名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を

2.やさしい夜を重ねて

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 でも葉子はそれを聞いてすぐに、興奮しながら蒼に向かっていた。

「私、なりたいと思っていたの! 勉強したい」
「よかった。興味もあったみたいだから、それなら本腰をいれる覚悟があるかどうかを知りたかったんだよね。そのかわり、厳しいよ。もちろん、俺も、ある程度の資格を持っているから、協力するからね」

 氷を入れたグラスにグレナデンシロップとジンジャーエールが注がれ、最後にレモン果汁を入れて軽くステア、本格的に螺旋状に剥いたレモンの皮もグラスに添えてくれた。

「はい、どうぞ。シャーリーテンプル」
「いただきまーす。蒼君はビールでいいの」
「うん。北海道のビールうまいからね。毎晩、たのしみ~。バカラのグラスなんて贅沢~。そして葉子ちゃんと、おっそろー」

 本格的なカクテルを作ってくれながら、こうやっていつもの『蒼くん』に崩れてくれるから、葉子も笑っている。

 帰宅したらすぐにカクテルを作れる男。こういうことなのだ。蒼が独身で有り続けたそこに、彼も秀星同様に、フレンチのギャルソンという仕事にかけてきた真剣さがそこにある。
 普段はかーるくふざけているが、その意識の高さは秀星と並ぶと葉子は思っている。
 仕事中も秀星がそばにいる時と同様気が抜けない、自宅でもたまに葉子が小さなことでふて腐れていると、大人の声で『そういうのはダメだよ』と厳しく諭されるときがある。その時は父親のような、秀星のような、そんな威厳を蒼が放つ。
 だからってプライベートまで意識を高くしていると、お互いが疲れるから、蒼が『ふざけて』空気を和ませてくれる。

 一緒に暮らし始めて葉子は気がついた。
 そうか。プライベートまで意識が高すぎる男だから、ふざけるのか――と。葉子は蒼の過去は知らない。でもこの年齢で女性となにもなかったはないと思っている。むしろ、こんな見栄えも良くて気遣いもできて優しい男を、都会の女性が放っておくわけがないのだから。
 写真に意識を向けすぎて独身だった秀星同様に、きっと蒼も若いときに、意識が高すぎて女性と決裂してきた気がする。
 その男が年齢を経て『女性と一緒の時は、こういうふうにしなくちゃ可哀想だったね』と思っている反省を活かして、いまここに……? 最近の葉子はそう思うようになっていた。

 ……だとしたら。やっぱりこの人にとっても、いまこの時なのかもしれない。この年齢だからこそ、他人と一緒に暮らそうと思える余裕を備えたのかもしれない。だから、葉子は問わない。
 それに蒼も葉子の過去を問わない。ほんとうは専門学校時代に付き合っていた恋人がいたが、音楽業界に身を置こうとする者同士、目指す方向が異なった分かれ道で、恋人としての日々も終わった。
 風の噂で、彼も憧れだった音楽プロデューサーのアシスタントをしていると聞いている。彼が『ハコ』を知っているかどうかは不明。

「それで、さっきの話の続きだけど」
 ビールでひと息ついた彼が、グラスを置いて話を続けた。
「ソムリエが一人入っていると、俺も兼任が軽減されて本来の職務にさらに集中できるようになるんだ。それから、神楽君とも面談したんだけど、彼もフレンチの世界で働くことを決意していてね。今回、矢嶋シャンテに参入したことで、彼も正社員になれたでしょう。それで覚悟してくれたみたいなんだよ」
「神楽君は、秀星さんが亡くなってからアルバイトに来てくれるようになって二年目なんだけど、篠田給仕長が指導に入るようになってから、蒼君のような仕事をしたいって常々言っていたもの。やっぱりかっこいいんだね」

 蒼が給仕の先輩の背中に憧れてここまできたように、後輩の彼もおなじ道を行きそうだと、葉子も嬉しくなってきた。

「ま、俺もそうだったからわかるんだよな。葉子ちゃんはセルヴーズとしての基本的なことは全て合格ね。だから次のステップを考えてほしいんだ。いまうちのレストランに足りないのは、人手とソムリエ。跡継ぎ娘がソムリエだったら、パパと最強タッグでしょ」
「うん。給仕長のお婿さんもいるしね。それに……、私もずっと思っていた。秀星さんがいろいろとワインと食材の組み合わせを教えてくれていたのに急にそれがなくなって、どう覚えたらいいのかわからなくなった。お客様になにかいいワインがないかと聞かれたときも、私が答えられたらいいのにって。矢嶋社長も、お父さんのお料理に娘さんがドリンクを選べるといいねと言われて……ますます、勉強したいなって」
「俺もそう思うよ。だから、シェフ・ド・ランよりも、ソムリエになってほしいんだ。給仕もできるソムリエだ。だから、ギャルソンのひとつ先のステップは神楽君に譲ってくれるかな。俺も本格的に彼を仕込みたいから」

 葉子は『わかった』と笑顔で答える。

「大丈夫だよ。シェフ・ド・ランに任命したからとて、先輩の葉子ちゃんを好きに動かせるわけではないからね」
「私も大丈夫。神楽君がそこまで本気なら、私も助けるよ」
「うん。ありがとう。ほっとした」
「嬉しい。お父さんのお店が、どんどん良くなっていくみたいで、嬉しい」

 葉子は心躍るままに、蒼が作ってくれたシャーリーテンプルのグラスを傾ける。

 なのに蒼がちょっと困ったように葉子を見つめている。

「なに、蒼くん」
「おなじフレンチの世界にいるハコちゃんと一緒に働きたいと思ってここにきたから、葉子ちゃんがフレンチの世界で頑張ろうと思う気持ち、俺もすごく嬉しいんだ。きっと秀星さんも遺してあげられたことを続けてくれて嬉しく思っているよ。でもね……、唄、やめるなよ」

 秀星の写真集の発売がもうすぐ。それが終わったら、葉子は毎日の動画配信のペースを落として、不定期更新にするつもりでいる。
 蒼も了承してくれた。もう、葉子が思い描いたもの、欲しいもの、これ以上のものはあそこにはないのだ。
 これからは、父と彼と一緒にあのレストランを守っていく。これだって秀星が遺してくれたこと……。でも、彼がほんとうに願っていたことはなに?

「俺、ハコちゃんの唄を毎日聴いて、先輩が亡くなったあとの一年を頑張っていたんだ。声も好きだったし、カメラマンになって撮影しているレンズの向こうに見える、クールな横顔でかっこよく唄う葉子も好きだよ。ほんっとに俺のハコちゃんになっちゃっていいのかなーっなんって、ダラシーノ、視聴者さんたちにぶっ叩かれるの覚悟してまっす!! 俺だけじゃないと思うのね、ハコちゃんの唄を聴いて元気が出た人って。ギターを弾くハコちゃんもかっこいいし、それ観てるの俺だけって特典ちょーーさいっこうっ」

 あ、やっぱり最後はしんみりしたくなくて、ダラシーノになったと葉子も笑顔になる。

「唄うね。なにがいいかな~、あ、そうだ……」

 葉子はリビングにあるギターを取りに行く。
 まだビールを味わっている蒼がいるダイニングに戻って、彼へと向いて椅子に座り直し、ギターを構えた。

「ずっと好きだった」
「お、お、おお!?」
「蒼君、斉藤和義さん好きでしょ」
「すきすき!! その唄もすきっ」

 ギターでイントロを鳴らしはじめると、もうそれだけで蒼がグラスをマイクみたいにして、葉子よりも声を張り上げて唄いだす。
 私が唄わなくてもいいじゃないかとおもつつ、一緒に唄った。

「はいはい! ダラシーノリクエスト!」
「はい、どうぞ」
「スピッツの『チェリー』もめっちゃ好きでっす」
「はい。それならすぐ弾けます。唄えます」
「さっすが、ハコちゃん!!」

 また葉子が伴奏を始めると、やっぱりおなじ。もう歌詞を覚えきっているのは蒼のほうで、ノリノリで声を張り上げている。
 隣家は離れているし、白樺木立のそばなので、夜間もこうした音を気にせずに演奏を楽しめるのもこの家の良さだった。

「あ~、幸せっ。ギターと唄がうまい素敵な奥さんができるなんて、めっちゃ幸せっ。ビールも最高っ!! 今日もビールがおいしいな!! これ一生つづきますように、神様、おねがい!!」

 そんなことも臆面もなく言ってくれて、葉子は照れるより、やっぱり笑い飛ばしていた。

 その日の夜も、二階のベッドルームで一緒に眠った。
 仕事の日の彼はすぐに寝付く。葉子も薄着で彼の隣に潜り込むと、すぐに眠気が襲ってくる。

 ちょっとだけ。もう眠ってしまった彼に身を寄せてみた。
 あったかいよ。匂いも好き……。甘えるように抱きついた。
 こんなふうに甘えたことがないから、余計にそうしたくなる。
 そうすると、葉子の黒髪をくしゃっと、大きな手が撫でている。

「……俺のこと、ほんと、鬱陶しかったり、おじさんだな、やだなと思ったら、無理して一緒に眠らなくてもいいからな。葉子ちゃんの部屋、用意してあげたんだから」

 眠ったと思ったのに、葉子がぐいぐいと抱きついてくるので目が覚めたようだった。

「こんなに抱きつく私のほうが鬱陶しくて眠れないんじゃないの」
「んなわけ、ないでしょ。あったかくていい匂いで……。人肌がそばにあるのは、すごくいいよ。……ただ……、俺はさ、もう、どんどん歳を取っていくだけだから。葉子はまだ、若いから……、その……」
「まだそんなこというの? 蒼くんと私は、誰も持っていない絆があるんだよ」

 秀星が繋げてくれた『絆』が。
 逝ってしまったあの人を、恋しかったあの人を、一緒に愛してくれるのは、間に置いてくれるのは、あなただけ。
 でも、そう思って、葉子は初めて気がつく。それって蒼には失礼なことなのかな?

 温かなブランケットの中で、寄り添ってくっついて抱き合っている彼の目をそっと見つめる。

「蒼くん、いつまでも秀星さんがいたら、いや?」
「なに言ってんの。俺たちにとって大事な人でしょ」
「私にとって、いまのいちばんは、蒼くんだよ」
「わかってる。そうだな。俺、変なこと言ったな……。だってな。ほんとに葉子のぬくもりが嬉しくて、なくしたらどうしようと怖くなることがあるんだ。いまは良くても……、そうじゃなくなるかもしれないだろ」

 葉子はそれを聞いて、はっとする。
 そしてなにも言わずに、彼の胸に額を押しつけるように抱きつく。

 この人、明るいけれど、ほんとうは寂しかったのかも、いままで……。『そうじゃなくなる』ことが幾たびかあって、独りで過ごしてきた人。そう思った。

「ずっと一緒にいる。あなた以外の人なんて、知らない」
「うん。俺もだよ――」

 甘える葉子を、今度は蒼がそっと長い腕を回して抱きしめてくれる。
 まだ気温が一桁低温になる北国の春の夜――。
 彼と重ねていく日が、夜が増えていく。激しい熱愛よりも、やさしい夜をたくさん重ねていく。
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