36 / 103
【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》
16.エゴの犠牲者
しおりを挟むお母様は、自宅のリビングへと案内された。
ランチ開始前の時間だったので、蒼も呼ばれ、リビングのソファーに父と母も揃っていた。お母様のご指名は、父と母と篠田だったので葉子は何故か外された。
聞かれたら困ることなのかもしれない。
それでも母が、そこで聞きたいなら聞いておきなさいと、なんだか怒りながら言ってくれ、葉子はリビングと繋がっているキッチンのドアのそばにひっそりと控えて聞かせてもらえることになった。
「お嬢様がきちんとお月謝を支払って通ってくださっていたのに、教える仕事をするべき講師の娘が、その義務を全うしていなかったと知りました。申し訳ありませんでした」
お母様が白い封筒を目の前にいる両親へと差し出した。
「いま娘は入院をしております」
その話に葉子はショックを受ける。自分は声が出なくなったが、先生にも精神的ダメージがあったということなのだろうか……。
そんな報告に対し、父と母は眉をひそめ納得していない様子を漂わせている。蒼も目つきが尋常ではなかった。そんなの知らんわ――とでも言い出しそうな顔をしている。
「その、入院されたというのは、うちの篠田のせいだとおっしゃるわけですか」
父からつっけんどんに言い返していた。
お母様が申し訳なさそうに顔を上げる。
「いいえ。違います。ですから今回はご説明に来たしだいです。今回だけではないのです。篠田さんだったからというわけではありません。娘はもともと惚れっぽいといいますか、恋する気質が強いので、東京での生活もおなじようなことの繰り返しでした。そこでプロの世界から身を引いて函館に戻ってきたのです。家に籠もって、限られた生徒さんとレッスンをするだけでよかったのです。ここ五年は安定した生活を送っていました。後から知ったことですが。たまたま、葉子さんのそばにいた篠田さんという男性と接触したことで、元の気質が強く出てしまったようです。申し訳ありませんでした」
その後の話を聞くと、葉子のレッスンだけ崩壊していたことは、娘が入院してから知ったことや、出かける回数が増えて案じていたとのことだった。娘が母親に伝えた理由は『生徒の葉子さんが働いているレストランだから応援したいの』と言っていたらしい。最初にご両親と一緒に食事をしていたため、お母様も知っているレストランだから問題はないだろうと思ってしまったとのことだった。
幾分かして、娘が母親に泣きすがってきたという。
『どうしよう。葉子さんの声が出なくなっちゃったって言うの』
仕事が忙しくなって葉子が教室を辞めたとお母様は聞かされていたが、安積先生から本当はなにが起きていて、娘がどのような行動をしていたかをその時に初めて聞かされたという。
東京から函館に撤退してきた時も、ひとりの男性に思いを入れ込みすぎ、好意をくりかえしているうちに、あちらの男性の仕事に影響が出てきて訴えられそうになったとのこと……。その前にも似たようなことがあり、安積先生の仕事関係も上手く行かなくなるような出来事を積み重ねていたとのことだった。今回も、また似たようなことが起きていたとのことで、お母様の落胆する姿も尋常ではなかった。
「あの時も、函館に帰ってきたとはいえ、自宅に帰ってきたのは入院をしてから半年も経ってのことでした。それから、あの子はあまり外とは接触しないように、好きなことをして穏やかに過ごすようにコントロールしてきたのです。それでも少しでも自立できる仕事をということで、自宅での教室を始めました。もちろん女性限定です。そのなかで、葉子さんのことはとくに可愛がられていたので……、私も……、娘が……まさか……、葉子さんをこんなに傷つけていたなんて……本当に、申し訳ありませんでした……」
安積のお母様が泣き崩れながら、頭を下げてくれている。
葉子も涙が出てきた。だって。こうなるまでは、ほんとうにお姉様のように大好きな先生で、とても楽しみにしていたレッスン時間だったからだ。
そこで父がため息をついて、短い黒髪をバリバリ掻いている。
言いたいことは山ほどあるが、同じ娘を持つ親として、安積のお母様の気持ちもわかってしまうから、やるせなく感じているのだろう。
「いえ……。うちの娘の声がでなくなったのは、なにもそちらの先生のことだけではないと思っています。とにかく、娘にも短い期間に様々なことが起きましたので。特に、うちの子も音楽の夢を諦めて東京から帰って来たくちですが、なにをしていいかわからずにいる娘に、いまの仕事を出来るように教え込み導いてくれた兄貴のような男が死んだのが、そもそもの心のダメージだったんだと思っています。ここまで三年、気強く頑張っていたほうだと思います」
「娘からも聞いております。いまネットで、そのお兄様のような方が生前に撮られていたというお写真が人気だそうですね」
「五月に写真集が出る予定です」
「お父様が、その権利をわざわざ取られたと聞いております。亡くなられた男性は、もう縁者もいらっしゃらなかったから、そのお写真を守るためにそうされたのですよね。ご家族同然だったことが伝わります。そのような男性ならば、葉子さんにとってはお兄様同然ですものね。そのお兄様のお写真についても、うちの娘は酷いことを伝えたようでした」
そこは父と母は知らなかったので『そうだったのか』という顔を二人で揃えていた。蒼は知っているので、口惜しそうに黙っているだけ……。
「もちろん、このたびのご迷惑は、私の娘が急に心を乱したことが原因でございます。ただ、娘は、篠田さんが娘とそれほどお歳も変わらず同じく独身で、葉子さんとはお歳も離れているので、自分のほうがお似合いだと思っていたようです。これまた、こちらのことでわざわざお伝えするのはお恥ずかしい話になりますが、東京で若いときに付き合っていた男性と結婚の話も出たことがあるのですが、その……、娘よりもずっと若い女性に心変わりして破談になったこともありまして……。娘は葉子さんにその若い女性を重ねてしまったのかもしれません。家に閉じこもっていた娘から見れば、動画とやらで人々の注目を浴びてたくさんの応援をもらって、そばには篠田さんのような頼りがいある男性がいて、毎日お仕事で一緒。いつも楽しそうに函館にやってくる。わかってはいるけれど、徐々に心の平穏が保てなくなっていたのだと思います――」
安積先生には安積先生の、もっとずっと辛い過去があった。
心のバランスを崩して、プロを諦め地元に帰ってきて、なんとか一生懸命にバランスを取り戻して暮らしていただけ。
そこに平穏を揺るがす波紋を作ったのは、エゴを押し通して突き進むハコだったのだ。
秀星のエゴの凄まじさに触れて、感化された葉子が生み出したエゴ。エゴは、利己主義。自分さえよければいいと突き進むこと。その切っ先にひっかかってしまった人はもれなく傷ついていく。そういう危険も孕んでいたのだと初めて葉子は知る。葉子も先生を傷つけていたのだ。平穏に過ごして穏やかに暮らしていた先生の領域を荒らしたのだ。
そう知ったらもう。先生のことを憎めないし責められない。
それに、先生のことほんとうに好きだったから。
いまはまだ、元通りにはなれないけれど、いつかまた先生の演奏だけでも元通りになってほしい。
「わかりました。娘に伝えます。お互いに、子供が大きくなっても気苦労は絶えませんね」
父の言葉に、また安積のお母様が泣き始めてしまった。
「先日ですか。篠田さんが大きな声で歌われていた動画を娘が見ていました。久しぶりに、楽しそうに笑っていました。葉子さんが唄えと指示していたそうですね。ギターの音がいい音で合格だと言っていました。葉子さんにお伝えください――」
それを聞いて、もう……。
葉子は溢れてくる涙を拭きながら、そっと離れて二階の自室にむかった。
雪の中、安積先生のお母様がタクシーに乗り込んで帰っていくのが見えた。
でも。葉子は振り返らない。
『エゴイスト』の原稿を見直し、葉子は編集部へと送信を終える。
秀星の写真集の表紙も決まった。
あの吹雪開けの写真だった。
人々はその美しさに惹かれるだろうし、命を落とした瞬間の写真が表紙と知って衝撃も受けるだろう。
出版社の発売の宣伝が始まるのは三月に入ってから。予約が開始される。
その時にもまた、様々な声が飛び交うだろう。
心を静かにして。心の湖面を平らにして。葉子は待つ。
0
お気に入りに追加
188
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる