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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

7.秀星が遺したもの

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「本日はご家族でのご予約、ありがとうございます」

 黒い蝶のボウタイに白いシャツ、黒いベストに黒ジャケット。正真正銘のメートル・ドテルの姿に整えた蒼が、安積先生一家を招き入れる。

 本来、高級フレンチになるグランメゾンでは、ディレクトール(総支配人)がお迎え見送り、サービス全般の監督などをする。
 父の『フレンチ十和田』は、少人数でまかなうフレンチレストランのため、メートル・ドテルの蒼がこの役割も担っていた。

 カシミアの上質な黒いセーターに、ビーズの刺繍があるボルドーのフレアスカート。よいお家柄の女性の雰囲気で溢れている安積先生のコートを、蒼がそっと脱ぐのを手伝っている。
 そのコートを渡された葉子は、玄関のクローゼットに預かり保管する。

 葉子も顔見知りのお母様とお父様も『ひさしぶりのフルコースだね』と楽しそうな優しい笑顔になっている。

 年老いた両親と良いお育ちのお嬢様のテーブルは和やかだった。

 今日の葉子はメートル・ドテルの篠田を補佐する。
 彼と一緒に白い皿を腕に乗せ、安積家のテーブルへアミューズを持って行く。

「本日のアミューズです」

 白く細長い陶器皿に、ひとくちサイズの白い陶器スプーンがみっつ並んでいる。みっつそれぞれ盛り付けがされている。その細長い皿をゲストの目の前に置いていく。
 葉子がお父様に、さらにお母様に、ちょうど蒼が安積先生の前に、長い腕と洗練された所作で置いた。

「まあ、かわいらしい。ね、お母さん」
「ほんとうね。これスモークサーモンかしら」

 母娘で楽しそうに言葉を交わされている。
 そのタイミングも蒼は図っていて、ゲストの会話と被らないよう、母娘でひといきついたところで、説明を始める。

「それぞれ『ワンスプーン』にて、ひとくちのお楽しみとなっております。右からスモークサーモンと余市産のリンゴ、カッテージチーズ和え。真ん中は、小樽のナイアガラブドウと生ハム、おなじくナイアガラのワインビネガーとブラックペッパーで味付けしております。みっつめはラフランスと函館であがりましたスルメイカでつくりました自家製塩辛、オリーブオイルとクリームチーズのせとなっております。秋のフルーツの甘みとのハーモニーをお楽しみください」

 蒼の説明も、安積先生はうっとりとした目で見上げて、説明に一生懸命に耳を傾け頷いていた。

 今日は仕事なので葉子も淡々と蒼の補佐について仕事をこなす。
 メインのローストビーフのデクパージュも、最後のクレープフランベも、蒼は持っている技量をあますことなく発揮して、凜々しく接客をこなしていた。

 その間の安積先生の熱い視線が葉子には気になっていた。
 いや『気のせいだ』と思うことにした。この日は。

 先生が満足そうお帰りになると、蒼もひさしぶりにメートル・ドテルの腕を振る舞えて嬉しそうだった。

「あー、緊張しちゃった。ひっっさしぶりの、クレープシュゼット、フランベ。今日もビールがおいしそう~」

 まただ。あんなに大人の先生が潤んだ瞳で蒼をずっと見つめていたのに、彼はいつものダラシーノになって、今夜も閉店後に、首から取り外したボウタイをくるくる回している。

「葉子ちゃんの先生をもてなせてよかったよ~。お父さんとお母さんも楽しそうだったしね!」
「そうですね。蒼さん、ありがとうございました」

 きっと。葉子がお世話になっているからという兄貴心ではりきってくれた――と、思いたい。

「せっかくだから。葉子ちゃんにも作ってあげるよ。講義も兼ねて」
「え?」
「だから。クレープフランベ」

 ちょうど道具も出ているし、パティシエさんの手元にも材料が残っているから、いつもの賄いおやつだと蒼が笑う。

 父の小さなフレンチレストランでは予約がないと実施しない『クレープフランベ』。道具を並べているワゴンのところで、蒼が再度、銀のフライパンに、シュガーシェイカーを振り砂糖をまんべんなくまぶし、キャラメル状態にしていく。

「焦がさないように慎重に。やりすぎると焦げて苦みが出てくる。これぐらいになったら、レモン汁を絞り入れる。次はバター。そうするとキャラメルの進行がここで止まる」

 オレンジジュースとグランマルニエを追加していく。
 テキパキと、焦がすことなく、美しく凜々しい指先で、フライパンのジュースの中で、丸くひろげたクレープをキュイエールスプーンフルシェットフォークを使って、綺麗に三角に織り込んでいく。しっかりジュースとバターを染みこませ、三つにならべた三角クレープを鍋端に寄せ、フライパンの尖端を炎に当てて熱する。やわからく青く炎が揺らぐそこにコニャックを流し入れた。一瞬でフライパンに炎が立ちのぼる。

「ここで炎があるうちにシュガーを入れる――」

 仕上げもあっという間だった。
 綺麗に並べてくれたクレープの一皿を、蒼は葉子に差し出す。

「ダラシーノ渾身のクレープ・シュゼットだよん」

 もういつもの蒼くんになっていたので、葉子も教え子からハコちゃんに戻って笑ってしまう。

「いただきます。師匠」
「うむ。滅多にないから、よく感じて味わいたまえ」

 またふざけた応答をするので、葉子は笑い声をたててしまった。

「いただきます」

 芳醇な香りがふわっと口の中に広がり、しっとりやわらかいクレープ生地からもバターにジュースがじわっと染み出てくる。

「わっ。こんなクレープ初めて!」
「だろ。シンプルで飾り気がないけれど、手間と技の集結でもあるんだ」

 得意げに話していた蒼が、そこでふっと表情を曇らせた。

「ほんとうは……。先輩も教えようと思っていたはずだよ。生きていたら、今日、ここで教えていたのは俺ではなくて、秀星さんだったと思う」

 葉子はクレープを頬張り、もぐもぐと動かしていた口を止めてしまった。
 そして一緒にうつむく。あの時の葉子では、まだデクパージュもクレープフランベも教えるに至らぬレベルだったのだろう。秀星も、この店でデクパージュもクレープフランベもやっていたことがない。
 父と話し合っていたのかもしれない。回転を崩すからやめようと。
 未熟な葉子と、アルバイト程度のギャルソンしかいない店では、すべてのカバーをしていたのはメートル・ドテルの秀星だけ。

 いまなら。今夜のように、秀星さんは隣に葉子を補佐に置いてくれたのかな? 蒼とおなじように葉子は眼差しを伏せてしまった。

「葉子ちゃんも少しずつ、練習してみようか」
「はい」

 給仕でやれることは習得しておきたい。メートル・ドテルなんて呼ばれなくても、このレストランを葉子も守っていきたいのだ。
 それも秀星が遺してくれたことだった。葉子に生きる術を、そして、父のレストランを支えてくれたことを引き継いでいく。

 ワゴンの食器や道具を片づけるのを手伝いながら、葉子はまた仕事の男の顔に戻っている蒼をそっと見つめていた。

 秀星はこの人まで葉子に遺してくれた。
 途切れたなにかを、秀星の思いを、気持ちをよく知っているこの男を。
 秀星が頼んだわけでも託したわけでもないのに、この人は大沼の父と葉子のもとに駆けつけてくれた。心から一緒に頑張ろうと来てくれた。
 秀星が止めてしまった教育も、蒼は引き継いで、先輩の続きを担う使命を負ってくれたのだ。




 それからしばらくすると、安積先生は今度は友人と一緒にランチに来てくれた。それだけではなく、ディナーにもまたもや篠田のデクパージュとクレープフランベの予約を入れて、一ヶ月のうちに六回も来てくれたのだ。

 その時になって父が気がついた。

「蒼君、ちょっといいかな。安積様のことで――」

 父がちらっと葉子を見た。でもすぐに視線を外して、給仕長室へと男二人で籠もってしまった。ドアは閉められて、葉子には様子が窺えなかった。

 葉子も確信をした。安積先生は……、蒼を気に入ってしまったのだと。
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