名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を

11.世界中の誰より――

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 桜が散ったばかりの気候なので、日が傾き始めるとまだ肌寒い北国の五月。少し波立ってきた夕の湖面でも、そのぶんキラキラと陽射しを反射して眩しい。

 細い散策道を歩きながら、いつなにが咲いて見られるかを、葉子でなく蒼が一生懸命に家族に案内している。

「とにかくっ、睡蓮! 『夕日の散策道』っていうコースの奥で咲く睡蓮とか、蓮の仲間のコウホネっていう、小さな黄色い花の群生もみられるんだ。月夜に湖畔を散歩すると、めっちゃロマンチックなんだ~」
「蒼さ、クール寄りな葉子さんにロマンチックを提供するなんて言っていたけどさ、そもそも、あんたが元々ロマンチストでしょうが」

 お姉さんのつっこみに、蒼が『なんだと』と一瞬だけ顔をしかめたが、すぐににっこにこの笑顔になる。

「そうでーす。俺ってば、そういうの大好き」
「ほらね。ま、葉子さん、どんどん乗ってあげて。夢見るおじさんで、ごめんね」
「なんなの、姉ちゃん!! 『おじさん』って! 俺、かおかんむりなんですけどっ」

 そんな会話も賑やかな篠田姉弟のどつきあいに、葉子も笑いながら散策道を先に歩いて先導する。

 やがて、秀星が朝に撮影していたポイントに到着する。
 少しだけ波打つ音がする水辺。葉子はいつもカメラが固定されていたそこに立ち止まる。

「ここです。毎朝、ここに三脚を固定して、この方向の大沼と駒ヶ岳を撮影していました。そして……ここで……」

 不思議だった。いままですぐに滲んでいた涙が今日は出てこない。

「ここで亡くなっていました」

 葉子が駆けつけた時にはもう、遺体が救急車で搬送されるところだった。
 父が付き添い、病院で死亡確定がされて、そこでやっと彼と対面した。あの時の、どうにも現実ではないとしか思えない光景と、頭の中が真っ白になって途方に暮れた瞬間も蘇ってくる――。

 それでも思い出す秀星の『死に顔』は、いつも彼が仕事中に葉子を見つめていたシビアな上司の顔つきとおなじもの。
 そんな生きている時と変わらない顔だったのが印象に残っている。血の気のない真っ白な顔だったけど、いなくなったようには思えなかったあの時の感覚。

「それから私も、ここで唄い始めました。同じ位置にカメラを固定して、三年前の睡蓮が咲く少し前に始めたんです」

 刻々とかわる風景をひたすら撮影していた男。
 刻々とかわる風景の中、ひたすら唄っていたハコ。
 ここはそんな水辺だった。

「ほんとうだ。ハコちゃんが唄っている時に、ときどき見られる景色と一緒やね。いい風……」

 真由子義姉が、目を瞑ってうっとりとそこに佇んでいた。

 遠く広島から来てくれた人が、この場所でそう感じてくれることは、葉子にとっても、とても嬉しいことだった。

「ほうか。ここが秀星さんの場所ってことなんじゃな」
「ほんと。秀星さんがそこでにっこり笑っているのが目に浮かぶね」

 花束を持っている篠田のご両親も、森林の匂いがする風を胸いっぱいに吸い込んでいる。
 しばらくして、篠田の義父から水辺へ向かい、義母とともに花束を手向けてくれる。その後ろへと真由子義姉も続いて、三人一緒に座り込んで手を合わせてくれた。

「秀星さんからのお誘いで、やっと大沼に来られましたよ。息子と葉子さんを引き合わせてくださって、ありがとう。あなたのことは、私たちの間でずっと生きていますからね」
「いただくお写真のとおり、素敵なところ。また、貴方に会えたような気持ちです」

 篠田のご両親の言葉は、秀星の死去を哀しむものではなかった。
 生前と変わらぬ接し方をしてくれたので、葉子もじんわり涙が滲む。隣にいる蒼も、いつもの如く『ぶぇえぇ』と既に号泣しているで、葉子はぎょっとしてしまう。

 もう、仕方がないな。今日も葉子がハンカチでその濡れた頬を拭いてやるのだ。

 弟の昴も一眼レフのカメラを持ってきたので、久しぶりの秀星ポイントに立ってファインダーを覗いている。

「もっと教えてほしかったな。カメラと写真のこと」
「そっか、秀星さんは、昴にはカメラと写真を遺してくれたんだね」
「うん。いつも見ていた他愛もない風景が、秀星さんがシャッターを押した後に切り取った映像になると、ぜんぜん輝きも色合いも違うんだ。なんだろ……。絵を描いたみたいなかんじ? 北星秀が筆を執るとこんなかんじ、っていうのが写真になっているなって、いつも思っていた」

 弟も似たような感覚を秀星の写真から感じ取っていて、葉子は驚かされる。

「私もそう思っていた! 私の働く姿勢を撮っていた写真をみつけたんだけど、それ全然私じゃないの。でも私なの! そのことを、今度の写真集で伝えることにしているの。わー、昴も感じてくれてたんだ!」
「だから、今度は自分が撮る写真で感じたくなっちゃったんだ」

 そう言いながら昴は、秀星がよく定めていたアングルで、何度もシャッターを押している。

「俺はまだ、自分が撮った写真からは、あの感覚が襲ってこないんだ。だから、秀星さんはやっぱり技術もあったし、『魂』も入っていたんだと思う。あの人じゃないと撮れないものを何千枚何万枚も撮り続けていたんだ。それがカメラに触れたこともない俺にも通じたから、きっと、『エゴイスト』の中の写真は、たくさんの人の心に触れるよ――。素人の作品なんかじゃないよ」

 写真集発売前で不安に思っている葉子に、昴がそんなことを言ってくれる。秀星の写真をよく知っている弟がそう言ってくれると、葉子も気持ちが軽くなる。

「見本誌っていうのが届いたら、昴にも送るね」
「待ってる。俺も後方支援するからな」

 姉弟の結束を見て、そばにいる蒼も微笑んでいる。

「昴君はカメラで、葉子ちゃんは、やっぱりギターを持ってきたね。ということは、唄うつもりできたでしょ」

 そう、葉子はここに来るとなると、どうしてもギターを持ってきてしまう。
 おめかしをしたドレスの上にスプリングコートを羽織ってエレガントに着飾っても、ギターを背負ってきてしまった。

 秀星へのお参りを終えた篠田のご両親と、真由子義姉も笑顔で振りかえる。

「せっかくだから、葉子さん、なにか唄って」

 真由子義姉に言われ、葉子はとたんに照れが出て、はにかみ黙ってしまう。そんなときも、蒼が代わりに伝えてくれる。

「葉子ちゃんったら、歌手になりたかったくせに、照れ屋なんだよ。人がそばにいると気が散っちゃうタイプね」
「そうか、残念――。ってさ、だったら蒼はどうして、葉子さんのそばにいられてカメラマンになれたんよ?」
「だから~、結婚することになったんじゃないの~。俺、めっちゃそばで応援していたのね。その愛がやっと伝わったわけよ。姉ちゃんったら無粋~」
「はあ? なに平気でのろけてんのっ」

 こちらの姉弟は常に会話の投げ合いなんだなと、葉子と昴はいちいち、歳が離れている姉弟の賑やかさに目を丸くしてしまう。

「なのに、人目に触れるかもしれないここで唄い始めたのは、かなりの覚悟だったんだろうね。でも、人の目を気にしなくなった時の集中力ったら凄いんだよ。唄っている時は、そういう状態なんだよな、きっと」

 葉子も気がつかない姿を見つけてくれていたのは秀星だけでなく、蒼も、唄う葉子のことをそんなふうに見ていてくれていたんだと初めて知る。

 でも、そうだな――と葉子も振り返る。いつの間にか空気のようになって、いちばんの観客になっていたダラシーノ。最初は『鬱陶しいな。ひとりで唄いたいのに。人がそばにいると気が散るよ』とか『ひとりで函館まで音楽を聴きながら行きたいのに。なんか迎えに来る……』とか思っていたのに。その男がそばにいないと寂しくなってしまうまでの状態になっていた。いまはもう、彼がいないと心許ない。

 第一印象が『図々しい男』だったのに『夫』になるのだから、どう結ばれるかわからないもの――。
 そしてそれらは、秀星が大沼まで運んでくれた『糸』でもある。

 今日もここには、秀星は結んでくれた『糸』が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。そのために唄いたい。

 葉子は肩に担いでいたギターケースを降ろして、地面に置いて、いつものようにギターを取り出す。肩から提げるバンドを掛けて、ギターを構えた。

「んー、なにを唄いましょう」

 真由子義姉の目が輝く。水辺で景色を夫妻でずっと眺めていた篠田の両親も笑顔になってくれる。

「はい! ダラシーノ姉、リクエストしてみたかったんよ!!」
「はい、どうぞ。すぐ弾けそうなものなら――」
「今日はおめでたい日でもあるやん。私も思い出しちょったんよね~、随分前になっちゃうけど、結婚した時のこと。ほら、蒼と『イトコ』たちが一緒になって余興で唄ってくれたやん」

 姉に言われ、蒼がたじろいだ。

「あれ、あの唄!? めっちゃ姉ちゃん世代の唄じゃん。葉子ちゃん知ってるかな? いや、リクエストで一度唄ったかも。俺が来る前、神戸で視聴していたときかな?」

 なんの唄なんだろうとドキドキして待っていると、蒼がスマートフォンで、その曲を検索してくれる。

「これです。姉の結婚式のとき、俺、まだ小学生だったんだよね。大人の『イトコ』たちに混じって、唄わされたのよ」


『世界中の誰よりきっと WANDS』
 ――と表示されている。

 葉子はもうピックを手にして、ギターの弦に触れている。

「ああ、これなら。リクエストで唄ったことあるし、私も親戚の結婚式で聴いたことあります。それにこれ、いまもリクエストでよく上がってくるんですよ。お姉さん世代では根強い人気ですよね。たまにピックアップして何度も唄っていますから……」

 と、言いながら、ギターでイントロのメロディーをかき鳴らすと、真由子義姉が『わぁ、これこれ』と喜び、水辺でぴょんと跳ねてくれる。

「じゃあ、ダラシーノさん、唄えますよね」
「ええ!? また俺!」
「手元に歌詞、あるでしょ」

 スマートフォンで検索したばかりの画面を蒼が眺める。
 そして、やっぱりまんざらでもない様子で唄い始めた。

「お、ダラシーノ。いい声じゃん。俺、動画で撮っておこう」

 姉のギター演奏に合わせて唄う義兄の姿を、昴がスマートフォンを向けて撮影をはじめた。
 それでも蒼は、もう『俺、唄っちゃうもんねスイッチ』が完全に入っているようで、真面目な顔で唄っている。
 それがまた、おかしくて。真由子お姉さんも、篠田のご両親も、楽しそうに笑いながら手拍子を入れてくれる。

 なのに蒼の声は、普段から良く通る声なので、湖畔で綺麗に響いて、唄のプロ手前だった葉子でも聞き入ってしまうものだった。
 サビの部分で、歌い慣れている葉子がバックコーラスのメロディーを重ねて唄うと、真由子義姉と昴から『すごい、ちゃんとハモってる』と拍手が湧いた。

 彼と一緒に湖面に向かって、駒ヶ岳に向かって唄っている。
 今日は、そう、こんなふうに、しあわせをかんじる唄を――。哀しみを背負って唄っていたここで、唄えるようになっている。

『いいね。もっと唄ってほしいな。嬉しかったよ。僕の好きな唄を、ありがとう』

 そこに秀星の笑顔が見えた。
 『Good-bye My Loneliness』を唄った日の彼の笑顔。
 もうここに、哀しみはない。
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