上 下
30 / 103
【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

10.ハコの給仕

しおりを挟む
 その日の夕方遅く、ディナータイムが始まる時に、安積先生が友人と一緒にやってきた。いつも違う人を連れてくるので、インドア派でも交友関係が広かったことを知る。

「久しぶりですね。葉子さん」
「いらっしゃいませ。矢嶋社長」

 同時にその日は、夕方になって神戸から到着した矢嶋社長もテーブルについていた。
 これはいつも来られたらすることで、父のフルコースのチェックをするための食事だった。素材の選び方、創造性センス、コストのバランスを確認していく。そしてホールのサービスもチェックされる。
 だがこの日の矢嶋社長はお客様の邪魔にならないようにひっそりと気配を殺しているが、目ではメートル・ドテルの篠田を追っていた。
 安積先生の予約で蒼がテーブルにつく時間が長いことを気にしている。
 きっと責任者である父からも聞かされているのだろう。
 矢嶋社長のテーブルにも蒼はつくが、いつも堂々としている余裕が少しなくなり、表情が硬くなることもよくあった。
 そして今夜は、葉子が社長につくことが多くなってしまう。

 ゆったりと湖畔のフレンチディナーが進んでいく。
 外は牡丹雪が静かに舞い降りてきて、社長はそれを見てご満悦だった。

「不思議だよね。牡丹雪を見ると日本酒が欲しくなるんだよ」
「お持ちいたしましょうか。ポワソンと合うと思います。北海道の地酒もおすすめです」

 葉子の声かけに、矢嶋社長が嬉しそうに微笑んでくれる。

「いいですね。そのような勧め方。よろしいと思います。では、お言葉に甘えていただてみようかな」
「かしこまりました」

 まだ選ぶ力がないので、このような時は父かソムリエを兼任しているメートル・ドテルの篠田に聞くようにしている。
 篠田が安積先生のテーブルから離れられないので、葉子は厨房で調理に集中している父のもとへ出向く。

「シェフ。矢嶋様が雪を見ながら日本酒を飲みたくなると仰るのでおすすめしました。いまから出るポワソンに合う銘柄を教えてください」

 ディナー中の厨房は、ホールのゆったりした優雅さとは反して、様々な指示が飛び交い、矢継ぎ早のチェックが行き交う戦場だ。
 そんな中、皿に盛り付けをしている父がちらりと葉子を見て呟く。

「篠田はどうした」
「接客中です」

 父がチッと舌打ちをした。どうしてそうなっているのかわかっているようだった。
 しばらく黙っていた父が、留萌増毛るもいましけにある酒造の銘柄を呟いたので、葉子も頷いてカーブへ向かう。

「葉子ちゃん」

 地下のカーブだからなのかそんな呼ばれ方、蝶ネクタイ姿の蒼が階段を降りて追いかけて来てくれた。

「矢嶋様に日本酒をおすすめしました。シェフがこれを」
「いい勧め方してくれたね」
 父がなんの銘柄を選んだのか、蒼も確認をしにきたようだった。
「安積様のテーブルは……」
「神楽君に代わってもらっている。葉子ちゃんは今日は接触しないほうがいい」

 プライベートとはいえ、ここの従業員と関わって起きていることなので、仕事だから平気な顔でいつもどおりにこなす――とはならない。これもサービスの判断で、余計な接触をしない方針が採られ、葉子はあちらのテーブルの給仕からは外されることになっていた。

「では、これを厨房に持っていて準備してもらって」
「はい。給仕長」

 飲食のための準備は厨房の仕事なので、葉子もいそいでカーブから上がる。

 準備が整い、ポワソンの皿に間に合いホッとする。
 矢嶋社長のテーブルへと、篠田とともに給仕につく。

「篠田。あちらのテーブルと、あちらのテーブル。提供時間が遅い。時間がかかるテーブルでの接客は、うまく切り上げろ。ついでに、私のテーブルへの提供も遅い。私はレストラン関係者だから後回しで良いなどとは思っていない。厨房の料理のいちばん良い時を逃すな。厨房の一皿に込めた誠意を無駄にするな」
「かしこまりました。申し訳ありません」

 いつも優しくダンディな笑顔の矢嶋社長。お店のチェックをするときは、鋭い目線を見せるが静かに観察するのが矢嶋社長の経営者としての姿だった。なのに、初めて聞いた険しい声色。初めてそんな社長に触れた葉子もひやっとする。特に蒼はいまも雇い主でもあるので、緊張を募らせ強ばった表情を一瞬だけみせた。

 それからの蒼のホールへのサービス配分指示のバランスは戻ったが、逆に安積先生が不満そうにしている。遠目に見ている葉子にもありありと伝わってくる。
 いまあのテーブルには、葉子抜きで給仕をしているので、ほか二名の若いギャルソンと蒼だけで回し、なおかつ、ほかのお客様のテーブルにも同様につかなければならない。

 矢嶋社長に呼ばれたので、葉子はそちらへ伺う。

「雪見の日本酒と北海の素材を活かしたポワソン。おいしかったよ。そして良い気持ちでいただきました。ありがとう。葉子さん」

 こんなふうに給仕を矢嶋社長が褒めてくれたのは初めてで、ここ最近の鬱屈して淀んでいた心の澱がなくなって、澄んでいくようだった。

「まだまだ未熟ですが嬉しいです。ありがとうございます」
「そうだね。自分で銘柄を選べるようになるといいね」
「勉強いたします」
「たのしみですね。お父さんシェフの料理と娘さんのドリンクセレクトの疎通が取れるようになると、またお客様にとって、メリットのあるお店となるだろうね」

 そうなりたいと葉子は思ってしまった。そして新しい目標でもあった。

「最近は、クレープフランベを頑張っているそうだね。今日もあちらのお客さまがクレープシュゼットをご予約されているなら、準備は整っているよね。私も、葉子さんに作ってもらおうかな」
「……わたくしが、ですか」
「どれぐらい出来るようになったのか、見せてください」

 いきなりのテストをされることになって葉子は焦る。
 もちろん、真剣に篠田給仕長に指導してもらってきたのだから、上達はしているのだ。でもまだ、どこかで。『どうせ私が接客でやれるようになるのはずっと先。だって篠田給仕長がいるんだもの』と高をくくっていたのだ。

 これも今回の出来事の功名か。安積先生の予約が頻繁に入るようになったので、他のお客様と被らないよう、クレープフランベのワゴン一式、予備として父がもうワンセット増やしていた。

 同じように食事を進めていた先生のテーブルでは、すでに蒼がクレープフランベの提供を始めていた。
 いつものように仲良しの女性同士が喜ぶ声が聞こえてくる。
 ほかのお客様も、蒼の優雅なフランベに魅入っている。
 そして葉子も、矢嶋社長の目の前で、初めてひとりで提供を行う。

 教えてもらったとおりに。いまできるだけのことを、怖じ気づかずに堂々と――。丸く薄いクレープはすでにパティシエ側で準備してくれワゴン上で待機している。それをフランベするのが給仕の腕の見せ所。特に気をつけるのは最初のシュガーのキャラメリゼ。
 矢嶋社長の視線が徐々に鋭く冷たくなって、葉子の手元だけに固定されている。

 フルシェットフォークで丸いクレープを折りたたみ、フランベをする。

 なんとか白い皿にクレープをのせて、季節のカットフルーツと盛り付けお届けが終わる。

「いただきます」

 初めて、お店でお客様(監督の社長だけど)に食べていただく緊張の瞬間。矢嶋社長の表情はまったく変わらないまま。

「まだまだですね。カラメリゼ。苦みがあります。フランベが活かされていません」

 わかっていたけれど。未熟さを突きつけられた。

「篠田もそうでしたよ。頑張ってください。また次回、いただきます」
「ありがとうございました」
「秀星が提供するものは、また特に一品でしたね。まさに……。フレンチとして惜しい人材をなくしたと思っています。口惜しい。写真に勝てなかった」

 あの社長がその時になって、表情を崩した。また込み上げるものがあったのか、ぐっと堪えるように、そばにあるゴブレットの水をひとくち含んだ。

「私も食べてみたかったです。桐生給仕長のクレープフランベで」

 もう叶わぬことだった。知っていれば、秀星さん教えてとねだれたかもしれない。見せてくれたかもしれない。
『いいよ。ハコちゃん。でも、もっとちゃんと給仕ができるようになったら、ハコちゃんがやるんだよ』
 ひさしぶりに、あの人が生きているような声が聞こえてきてしまった。
 それは社長も同じなのか、じっと黙ってクレープを食べている。

 最後の珈琲も終わって、本日予約のどのテーブルも終わろうとしている。

 矢嶋社長は珈琲をおかわりして、時間が過ぎるのを待とうとしている。
 そのおかわりを葉子がテーブルにお届けした時、そこに安積先生がやってきたのでぎょっとした。

 だが先生は葉子には目にくれず、あろうことか矢嶋社長に話しかける。

「そちら様もクレープフランベをご予約だったのですね」
「……はい、そうですね」
「あちらのメートル・ドテルさんにしていただいたほうが美味しく食べられたと思いますよ。こちらのテーブルでいただいてしまって、申し訳ありませんでした」

 こんな新人にしてもらうような状況にしてしまってごめんなさい――と、もうひとりのお客様に申し訳ないことをしたとわざわざ言いに来たのだ。
しおりを挟む
感想 106

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは

竹井ゴールド
ライト文芸
 日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。  その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。  青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。  その後がよろしくない。  青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。  妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。  長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。  次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。  三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。  四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。  この5人とも青夜は家族となり、  ・・・何これ? 少し想定外なんだけど。  【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】 【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】 【2023/6/5、お気に入り数2130突破】 【アルファポリスのみの投稿です】 【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】 【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】 【未完】

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 時々おまけを更新しています。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

処理中です...