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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を
4.不惑男の心変わり
しおりを挟む秀星の写真集発売前に、ご両親とお姉様が大沼にやってくる。
葉子もクレープフランベの練習を、これまで以上に回数を増やして、蒼にコーチしてもらった。
蒼の家族は、父親に母親、そして歳が離れた姉がひとりいる。
これまた姉とは歳が離れていて、お姉さんはもうアラフィフさん。お子様も大きくなって手がかからないとのことで、ご主人とお子様には留守番をしてもらい、お姉さんがご両親の付き添いとして来てくれることになっていた。
蒼はご両親が歳を取られてから産まれた男の子で、ものすごく可愛がられ、自由に生きていく応援をしてくれたということだった。お姉様もおなじく、広島で結婚をされて、ご両親のそばで暮らしてきたので、蒼はますます自分だけのことで生きていけたと聞かせてくれた。
そこで、葉子は気がついたのだ。
蒼もどことなく秀星と生き方が似ているのではないかと。彼の場合は仕事がいちばん大事な生きる道であって、秀星は仕事より写真という違いがあっただけ。それでも給仕の仕事を磨き上げていた生き方は、二人で価値が揃っていた? だから仲が良かったのかもしれない。
そして蒼の姉の『真由子』さん。葉子とは二十歳ちかく年の差がある。葉子の親とのほうが歳が近いという現象が起きた。
それでも広島で初対面した時は、『蒼のことは、好きにすればと思っているし、やっぱり若い子捕まえてきたー』と笑い飛ばしてくれた。それがなんとなく蒼に似ていると感じられて、葉子も嬉しかった。
まるで母と娘みたいな義姉妹になりそうだった。
そのお姉さんが、広島で対面した時に、秀星の話をしてくれた。
『蒼が何度かつれてくることがあったけれど、きちんとされていた方で、この人がそばにいれば蒼も安心ねと思うぐらい、うちでも頼りにしていたの。その方が、北海道へと行ってしまったことも驚きだったのに……。まさか……』
お姉様が涙を流した。
また葉子が知らぬ秀星を話してくれる方に出会って、つい一緒に涙を浮かべてしまったのだ。
そういえば、呉の海上自衛隊の写真に、呉の音戸大橋や、尾道の坂の町並み、船舶が往く瀬戸内海の写真もあったなと思い出す。
それはどうも蒼と一緒に広島に遊びに来ていた時のものだったと、やっと知ったのだ。
休業日。父の許可をもらい、店内で蒼にクレープフランベのレクチャーをしてもらう。
「いつもはポワル、クレープパンをコンロの炎へと傾けてパンの中に炎を移しフランベを行うが、オレンジの皮をつたわせるにはレードルにコアントローを入れた状態で炎に近づけレードルに火を移し、炎をオレンジの皮に近づけ、レードルを静かに傾けそっと伝わせる。炎とコアントローとともに螺旋状の皮から、クレープパンへと落とす。炎が移ったら、炎があるうちに仕上げのシュガーを振って仕上げる」
あと十日でご両親とお姉様がやってくる。
蒼が実技でお手本を見せてくれ、葉子も彼のひとつひとつの動作を目に焼き付ける。
「添えるフルーツは、瀬戸内産の清美オレンジのカットと北国のハスカップのコンフィチュールを添えて、それぞれの家族が一緒になるという表現とかどうかなと思っているんだ」
「うん、いい! 瀬戸内と北国のコラボになるんだね」
「問題は皮の螺旋状カッティングなんだけど。ま、一度、やってごらん」
葉子はドキリとしながら、蒼が差し出した清美オレンジを手に取る。
蒼がお手本で教えてくれたとおりに、オレンジの蔕がある頭を切り落とし、オレンジをフルシェットに刺し左手に持ち、これを回転させながら、右手のナイフで皮を螺旋状にむく。
これもクレープフランベのパフォーマンスのひとつになっているので、ゲストの目に触れる状態でやらなくてはならない。
葉子の場合、未だに見よう見まねの範囲で、ぎこちない見栄えになってしまう。それでも、ゆっくり丁寧に進めてみる。
「う……、ううむ、むむむ」
そんな蒼のうなり声が聞こえてくる。
葉子も、わかっている。全然ダメだって――。
「うーん、わかっていたけれど、これはさすがに。丁寧なのはいいけれど、それだとパンの中にあるクレープに火が通り過ぎるし、オレンジソースが焦げる。クレープパンの中の調理具合と同時進行にできるスピードで、なおかつ、綺麗なカットで、見栄えよくできなくてはならないんだよ」
仕事でのレッスンではないので、今日は優しい語り口の蒼だったが、これが給仕長としてだったら『駄目だな。なっていない。ちゃんと見てやっているのかな』と冷たく言われるところだった。
「はい、時間切れ。半分しか剥けなかったね。残念」
まだオレンジの球体半分しか螺旋状にできなかった。葉子もがっくりうなだれる。
「えー、決断します。むりです。葉子ちゃんにはむり」
「……わかった。じゃあ、いつものフランベで頑張る」
「いやいや。諦めちゃだめよ。これ仕事じゃないからね。それに葉子ちゃんが、うちの家族を華やかな演出でもてなしたいという気持ち、俺も嬉しかったからね。こうして一生懸命に練習して準備しようという気持ちも。だからね、葉子ちゃん――」
そこで蒼が提案したことに、葉子も頷いた。
自分の理想とは異なってしまうが、蒼の言うことがわかるから頷く。
でもそれはふたりにとっては、素敵なことだった。当日、その提案で行うことに二人で決める。
「食事会用の新しいお洋服を、函館に見に行こうな。葉子ちゃんがまた大人っぽくなるの楽しみ!」
蒼は食事会の日がくることを、始終ウキウキして待ち構えていた。
二人だけの休日のレストランのホールで、ワゴンを片付けながら、葉子は初めて聞いてみる。
「蒼君が楽しみにしているように、私も楽しみにしているよ。……でも……、蒼君……、初めて、なの? 結婚とか考えたことないの?」
あまりにも嬉しそうで楽しみという姿を見せてくれるので、ほんとうに『結婚することを実感する』のは、初めてなんだろうなと余計に感じている。だったら、それまで『結婚』については、どう考えてきたのかと今度は疑問に思う。
だからこそ、それとなく避けてきたことを、葉子はついに聞いてしまっていた。
聞いたらいけなかったかな? そばで優しい微笑みを浮かべているままの蒼を葉子は見上げていた。彼はそうしていつも、葉子といるプライベートでは優しい顔をしている。大人の落ち着きがそこにもあった。
「あったとして、駄目になったことわかるでしょ。この年齢まで独りだったんだから。俺も先輩と似ていると思うよ。気が合うのはそういうことだったんじゃないかな」
あ、蒼もおなじ事を感じ取っていたと、葉子は知る。
「俺の場合、家族はいるけれどおなじく身軽。だからすぐに北海道に移住できたってわけ。先輩がカメラだったら、俺はポルシェとか住まいに金をかけていたしね。そういう男、女の人から見たら最初は良くても将来は不安ってやつなんだろ。あっという間だよ。つまり、結婚とか夢見る会話が出たとしても、具体的に話が進むにいたらず。ここまですんなり話が進んだのは、葉子ちゃんが初めて。ほんとうだよ」
「ごめん。変なこと聞いたね……」
「いや、この年齢の男が独りだったら、そりゃ気になるでしょ。でもね、この歳まで好きなことを突き詰めてきたからこそ、次に行けるんだよ。今度は、葉子と家族を大事にすることを突き詰めていく。ポルシェを手放せた時から、なんとなく、もうそんな気持ちに決まっていたんだよ。パパがさ、」
蒼は葉子の父『政則』のことを、仕事以外では、シェフではなくパパと呼ぶようになっている。
「パパが言っていた、ポルシェより葉子を選んだというのは、まあ、合っているっちゃ、合っているんだよな。ほんっと、大沼で働くには『北国暮らしの覚悟が必要! そのために、もうポルシェさよなら!!』と、あっさり決断できた自分にも驚いているんだ」
「そんなに一生懸命に働いて手に入れたなら、手放さなくても良かったのに……」
「大事の位置が変わってしまったんだよ。先輩のせいだな。秀星さんが亡くなって、気持ちが変わってしまったんだ。それまでの『大切』が、そうでもなくなってしまう瞬間ってあるんだよ」
そこまで話した蒼の眼差しが急に翳り、また年相応の枯れた表情を見せたので、葉子はどきりとする。
「もしかすると、秀星さんの中でも『大事』が変わっていたんじゃないかと最近思うんだよ。葉子と結婚しようと自然に思えた気持ちと、おなじものが秀星さんにも起きて、だから『最後だ』と思っていた、かも、しれない……なんて、最近思うようになっているんだ」
秀星とよく通じていた男『蒼』が運んできた新たなるあの人の姿に、葉子は驚愕する。まるであの人が黄泉の国から会いに来たような衝撃だった。
「あれが、最後……という決意?」
「わからないけれど。なんだかおかしいだろ。淡々と仕事と写真を両立していた人が、あんな危険な行為をいきなり決行するまでに至る気持ちがあったということだよ。俺が、ハコちゃんと政則パパと大沼のレストランの存在を知ってから、徐々に徐々に『大沼のレストランで一緒に働きたい』と気持ちが変わっていったような日々が、秀星さんにもあったんじゃないかということだよ。大袈裟にいうと俺のポルシェのように『もうカメラを売ってもいい』ぐらいの決意――」
そう話していた蒼がはっと我に返った顔になる。
すぐそばにいる葉子を、いきなりぎゅっと抱きしめてきた。
「なに言ってんだ俺……」
なにを思ってそう言ったのか、葉子にはわからなかった。
でも葉子の胸はドキドキしていた。抱きしめられたからじゃない。『秀星がカメラを捨てて、生きていこうとしてた』と聞いたからだ。
じゃあ、あの撮影が成功して、葉子と父のもとに帰って来たら、秀星はどう生きていこうと考えていた? そんなことを初めて知って感じたからだ。
葉子の心が秀星に持っていかれる瞬間を、蒼に嗅ぎ取られたと思った。
「どこか連れて行って」
「うん。ふたりきりで、どこか行こう」
その言葉の意味も、蒼には通じたようで、あの元気な彼が泣きそうな顔でしばらくずっと、葉子の黒髪を撫でながら深く抱き込んで離してくれなかった。
どんなにその人の気持ちを探ろうとしても、もう、誰にもあの時の彼の気持ちはわからないのだ。永遠に。それでいい。それしかない。葉子の心の片隅にある水芭蕉がそっと揺れて遠ざかっていく。
あとの心は、この男に捧げていくのだから。
葉子も蒼のその胸にきつく抱きついた。
十日後。桜が散り、湖畔に新緑が息吹く季節。駒ヶ岳が爽やかな青空に映えるその日に、篠田のご家族がフレンチ十和田に到着した。
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