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【3】名もなき朝のアカウント《篠田の日課、いいね》

5.心は北国

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 そんなアルパチさん。社長さんとしてはやり手であって、どうもあの大沼のレストランも非常に気に入ってしまったようだった。
 
「では。大沼に行ってくれる」

 あれから二ヶ月に一度、様子見だと言って大沼のレストランへと訪ねるようになっていた。

 若いスタッフに厨房のシェフたちも噂している。
 自分の系列に引き入れようとしているんじゃないかと――。

 篠田はそうなるなら、そのほうがいいと思っている。
 大沼の十和田シェフがオーナではあるが、妻と二人三脚とはいえ、料理をしながら経営と両立するのは大変だろう。函館が近いとはいえ観光に頼るしかないローカル地域、ギリギリの経営のはずだ。実際に秀星先輩の大沼での収入は、この神戸のレストランの半分だった。

 矢嶋社長もあのレストランを潰したくないのだろう。
 十和田シェフを説得するために通っているのだ。きっと。
 ……もっといえば。葉子のことも気にしているはずだ。
 真面目な話、ハコとしてではなく。秀星先輩が教育途中で手放してしまった『葉子』のセルヴーズとしてのその後も案じているに違いない。

 それは篠田も同じだ。
 ハコちゃんチャンネルも応援はしたい。でもそれ以上に、おなじ『フレンチの給仕』というグラウンドにいる先輩として、秀星先輩が最後に遺した教え子として……。
 だが、十和田シェフもやっとの思いで独立をしたはず。まずは自分の力を試していきたい、自由にやりたいという想いがあるのだろう。
 素直に首を縦に振らないから、矢嶋社長が足繁く通っている。
 矢嶋社長も、大沼の虜になったひとりになっている。


 そのうちに篠田も、その大沼に訪れたい衝動がよく起きるようになった。
 先輩が死んでもいいほどに愛した湖畔と、想いを注いでいたフレンチレストラン。そして最後の愛弟子『ハコ』。
 上司だった男が遺したものを、あんなに必死になって引き継ごうとしている。

 それは、やはり『愛』だったのではないのか?
 安易な恋の匂いはどこにもなく、急速にできあがる熱愛でもない。
 なんともいえない、湖のように濃く深く、そして山岳のように崇高で気高い。その師弟愛に、誰もが唄と写真を通して惹かれてしまったのだ。

 篠田の心の奥でじくじく疼いている。

 俺もそこに行きたい。俺が引き継ぎたい。俺が……。先輩の……。

 しかし、あの先輩に託されたメートル・ドテルを捨てるわけにいかなかった。
 こんなに狂おしく、落ち込む日がやってくるだなんて、篠田自身にも予測できなかったことだった。




今年も湖面に色鮮やかな紅葉が映っています。
今日の唄は、倉木麻衣『風のららら』


 季節が移りゆく中も、ハコの唄と秀星先輩の写真は、人々の日常を彩る。この頃になると、ハコはアコースティックギターで伴奏をしながら歌うようになっていた。

 大沼のレストランで『給仕長』の応募を出していることに気がついた篠田は、ますます心を揺らしていた。
 はやく決まれば諦めがつくのに……。まったく決まらない。
 ハコちゃんとお父さんシェフで、いまもギリギリで接客をしている。
 若いギャルソンもいるようだが、アルバイトレベルで、出入りが激しいと社長から聞かされる。

 せっかく秀星さんが遺したものが。
 社長が認めたレストランが。
 このままでいいのか?
 誰もやる者がいないのか? だったら……。



 そんな中、矢嶋社長が本気のビジネスで動き始めていたことを、篠田は知らされる。

「大沼のレストランで給仕長の募集をずっと出しているんだ。なかなか見つからないらしくてね。こちらから、メートル・ドテルになってくれそうな男をスカウトすることにしたんだ」

 そう報告され、篠田は絶句する。
 そんなの自分もずっと前に募集に気がついて、ずっと気にしていた。
 いちギャルソンとして迷っているうちに、このビジネスマンの男がさっっと動いていたことにショックを受ける。

「そのようなキャリアの給仕長を見つけられたのですか」
「うん。給与は私の系列から支払うから、北海道の大沼のレストランで、給仕長として数年、あのレストランにいる若いギャルソンに、セルヴーズの葉子さんを育て上げて欲しいという契約で交渉している」

 しかもあのレストランのために、篠田と同じ給仕長レベルの者を探し当てていた。

「そのギャルソンは承諾しているのですか」
「うーん、いきなり北国へ移転してもらうことになるからな。考えさせてくれと言っている。そのかわり神戸に帰ってきたら、それなりのポジションを与える約束にしている」
「……十和田シェフはなんと……」
「念願の独立をされたんだ。もう少し自分の力でやりたいそうだ。だったら、若い者の教育をする協力をさせてくれとお願いしたんだ。それは十和田シェフも気にしていてね。地方ではなかなかレベルある給仕が育たないからそこをお願いできるならと承諾してくれた。それで提携という契約を結ぶことにしたよ」

 十和田シェフが完全自営ではない決断をしたと聞かされ、篠田は驚く。
 そうなればいいと思っていたのにだった。
 だが十和田シェフにも思うところがあったようだった。

「たぶん……、葉子さんのその後を考えたのだと思う。夢見た歌手ではなく、父親とレストランをやっていくと決意した娘に、本格的な教育をしてくれるならという親心もあって折れてくれたんだと思う」
「そうでしたか……。いや、僕もそうであればいいと密かに思ってはいましたが」

 十和田シェフも、秀星が娘に引き継いだことを無駄にしたくなかったのだろうとも思えた。

「まあ、フレンチレストランを経営する者のひとりとして、フレンチを継承してくれる若者を育てるのも使命だと思うからね。それに、あのような地方を楽しませてくれるフレンチレストランのビジネスにも興味が出てきた。しばらく北海道を開拓してみるよ」

 この社長ならほんとうにやる。篠田はそう思った。
 そして、もう……我慢できなかった。

「あの、……その……、」

 せっかく。このレストランで念願のメートル・ドテルになれたのに。
 先輩は辞めていく時、きちんと引き継ぎができる形に整えてから出て行ったのに。篠田のいまの状態だと、ただの感情だけで辞めることになってしまう。

 それでも、言ってみよう。
 もう心に嘘をついて、ここで真摯には働けないと篠田は観念する。

「その、大沼の給仕長――。自分がやってみたいです」

 デスクに座っている矢嶋社長が、そこからじっとお辞儀をしている篠田を見つめているのがわかる。
 無言の間が長かった。やがて、ため息が聞こえてくる。

「うん。わかっていた。ここ一年、秀星のその後に、大沼のレストラン、そして葉子さん……いや、ハコちゃんを誰よりも見守ってきたもんな。私と篠田が。だからだよ。だから、篠田のあとを引き受けることもできそうなメートル・ドテルをスカウトしてきたんだ」

 既に揺れる本心を見抜かれていたかと、それでも驚き、篠田は顔を上げる。

「では……、僕が行っても……」
「たぶん彼は神戸で給仕をするほうが喜んで、うちに来てくれると思う。ただし。秀星がせっかく篠田にと譲ってくれたそのポジションは捨てると思って欲しい。大沼の教育が終わったから、では、入れ替わってくれた新しいメートル・ドテルに、辞めてくれ、篠田に返してくれとはならない。つまり帰ってきてもメートル・ドテルには戻れない覚悟でいけと言っている」

 そこは厳しい判断を迫られた――。

「篠田、秀星からメートル・ドテルを引き継いで五年か。よくやってくれたよ。秀星は四年だった。キャリアはある。篠田も思うようになったんだよな。ここから先、この地位に甘んじているだけでは――だろ」

 それもあったのだろう。篠田はくちびるを噛みしめる。
 俺はまだ、あの先輩の背を追っていたのか。メートル・ドテルから『先の人生』を見定めることすら、あの人のようになろうと。
 そういえば、先輩が言っていたと思い出す。

『写真は僕のエゴなんだ。わがまま。いちばんのわがまま』

 俺にはこれだったかと篠田は思い知る。

「彼女を立派なセルヴーズに育てあげます」

 給仕の仕事を若い者に残す。
 篠田の新しい『エゴ』だった。

「わかった。紹介状を書こう。うちの系列社員というのは変わらないが、いちおう、十和田シェフと直接の面接をしてもらう。秀星と息の合った生活をしてきた人だ。給仕長として篠田を選ぶかどうかは、シェフに委ねる約束だからな。履歴書を書いて行ってこい」

「はい……。長い間……、お世話になりました」
「秀星がやりのこしたことを頼む。あのレストランのことも。篠田ほど、気にかけてくれるギャルソンはいないと思って行かせる」
「はい。お任せください」

 
 篠田 アオイ 四十を目の前にして、北国へ移住する。



 

  その日は、うっすらと雪が積もったばかりだった。
 まさかの、移住してすぐの初めての季節が雪! おののきながら、篠田は、JRの大沼公園駅で特急を降り、湖畔を歩き始める。

 白樺の木立のなかに、その店があった。
 景観は抜群。日常のお手軽なランチと、本格的ディナー。そして、景色をうりにしたレストランウェディングで賄っている個人経営の店。

 シェフと約束の時間に間に合い、ほっとしながら篠田は店の裏口、従業員の玄関だというそこでインターホンを押す。

『はい』

 うわ、あの声だ。あの声!
 おもわず心が躍った。マジ生声! 好い声!
 いけないおじさんになっていることをわかっても、篠田はもう笑みが堪えきれない。

 そして思った。落ち着いたトーンの澄んだ声。先輩に似ている?

「篠田と申します。面接を申し込んでいた者です」
『お待ちくださいませ』

 この年齢になって、こんなドキドキするなんてなあ。四十のおじさんがにこにこと待ち構えているだなんて、彼女は思わないことだろう。

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