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【2】名もなき朝の写真《北星秀、最期の撮影》
5.僕は帰らない
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殴りつける激しい雪の中、秀星はいつものポイントで登山用のビバークテント内で時間を凌ぐが、そのテントも吹き飛ばされそうだった。予報で知らされている夜明けまであと五十分。その間、秀星はずっと考えている。
エゴだな。ほんとうにエゴだ。
ハコにこれはエゴだと語ったことを思い返している。
僕は、エゴに取り憑かれた引き戻せない男になっている。
もう家族がいないからこそ、この中毒に身を投じることが出来る。
かろうじて止めてくれていたのは、『仕事』と、兄貴のように慕ってくれた『十和田シェフ』と、穏やかに生きていきたいと振り返らせてくれた『ハコ』。あ、彼も……、ずっと僕のことを、秀星を忘れずに思い返してくれた『篠田』だ。
彼等が家族同様の『大切な人』になっていた。
だから、この行為を辞める決意をした。
なのにここにいる。
もう遅いのだと気がついた。
やっぱり僕は取り憑かれている。
秀星は自覚してしまう。
ガクガクと震えながら、もう一度思い返す。いまならここで引き返して、アパートで暖かい風呂に入れば、優しい日々が待っていて、生きていける。
夜明けまであと三十分――。
秀星は震えながら、テントから出て、三脚を置きカメラをセットする。
目の前は囂々と吹き荒れる雪で、いつもの湖面も駒ヶ岳も見えないが、そこに佇みファインダーを覗いた。
「写真家失格だな。バカな行為だと人は笑うだろう」
シャッターを押す。真っ白な吹雪の写真なんて、なにが面白いんだ。
「ごめん、ハコ。僕は……やっぱり、そこには帰れない」
夜明けまで二十分――。
ただ静かに降り積もる雪の夜明けにだって、同じ写真は撮れるだろう。
そう思ったこともある。でも違うのだ。この激しい吹き荒れる吹雪が開けた、あの瞬間がほしい。もし自分が写真家を名乗っていいのなら、あの瞬間を残したいのだ。
あの瞬間に立ち合った時から、秀星の行く末は決まっていた。
でも。ありがとう。少しでも優しく生きていきたいと思える日々があったことを、しあわせに思う。
最後にいろいろな形の『愛』に出会えたと思う。
たったひとり、写真だけが生きている瞬間を感じるだけの人生だった。
なのに、みっつの『愛』が秀星に寄り添っていた。
それでもなお、男はその『愛』をかなぐり捨て、エゴに向かう。
夜明けまで十分――。
もう身体がよくわからないほどに冷え切っていた。
全身が震えているのも、寒いという感覚もわからなくなっている。
夜明けまで……。五分、シャッターを押し続ける。
夜明けまで……、これで駄目だったら、この身体をなんとか引きずってカメラを捨てて帰ろう。
夜明けだ――。
急に風が緩む、雪が静かに降り始める。
僕が望んだ、あの夜明けだ。
また出会えた。これ以上のものはない。
愛以上の僕のエゴがそこにある。見ずに終わると思ったのにそこにある。
凍えた指先で、シャッターを押す。
エゴが引き寄せた美しい色に包まれ、秀星はその色をずっと瞳に映して、もう一度シャッターを押す。
至福。
もうここから動きたくない。この色が薄れるまでずっとシャッターを押す。押す、押す、色が消えるまで押す、押す……。日が昇るまでずっと押す。
欲しいものはもうない。
ハコのあの唄が聞こえる。
ハコ、唄うんだ。やめたらいけない。
君の、しあわせを、願っているよ。
「いらっしゃいませ。オーナーがお待ちです」
篠田という男が、父が出していた『給仕長募集』の求人を見て面接を申し込んできた。
葉子はギャルソン制服で、約束の時間にやってきたその男を、開店前の店へと案内する。
自信に満ち足りた眼を持った、キリッとした佇まいの大人の男だった。
その男は葉子をひと目みて、きらっとした笑顔を浮かべて、大胆に近づいてきた。
「ハコちゃんでしょ」
唄う動画配信と、秀星の写真集を日々アップしているので『ハコ』という名はかなり広まっていた。雑誌取材も増えた。受けるのはただ秀星の写真をたくさんの人に見て欲しいからだった。そのせいで、そう呼ばれることには驚かない。秀星が優秀なメートル・ドテルであったこともインタビューで伝えてきたが、上司と共に『ハコ』が働いている店はどこにあるのかは極力知られないようにしてきた。だから、仕事をしているここで指摘され、何故と警戒した。
なのにその男がさらに、にかっとした屈託のない笑みを見せる。
スマートフォンを取り出して、SNSのアプリを開いた彼が、とあるアカウントを見せてくれる。
「俺、ダラシーノです」
ダラシーノ。その名を聞いて、葉子はさらに驚愕する!
見覚えがあるそのアイコンのアカウント、彼がフォローしているのはふたつだけ。
秀星の写真アカウントと、ハコの動画配信と秀星の写真アップをするためのアカウントだった。
「蟹を送ってくれなくて、怒っていた……あの……、神戸の……」
「そう。俺だけが秀星さんの写真をいいねしている唯一のファンだったのに。すごいね。毎日何千、時に何万のいいねになっちゃって」
「え、え……どうして……」
そんなときになって、篠田が哀しそうに眼差しを伏せた。
「忘れられなくてね。あの人のことが。ここで生きていたあの人を知りたくて。あの人が話していた『ハコちゃん』にも会いたくてね」
「秀星さん……と、私のこと……を? 秀星さんが私のことを話していたのですか?」
「大事に育てたいと言っていた。途中だろ。俺が仕上げてやるよ」
なにこの人。なにこの自信満々で、図々しそうなの。
葉子の第一印象はそれで、穏やかでクールな上司だった秀星が史上最高の師匠だったので、酷い拒絶反応が起きた。
なのに父が喜んで篠田を『給仕長』として雇ってしまった。
彼も一流だった。秀星の後を引き継いだメートル・ドテルだけあった。
秀星が去ったあと、また葉子を真っ直ぐに見つめてくれる男が現れる。
仕事も、プライベートも。
いまも葉子は、ハンディカメラとライブ配信機材、そして去年からアコースティックギターも担いで、大沼の湖畔へ向かう。
大沼には、小島がたくさん浮かんでいる。湖の中にぽっかりとある小島にも木々が生い茂り、朝の風に揺れている。
小島と小島を橋で繋いだ散策道があるのも、大沼国定公園ならでは。今日もその橋を渡りながら、いつものポイントに到着する。
秀星がいつも『おはよう』と声をかけてくれたそこに、今朝もハンディカメラをセットする。でもいまは、葉子の仕事ではなくなった。
「ハコです。昨日も『北星秀』の写真にたくさんのイイネをありがとうございました。もうすぐ、北星さんの写真集の発売です。今日の唄は、リクエストから――」
「ハコちゃん! 今日の湖へのアングル、こっちでいいかな! え、今日はその曲? 俺も好きだわ~」
名が知れてしまったので撮影は場所も時間も変えることになったが、大沼の景色だけは、ほぼ毎日配信している。そこに篠田がついてくるようになり、彼がカメラマンになってしまった。
*またダラシーノの声が聞こえた!
*ダラシーノうるさい!!
*でも、ダラシーノ、いろいろ撮影してくれるから面白い
*ダラシーノ、なんなの?? ハコちゃんの唄と北星さんの写真だけで静かで優しい空気だったのに
彼の登場でチャンネルの空気感を壊すかと思ったが、そこは大事にしてくれ、でも、葉子や秀星が出来なかった『賑わう』手伝いを懸命にしてくれるようになった。
それがわかったので、葉子も初めて伝えてみる。
「ダラシーノさんは、北星秀さんのお仕事での後輩です。優秀な後輩だと言っていました。今度は……、この方が、私の上司になっています。つまり、その、メートル・ドテル。北星さんとおなじ給仕長です」
「はーい。ハコちゃんは本業でも優秀ですよ。北星が育てている途中だったので、俺がビシバシ仕上げでやっています!」
*ダラシーノ、北星さんの後輩!? なんでそこにいるの!
*北星さんが認めているなら優秀なメートル・ドテルってことですよね!
*なんでハコちゃんの手伝いを始めたの
*ハコちゃん逃げて!!
いえ、もう逃げられそうにない。
葉子はそっと、篠田に笑いかけていた。
秀星さん。ハコもエゴで唄うよ。
大沼の湖畔から、湖面を抜け、駒ヶ岳を越えて、天へ届け。
⇒ 次章 後輩の篠田視点 神戸のレストランで先輩の死を知ってから……
エゴだな。ほんとうにエゴだ。
ハコにこれはエゴだと語ったことを思い返している。
僕は、エゴに取り憑かれた引き戻せない男になっている。
もう家族がいないからこそ、この中毒に身を投じることが出来る。
かろうじて止めてくれていたのは、『仕事』と、兄貴のように慕ってくれた『十和田シェフ』と、穏やかに生きていきたいと振り返らせてくれた『ハコ』。あ、彼も……、ずっと僕のことを、秀星を忘れずに思い返してくれた『篠田』だ。
彼等が家族同様の『大切な人』になっていた。
だから、この行為を辞める決意をした。
なのにここにいる。
もう遅いのだと気がついた。
やっぱり僕は取り憑かれている。
秀星は自覚してしまう。
ガクガクと震えながら、もう一度思い返す。いまならここで引き返して、アパートで暖かい風呂に入れば、優しい日々が待っていて、生きていける。
夜明けまであと三十分――。
秀星は震えながら、テントから出て、三脚を置きカメラをセットする。
目の前は囂々と吹き荒れる雪で、いつもの湖面も駒ヶ岳も見えないが、そこに佇みファインダーを覗いた。
「写真家失格だな。バカな行為だと人は笑うだろう」
シャッターを押す。真っ白な吹雪の写真なんて、なにが面白いんだ。
「ごめん、ハコ。僕は……やっぱり、そこには帰れない」
夜明けまで二十分――。
ただ静かに降り積もる雪の夜明けにだって、同じ写真は撮れるだろう。
そう思ったこともある。でも違うのだ。この激しい吹き荒れる吹雪が開けた、あの瞬間がほしい。もし自分が写真家を名乗っていいのなら、あの瞬間を残したいのだ。
あの瞬間に立ち合った時から、秀星の行く末は決まっていた。
でも。ありがとう。少しでも優しく生きていきたいと思える日々があったことを、しあわせに思う。
最後にいろいろな形の『愛』に出会えたと思う。
たったひとり、写真だけが生きている瞬間を感じるだけの人生だった。
なのに、みっつの『愛』が秀星に寄り添っていた。
それでもなお、男はその『愛』をかなぐり捨て、エゴに向かう。
夜明けまで十分――。
もう身体がよくわからないほどに冷え切っていた。
全身が震えているのも、寒いという感覚もわからなくなっている。
夜明けまで……。五分、シャッターを押し続ける。
夜明けまで……、これで駄目だったら、この身体をなんとか引きずってカメラを捨てて帰ろう。
夜明けだ――。
急に風が緩む、雪が静かに降り始める。
僕が望んだ、あの夜明けだ。
また出会えた。これ以上のものはない。
愛以上の僕のエゴがそこにある。見ずに終わると思ったのにそこにある。
凍えた指先で、シャッターを押す。
エゴが引き寄せた美しい色に包まれ、秀星はその色をずっと瞳に映して、もう一度シャッターを押す。
至福。
もうここから動きたくない。この色が薄れるまでずっとシャッターを押す。押す、押す、色が消えるまで押す、押す……。日が昇るまでずっと押す。
欲しいものはもうない。
ハコのあの唄が聞こえる。
ハコ、唄うんだ。やめたらいけない。
君の、しあわせを、願っているよ。
「いらっしゃいませ。オーナーがお待ちです」
篠田という男が、父が出していた『給仕長募集』の求人を見て面接を申し込んできた。
葉子はギャルソン制服で、約束の時間にやってきたその男を、開店前の店へと案内する。
自信に満ち足りた眼を持った、キリッとした佇まいの大人の男だった。
その男は葉子をひと目みて、きらっとした笑顔を浮かべて、大胆に近づいてきた。
「ハコちゃんでしょ」
唄う動画配信と、秀星の写真集を日々アップしているので『ハコ』という名はかなり広まっていた。雑誌取材も増えた。受けるのはただ秀星の写真をたくさんの人に見て欲しいからだった。そのせいで、そう呼ばれることには驚かない。秀星が優秀なメートル・ドテルであったこともインタビューで伝えてきたが、上司と共に『ハコ』が働いている店はどこにあるのかは極力知られないようにしてきた。だから、仕事をしているここで指摘され、何故と警戒した。
なのにその男がさらに、にかっとした屈託のない笑みを見せる。
スマートフォンを取り出して、SNSのアプリを開いた彼が、とあるアカウントを見せてくれる。
「俺、ダラシーノです」
ダラシーノ。その名を聞いて、葉子はさらに驚愕する!
見覚えがあるそのアイコンのアカウント、彼がフォローしているのはふたつだけ。
秀星の写真アカウントと、ハコの動画配信と秀星の写真アップをするためのアカウントだった。
「蟹を送ってくれなくて、怒っていた……あの……、神戸の……」
「そう。俺だけが秀星さんの写真をいいねしている唯一のファンだったのに。すごいね。毎日何千、時に何万のいいねになっちゃって」
「え、え……どうして……」
そんなときになって、篠田が哀しそうに眼差しを伏せた。
「忘れられなくてね。あの人のことが。ここで生きていたあの人を知りたくて。あの人が話していた『ハコちゃん』にも会いたくてね」
「秀星さん……と、私のこと……を? 秀星さんが私のことを話していたのですか?」
「大事に育てたいと言っていた。途中だろ。俺が仕上げてやるよ」
なにこの人。なにこの自信満々で、図々しそうなの。
葉子の第一印象はそれで、穏やかでクールな上司だった秀星が史上最高の師匠だったので、酷い拒絶反応が起きた。
なのに父が喜んで篠田を『給仕長』として雇ってしまった。
彼も一流だった。秀星の後を引き継いだメートル・ドテルだけあった。
秀星が去ったあと、また葉子を真っ直ぐに見つめてくれる男が現れる。
仕事も、プライベートも。
いまも葉子は、ハンディカメラとライブ配信機材、そして去年からアコースティックギターも担いで、大沼の湖畔へ向かう。
大沼には、小島がたくさん浮かんでいる。湖の中にぽっかりとある小島にも木々が生い茂り、朝の風に揺れている。
小島と小島を橋で繋いだ散策道があるのも、大沼国定公園ならでは。今日もその橋を渡りながら、いつものポイントに到着する。
秀星がいつも『おはよう』と声をかけてくれたそこに、今朝もハンディカメラをセットする。でもいまは、葉子の仕事ではなくなった。
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*でも、ダラシーノ、いろいろ撮影してくれるから面白い
*ダラシーノ、なんなの?? ハコちゃんの唄と北星さんの写真だけで静かで優しい空気だったのに
彼の登場でチャンネルの空気感を壊すかと思ったが、そこは大事にしてくれ、でも、葉子や秀星が出来なかった『賑わう』手伝いを懸命にしてくれるようになった。
それがわかったので、葉子も初めて伝えてみる。
「ダラシーノさんは、北星秀さんのお仕事での後輩です。優秀な後輩だと言っていました。今度は……、この方が、私の上司になっています。つまり、その、メートル・ドテル。北星さんとおなじ給仕長です」
「はーい。ハコちゃんは本業でも優秀ですよ。北星が育てている途中だったので、俺がビシバシ仕上げでやっています!」
*ダラシーノ、北星さんの後輩!? なんでそこにいるの!
*北星さんが認めているなら優秀なメートル・ドテルってことですよね!
*なんでハコちゃんの手伝いを始めたの
*ハコちゃん逃げて!!
いえ、もう逃げられそうにない。
葉子はそっと、篠田に笑いかけていた。
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