な置き方だ』。OKをだしてくれた秀星の満足そうな顔も思い出す。
もう六年も前になる。初めてこの仕事を始めたときのことを、葉子は鮮明に思い出している。
「お隣の席から聞こえてきましたが、私も写真集で見ていたこのアミューズ、とても気になっていたので出てきて嬉しいですよ」
「ありがとうございます。当店のシェフと桐生が共に作り出したものとなっております」
「蓴菜は初めてだな。大沼でも収穫されるのだね」
「はい。大沼の夏は睡蓮です。その睡蓮同様に蓴菜も、葉っぱが水面に浮かぶ浮葉植物です。湖畔の遊覧船乗り場あたりの食堂などで、蕎麦に乗せて提供していることが多いです」
「こちらでは? 写真集で十和田シェフがコメントしたとおりのお料理ということでいいのかな」
「当時のままとなっております。この季節に当店でよくお出ししているものです」
アミューズは『お楽しみ』という意味。この店に来て、まずお楽しみくださいとお料理を選ぶ前に、楽しんでいただくもの。ほんのひとくちから、まずたのしんでいただくということで小ぶりのものが多い。
今日も父の政則が小さなひとくちグラスにトマトのコンポートと、蓴菜と、柔らかで小さなベビーリーフの緑を彩りとしてトッピングしている、透明感がある夏らしい盛り付けになっている。
「緑の若芽をきらきらした粘液が包み込んでいるのが綺麗だね。あちらのお客様も写真集を開いていらっしゃったから、北星秀がシェフと試作したものが出てきて喜ばれていたわけですね」
「はい。北星の写真を通してフレンチを楽しんでくださると知れば、桐生も喜んでいると思います。いいえ、私の勝手な想像でしかありませんけれど」
そこでも甲斐氏は白髪の頭をそっと振って、また優しく眼差しを伏せ、アミューズのグラスを見つめている。
「きっと、そうですよ。食材に敬意を払う。私のもとに桐生が来た時には、彼にはすでにその精神が備わっていました。大沼でもその精神が生きて、教え子だった葉子さんに伝わっていると知って嬉しかった。ここ大沼では、十和田シェフと一緒に、よく食材を探していたと動画でも見ました」
父が最初に登場した時に、北星とはよく食材探しをしたと伝えていた配信もご覧くださっていたようだった。
蒼に言われたとおりに、葉子もここは思い切って、『ハコ』として話し相手になってみる。
「娘の私からみても、兄貴と弟分といいましょうか、相棒だなと思っておりました。写真集にありました日本一丸い湖と呼ばれている『倶多楽湖』の写真も、父とでかけたときに撮影したものです。休日になると二人揃って牧場だの港だのとでかけていました。チーズを買い込んで、ワインを男ふたりで空にしたり。父なんて『オヤジのたのしみだ、ほうっておいてくれ』と母はによく言い放っていました。母も呆れて、飲み散らかして食べ散らかすものですからよく怒っておりました。でも、秀星さん、……桐生はあとできちんと片付けを手伝ってくれていました。母は、そんな桐生のきめ細かい気遣いを褒めていました。母にとっても、年下の気の利く弟分だったと思います」
お客様には関係のないプライベートの話。
それでも、甲斐氏は目を細めて、穏やかな面差しで聞き入ってくれている。
蒼が狙ったとおり、葉子と話すことで秀星を知る。これもサービスとしてのひとつと考えていたのだろう。甲斐氏も受け入れてくれたとホッとする。
「そうでしたか。彼にとって居心地のよい場所だったことでしょう。特に、以前までの店であれば、シェフと共に食材を探すとか試作するなど参加することなどはなかったでしょうからね。役割分担がはっきり仕切られているグランメゾンやホテル勤務だと、職場という意味で桐生もきっぱり距離を取っていたでしょうから。ここ個人経営であった十和田シェフのそばだったからこそ、このような思い出も生まれたわけですよね。楽しく過ごしていたことが伝わる十和田シェフのエピソードでした。あれを読んで、ほんとうに無性に、無性に、こちらに来てみたくなったのです」
ああ、この方も秀星が惹きつけて大沼に連れてきてくれたんだと、葉子もそっと微笑む。
ここで秀星がどう過ごしていたかも知りたかったようだった。
「では、秀星がめずらしくはしゃいだというお味を、私もいただきたいと思います」
「どうぞ、お楽しみくださいませ」
葉子もそこでそっと下がる。蒼もそれとなく隣のテーブルの様子を窺っているふりをして、葉子の甲斐氏へのサーブとサービスを見守ってくれていたようだった。
厨房へと下がる時、蒼もそっとそばへと並んで同じ方向へと歩いてくれる。
「うん。大丈夫だったようだね。俺が知っている秀星先輩よりも、大沼にいた秀星先輩を知りたいはずなんだ。優しい顔をしていたしね、よかった」
「ほんとうは怖いの?」
「仕事ではね。いまはおいしいものを食べたい、秀星先輩に会いに来た優しいおじいちゃんだと思えばいいよ」
ほんとうは蒼も緊張しているくせにと笑いたくなったが、仕事中。
次は、岩崎様と甲斐様のテーブルへ、オードブルを運ぶタイミングを計らねばならない。
お楽しみくださてっているかなと、葉子は甲斐氏がひとりでいるテーブルへと振り返る。
気のせいかな。うつむいて、目元を拭ったような気がした。やっぱり、秀星さんを思って食べているうちに、込み上げてきちゃったのかなと葉子は素知らぬふりをする。
そう。蒼が来たばかりの頃も、ひとりでひっそり泣いていた。今日、甲斐師匠は、やっと亡くなった秀星さんに会えたのかもしれない。
ビールがまだ残っていることを確認しながら、葉子は甲斐氏の左側から手前へと、アミューズのグラスを乗せた白い角皿をそっと置く。
指先まで神経を尖らせて、決して気を抜かない。美しく置く。その方が楽しみに待っているそのまま、流れるように召し上がっていただくことを心に置いて。『そうだよ、ハコちゃん。いいね、綺麗な置き方だ』。OKをだしてくれた秀星の満足そうな顔も思い出す。
もう六年も前になる。初めてこの仕事を始めたときのことを、葉子は鮮明に思い出している。
「お隣の席から聞こえてきましたが、私も写真集で見ていたこのアミューズ、とても気になっていたので出てきて嬉しいですよ」
「ありがとうございます。当店のシェフと桐生が共に作り出したものとなっております」
「蓴菜は初めてだな。大沼でも収穫されるのだね」
「はい。大沼の夏は睡蓮です。その睡蓮同様に蓴菜も、葉っぱが水面に浮かぶ浮葉植物です。湖畔の遊覧船乗り場あたりの食堂などで、蕎麦に乗せて提供していることが多いです」
「こちらでは? 写真集で十和田シェフがコメントしたとおりのお料理ということでいいのかな」
「当時のままとなっております。この季節に当店でよくお出ししているものです」
アミューズは『お楽しみ』という意味。この店に来て、まずお楽しみくださいとお料理を選ぶ前に、楽しんでいただくもの。ほんのひとくちから、まずたのしんでいただくということで小ぶりのものが多い。
今日も父の政則が小さなひとくちグラスにトマトのコンポートと、蓴菜と、柔らかで小さなベビーリーフの緑を彩りとしてトッピングしている、透明感がある夏らしい盛り付けになっている。
「緑の若芽をきらきらした粘液が包み込んでいるのが綺麗だね。あちらのお客様も写真集を開いていらっしゃったから、北星秀がシェフと試作したものが出てきて喜ばれていたわけですね」
「はい。北星の写真を通してフレンチを楽しんでくださると知れば、桐生も喜んでいると思います。いいえ、私の勝手な想像でしかありませんけれど」
そこでも甲斐氏は白髪の頭をそっと振って、また優しく眼差しを伏せ、アミューズのグラスを見つめている。
「きっと、そうですよ。食材に敬意を払う。私のもとに桐生が来た時には、彼にはすでにその精神が備わっていました。大沼でもその精神が生きて、教え子だった葉子さんに伝わっていると知って嬉しかった。ここ大沼では、十和田シェフと一緒に、よく食材を探していたと動画でも見ました」
父が最初に登場した時に、北星とはよく食材探しをしたと伝えていた配信もご覧くださっていたようだった。
蒼に言われたとおりに、葉子もここは思い切って、『ハコ』として話し相手になってみる。
「娘の私からみても、兄貴と弟分といいましょうか、相棒だなと思っておりました。写真集にありました日本一丸い湖と呼ばれている『倶多楽湖』の写真も、父とでかけたときに撮影したものです。休日になると二人揃って牧場だの港だのとでかけていました。チーズを買い込んで、ワインを男ふたりで空にしたり。父なんて『オヤジのたのしみだ、ほうっておいてくれ』と母はによく言い放っていました。母も呆れて、飲み散らかして食べ散らかすものですからよく怒っておりました。でも、秀星さん、……桐生はあとできちんと片付けを手伝ってくれていました。母は、そんな桐生のきめ細かい気遣いを褒めていました。母にとっても、年下の気の利く弟分だったと思います」
お客様には関係のないプライベートの話。
それでも、甲斐氏は目を細めて、穏やかな面差しで聞き入ってくれている。
蒼が狙ったとおり、葉子と話すことで秀星を知る。これもサービスとしてのひとつと考えていたのだろう。甲斐氏も受け入れてくれたとホッとする。
「そうでしたか。彼にとって居心地のよい場所だったことでしょう。特に、以前までの店であれば、シェフと共に食材を探すとか試作するなど参加することなどはなかったでしょうからね。役割分担がはっきり仕切られているグランメゾンやホテル勤務だと、職場という意味で桐生もきっぱり距離を取っていたでしょうから。ここ個人経営であった十和田シェフのそばだったからこそ、このような思い出も生まれたわけですよね。楽しく過ごしていたことが伝わる十和田シェフのエピソードでした。あれを読んで、ほんとうに無性に、無性に、こちらに来てみたくなったのです」
ああ、この方も秀星が惹きつけて大沼に連れてきてくれたんだと、葉子もそっと微笑む。
ここで秀星がどう過ごしていたかも知りたかったようだった。
「では、秀星がめずらしくはしゃいだというお味を、私もいただきたいと思います」
「どうぞ、お楽しみくださいませ」
葉子もそこでそっと下がる。蒼もそれとなく隣のテーブルの様子を窺っているふりをして、葉子の甲斐氏へのサーブとサービスを見守ってくれていたようだった。
厨房へと下がる時、蒼もそっとそばへと並んで同じ方向へと歩いてくれる。
「うん。大丈夫だったようだね。俺が知っている秀星先輩よりも、大沼にいた秀星先輩を知りたいはずなんだ。優しい顔をしていたしね、よかった」
「ほんとうは怖いの?」
「仕事ではね。いまはおいしいものを食べたい、秀星先輩に会いに来た優しいおじいちゃんだと思えばいいよ」
ほんとうは蒼も緊張しているくせにと笑いたくなったが、仕事中。
次は、岩崎様と甲斐様のテーブルへ、オードブルを運ぶタイミングを計らねばならない。
お楽しみくださてっているかなと、葉子は甲斐氏がひとりでいるテーブルへと振り返る。
気のせいかな。うつむいて、目元を拭ったような気がした。やっぱり、秀星さんを思って食べているうちに、込み上げてきちゃったのかなと葉子は素知らぬふりをする。
そう。蒼が来たばかりの頃も、ひとりでひっそり泣いていた。今日、甲斐師匠は、やっと亡くなった秀星さんに会えたのかもしれない。
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