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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

3.カメラマン、やります!

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 ハコの日課はジョギングをして、発声練習。そして、秀星撮影ポイントで駒ヶ岳と大沼の景色を撮りながら、ライブ配信をすること(冬季は屋内)。ずっと変わらない。

「おはようございます。爽やかな新緑の季節になってきました。北国の桜も終わり、やっと風が柔らかくなりました。今日はSCANDAL『会いたい』です」

 アコースティックギターを構え伴奏から。
 ギターは専門学校時代から、それなりにやってきたが本格的にレッスンを受けたのはここ一年ほど。だいぶ慣れてきた。
 函館の元プロだったという四十代の女性が個人で開いている教室に、予約をして通っている。

 今日も、唄い始めた葉子の背後には『ダラシーノ』が見に来ている。
 たまに葉子の撮影に気がついてしまった散策中の人々に、『すみません。動画の撮影中なんです』と対応してくれるのも助かっていた。『やっぱり、ハコちゃんでしょ』と聞かれても『違いまーす』とか平気でかわしているのは、さすが給仕長なのかもしれない……。

 いつのまにか彼に助けられている。
 だから葉子は安心して、唄っている。

 動画配信を始めて二年――。
 いろいろあった。葉子は最近、ふといままでのがむしゃらだった活動を振りかえるようになった。
 必死だった。とにかく唄を続けよう。とにかく唄おう。
 秀星さんがよく言っていた『エゴを押し通して続けている』ということを、ハコもやってみて、そこから彼を知りたかった。
 あんなに穏やかだった男性の凄まじい執念を感じた葉子は、素通りすることが出来なかった。
 やっぱりあの人そのものが『写真』だった。
『人のエゴからつかみ取った精神の塊に惹かれる人もいるんだ』
 葉子はまさに、彼が言っていたその塊に魅入ってしまったひとりだ。
 彼が生きていれば、それを伝えられたけれど。きっと……、彼は、もう……帰るつもりなど……

 穏やかな湖面だったのに、一陣の風が湖畔に吹き付けてきた。

「あ、ハコちゃん――」

 考え事をしながら唄っていたせいか、葉子の目の前にあったカメラスタンドが倒れるのに気がつくのが遅れた。
 レンズが真上を向き、ギターを構えて唄っている葉子へと向けられている。
 顔出しをしたのは一度だけ。秀星の一周忌、命日の日に、写真配信の活動を開始する経緯いきさつを語ったあの日。その日のうちに顔出し映像は削除し、音声だけのお知らせへと編集しなおした。
 まだ名が知れる前で、その動画が拡散されることは免れた。
 でも、知っている人は知ってる。そしてハコの顔が、いま……!

 どくりと心臓が大きくうごめいて、声が止まる。
 でも葉子の足下に、さっと来たのは篠田だった。
 すぐにカメラのレンズを余所へと向け、彼がそのカメラをスタンドごと手にもった。

『続けて』

 仕事中の、給仕長の声で言われた。目も篠田給仕長の時の、葉子に指示を出すときの目。
 葉子も頷いて、止まった手を動かし、止めてしまった音から拾い直し唄い始める。

 篠田はいつもの位置にカメラを固定することはせず、そのまま葉子のまわりで、ハコが映らないよう、音声は拾える距離で『固定』ではない『パノラマ』のようにし動かして、大沼の風景へと向けている。

*え、また男の人の声がしたよね!
*一瞬だけハコちゃんの顔が見えちゃったよ。かわいい!!
*え、え。風景が動いてる!?
*誰が? ハコちゃん、ギター弾いているもんね。いつも音声はいっちゃってる男の人??
*カレシ? 彼がいるのハコちゃん!!?

 撮影が終わってからコメント欄を確認してひやりとしてしまった。

「ごめんね。ハコちゃん。また俺、邪魔しちゃったね」

 新緑がさざめく爽やかな空気の散策道を、今日も篠田と一緒に歩いて帰る途中、彼が申し訳ない顔になっている。
 葉子もそっと首を振って否定する。

「いいえ。助かりました。ちょっと気が散っていたかもしれませんから」
「そういえば。今日は随分力んで唄っているなと思っていたんだ」

 葉子はドキリとする。『会いたい、会いたい』と続く唄のフレーズは、まさにいまの葉子の心境だったものだから、唄いながら秀星のことを思って力が入っていたのは確かなことだった。

「秀星さんのこと、考えていた? そういう唄でもあるよねって俺も聞き入っていた」

 見透かされている。でも、そこで彼もあの憂いある眼差しになる。
 いつも明るく朗らかなダラシーノが、篠田蒼という思慮深い大人になる時の目――。
 ハコの唄を聞き入って、トリップするように思いを馳せるのはおなじなのかもしれない。

 春の森林はまだしっとりとした湿り気がはらんで、色濃く緑と土の匂いが漂っている。そんな中、ふたりは散策道を並んで一緒に歩き続ける。

「給仕長は、どうしてそんなに秀星さんが忘れられないのですか」
「頼っていたからだよ。越えてやると決めていた目標の男だったんだ。粋がってはいたけどさ、メートル・ドテルを任された後のプレッシャーたるものハンパなかったからね。そこを先輩が北国から支えてくれた。やっと自分の判断でできるようになったかな俺――と思った途端に『もう君も大丈夫だね』みたいにさ、いなくなるってさ……、だったら俺、成長なんかしたくなかったなあ……なんて。心配させていたほうが、優しい先輩は向こうに行こうと思わなかったかもってね……」

 また彼のほうから、グスングスンと涙ぐむ。父と一緒だった。
 先に泣かれると、後の者はなんだか泣けなくなってしまうことも多々。

「そこでさ。ひとりで、あの場所で、一年もハコちゃんが唄っていた。それを知った後も、十和田シェフも淡々と料理を続けて、葉子ちゃんが頑張ってセルビーズを続けている。それにどれだけ俺も、ぽっかり空いた穴を埋めてもらって元気をもらっていたことか……。大沼に来たのも、一緒に頑張りたかったからだよ。俺には必要なことだったのよ」

 彼が神戸にいる時から、そんなにこちらを気に掛けてくれたとは思わず、今度は葉子が泣きそうになる。
 彼にも埋めようもない苦しさが、この二年の間にあった。葉子と同じように。

「あ~、やばいな。ハコちゃんにカレシ疑惑が出ちゃったよ。ほんっと、俺って落ち着きがないっていうか。秀星さんにもよく注意されたんだよな~。元気で明るいのは君の良いところだけれど、ブレーキ外れると調子のりすぎ、失敗の素ってさ」

 そうなんだ――と、葉子はおもわずクスリと笑ってしまった。
 それを篠田が不満そうに見下ろしている。

「あ、申し訳ありません。給仕長」
「本当のことだけど。葉子ちゃんには尊敬の眼差しを、いつも向けていてほしいです」

 何故かまた笑いが込み上げてきて困った。
 常に尊敬の眼差しなんて無理。ボウタイを振り回して毎日『今日もビールがおいしそう~♬』と唄っているのが頭に浮かんできて、どうしても、かっこいい給仕長として常には見られない。

「ちょっと、葉子ちゃん。なに笑ってるんだよっ。俺の、なにを、いつのことを思い出して笑ってるんだよっ」

――『@(*`Д´*)💢 いままでのいいね♥没収する』

 いつかの男同士のやりとりまで思い出してしまい、ついに葉子は笑い声を立てていた。

 そんな葉子を、彼が優しい微笑みで黙って見つめていた。
 葉子もハッとする。そんなふうに静かに黙って見つめられていると、篠田は本当に大人の男だった。秀星とは違う空気を持つ、大人の男。

 葉子も秀星の話をしているのに、いつの間にか笑っていたことに気がつく。

「ハコちゃんとして、適当に流しておいて。俺のこと、毎日見に来る邪魔なヤツと言ってくれていいから」

 スマートフォンでチャンネルに寄せられたコメントを見て、篠田がまたため息をついていた。

「どうして、毎日、一緒に来てくれるのですか」

 秀星が息絶えた場所として、篠田は大沼に来た翌日にあのポイントに赴き、花束を手向け手を合わせにきていた。そこでも彼は、とめどもなく涙を流し、しばらく泣いていた。その背を、案内をした父と一緒にじっと見守っていたことを思い出す。
 そんな曰く付きの場所に、篠田はくっついてくる。

「だって。ハコちゃんひとりじゃ、危ないでしょ」
「え? そうですか」
「ほーら、自覚がない。最初の一年は無名だったかもしれないけれど、この一年、二年目のハコちゃんは無名じゃなくなったんだよ。さっき観光客がふらっと迷い込んできたけれど、もしかしてハコちゃんとか気がついていたからな。顔出しはしていなくても、どこにいるかという条件が絞れる状況だからな。お父さんも心配していたよ。こんなことになるとは思わなかったとハラハラしている」

 葉子もここ数ヶ月で気にしていることだった。
 冬の間は室内で録画しているので、人目を気にしなくてよかったが、最初に始めた無名のころとは、だいぶ状況が変わってきていた。

 そして篠田に、そんなふうに見守られていただなんて――。気がつかなかった。父の心配もだ。

「それもあるけれど。俺もハコちゃんとおなじ。お参りみたいなもんだよ」

 お参り――。つまり秀星を、彼も毎朝、弔いにきているのだ。
 葉子と同じ……。

「あの、給仕長が良ければ、なのですけれど。カメラマンをお願いしてもいいですか。さきほどの、唄に合わせて風景が動いて見えるのが良かったというコメントがいっぱい来ていたようなので」

 篠田が非常に驚いた顔をして、散策道のど真ん中に立ち止まった。

「え!? ハコちゃんチャンネルのカメラマン! いいの、ええっマジで!? うわーーー、ほんとに!? やるやる、やらせてくださいませませ!!」

 あ、やっぱりうるさいかも。葉子は密かに眉をひそめる。

「あ、葉子ちゃん。明日の休み、函館レッスンでしょ。俺もジムに行くから送っていくよ」
「毎回、申し訳ないです」
「いつになったら気にしなくなるの? どうしたら葉子ちゃんは、気楽になってくれるのかな。俺は葉子ちゃんと一緒にいる時間が好きだし、知らない音楽を葉子ちゃんが持ち込んできて一緒に聴きながら函館に行くのも、休暇の楽しみのうちのひとつなんだよ」

 あれからギターレッスンに行く度に篠田が迎えに来てくれるようになってしまった。本当は一人で音楽を聴きながら鉄道で移動するのも楽しみだった葉子なのだが……。きっと葉子もおなじなのだ。篠田といることで、秀星を感じている。ひとりよりも篠田といると秀星が柔らかく蘇る。ひとり寂しく突き刺すような思慕ではなくなる。

「またどこか、オススメのカフェとかレストラン教えて。あ、そろそろ寿司も食べたいな。おじさんがご馳走するから!」
「おじさんも、もうやめてくださいって」
「そう? そう、そう? じゃーあ、お兄さんがおごってあげるから」

 本当はこんな明るい彼に、葉子も救われるようになっているんだ。いつのまにか……。秀星のことを話せるのも楽しい。哀しい思いが薄れていく。

 篠田との日々に慣れてきたころ。『ハコ』にある連絡が届く。
『北星秀さんの写真集を出版しませんか』――と。
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