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【1】名もなき朝の唄《ハコの動画配信》
2.プロじゃない写真家が言うこと
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「ハコちゃん、ちょっとおいで」
ディナーを終えて、深夜手前でやっと仕事が終わる。
そこで父が明日の仕込みの点検をしているところを目を盗むようにして、秀星に手招きをされる。
連れて行かれるところは、地下にある小さなワインカーブだった。
「飲んでごらん。貴腐ブドウのワイン。2004年、小樽産だ」
とろりとしているシロップのような白ワインを、小ぶりのアペリティフグラスに注いで手渡される。
そこで一口含み、葉子はテイスティングをする。
「甘い!」
「それが貴腐ブドウの特徴だ。でも、このボトルには……」
彼が見せてくれたボトルには『辛口』とある。
「もう一度、口に含んでよく感じてごらん」
彼に言われ、葉子も素直にもう一度口に含む。
「甘い梅酒のよう、でも、甘ったるくない、スッキリした……うん、すぐに甘みが消えキレがあります」
「そう。すぐに鼻孔にくる香りの高さと甘み、でもそれがすぐに去るスッキリした切れ味が特徴。その後味をしっかり覚えておいて」
少しずつワインの味も教えてくれるようになった。
そのカーブには、立ち飲み用の小さなテーブルもあって、そこにちょっとしたおつまみのように、本日残った料理なども小皿で持ち込まれたりしていた。
焼いた肉、ハム、果物、チーズ、残りのワインをもらって、食材との組み合わせも体験させてくれた。
食材の産地、生産者の顔に想いまで、彼は仕入れてきて語ってくれる。
本当はこの仕事が好きなんじゃないかと葉子は思い始めていた。
でも違った。
「全部、僕が撮る写真に繋がることだからね。表面だけ見えても写真にならないよ」
――と、如何にも写真家らしいことを言うのだ。
ほんとうにそのように思えてしまうし、でも、彼は自称・写真家であってプロではない。
でも。葉子はだんだんとわからなくなってくる。
『○○家』てなに? プロってなに?
自分はプロじゃないけれど、写真家になりたいから頑張っているという人が、この仕事も写真家のうちのひとつだからと、部下まで懸命に育ててくれるのだから。
でも一理あると、葉子も思うようになった。
唄だっておなじじゃないか? 世の中にある様々なものに思いを馳せること、まず自分が生きることに一生懸命になること。そこから歌詞が声が表現が生きてくるのではないか?
でも。あの人、プロじゃない。
でも。言ってることわかる、なんでだろう?
もう二十代も後半が目の前になって焦っているのに、諦めきれない辛い日々だと思っていた。
でも、ハコも始めた。都市部に通うボイスレッスンと、ジョギングと、発声練習。
無駄じゃない。いや、やりたいんだ。いや、捨てられないからやるんだ。やりたいからやるんだ。
早朝、湖畔の森林道を走っていると、秀星の撮影ポイントにでくわす。
「ハコちゃん! おはよう!」
撮影用の三脚にカメラをセットして、いつもおなじ場所、ほぼおなじ時間に撮影をしている。
雨の日も雪の日も、よほどに悪天候でなければそこにいる。
休暇も森林散策道のカットをいくつも撮影している。彼の日課でルーティンだった。
それを見習った葉子のルーティンがジョギングと発声練習だった。
彼の撮影ポイントから少し離れた散策道奥にある湖畔東屋のあたりで、ひっそりとやっている。
それでも撮影を終えた彼がカメラを担いで、葉子ところまで歩いてやってくることもしばしば。
「いい声が出ていたね。あっちまで聞こえてきたよ。なにか唄ってよ」
「やだ。恥ずかしいですよ……。あ、今日の写真、見せてください」
彼が嬉しそうに微笑む瞬間だった。
東屋で彼がその日に撮影した写真データを一緒に眺める。
朝日に染まる駒ヶ岳の茜の山肌に、薄紫に凪いでいる大沼と小沼、漂う小島の木々も霧をうっすらと纏っていて、しっとりと美しい春先の姿だった。
「毎日、飽きないんですね」
「一日たりともおなじ姿などないよ。大沼は特にいろいろな表情を見せるね。飽きないね。僕はね、この大沼の姿をぜんぶ見たいし、欲しいんだ」
やっぱり。変わった人だなと思っている。
父よりは若く、親子ほど歳が離れてるともいえず、だからとてお兄さんとも言えないほど年上の男性。敬意はあれど、ほのかな恋心もなく、でも葉子にとってはどこか居心地のよい人だった。
それは彼も一緒だったのかもしれない。
ハコも東京で夢破れ、でも諦めていない。もがきながら日々を過ごして、でもなんとか脱落しないよう社会人としての最低限の行動を維持して生きていること。 彼はなにもいわなかったけれど、若いときの自分と重ねているのかもしれない。
湖畔の東屋でいつものひとときを過ごして、彼が先に徒歩で帰る。
葉子はジョギングでレストランがある実家にもどる。
ランチタイム前、営業開始。
その時には、二人揃って黒い制服を着込み、背筋を伸ばす。
湖畔でほのぼのと自然と戯れていたおじさんが、ビシッと凜々しく涼しげな佇まいとなり一流のメートル・ドテルに変身する。
葉子はそんな彼を見るのが、そばにいるのが、好きだった。たぶんそんな彼に仕事を教えてもらい一緒にいることが『誇り』だったと、亡くなったいまは思う……。
ディナーを終えて、深夜手前でやっと仕事が終わる。
そこで父が明日の仕込みの点検をしているところを目を盗むようにして、秀星に手招きをされる。
連れて行かれるところは、地下にある小さなワインカーブだった。
「飲んでごらん。貴腐ブドウのワイン。2004年、小樽産だ」
とろりとしているシロップのような白ワインを、小ぶりのアペリティフグラスに注いで手渡される。
そこで一口含み、葉子はテイスティングをする。
「甘い!」
「それが貴腐ブドウの特徴だ。でも、このボトルには……」
彼が見せてくれたボトルには『辛口』とある。
「もう一度、口に含んでよく感じてごらん」
彼に言われ、葉子も素直にもう一度口に含む。
「甘い梅酒のよう、でも、甘ったるくない、スッキリした……うん、すぐに甘みが消えキレがあります」
「そう。すぐに鼻孔にくる香りの高さと甘み、でもそれがすぐに去るスッキリした切れ味が特徴。その後味をしっかり覚えておいて」
少しずつワインの味も教えてくれるようになった。
そのカーブには、立ち飲み用の小さなテーブルもあって、そこにちょっとしたおつまみのように、本日残った料理なども小皿で持ち込まれたりしていた。
焼いた肉、ハム、果物、チーズ、残りのワインをもらって、食材との組み合わせも体験させてくれた。
食材の産地、生産者の顔に想いまで、彼は仕入れてきて語ってくれる。
本当はこの仕事が好きなんじゃないかと葉子は思い始めていた。
でも違った。
「全部、僕が撮る写真に繋がることだからね。表面だけ見えても写真にならないよ」
――と、如何にも写真家らしいことを言うのだ。
ほんとうにそのように思えてしまうし、でも、彼は自称・写真家であってプロではない。
でも。葉子はだんだんとわからなくなってくる。
『○○家』てなに? プロってなに?
自分はプロじゃないけれど、写真家になりたいから頑張っているという人が、この仕事も写真家のうちのひとつだからと、部下まで懸命に育ててくれるのだから。
でも一理あると、葉子も思うようになった。
唄だっておなじじゃないか? 世の中にある様々なものに思いを馳せること、まず自分が生きることに一生懸命になること。そこから歌詞が声が表現が生きてくるのではないか?
でも。あの人、プロじゃない。
でも。言ってることわかる、なんでだろう?
もう二十代も後半が目の前になって焦っているのに、諦めきれない辛い日々だと思っていた。
でも、ハコも始めた。都市部に通うボイスレッスンと、ジョギングと、発声練習。
無駄じゃない。いや、やりたいんだ。いや、捨てられないからやるんだ。やりたいからやるんだ。
早朝、湖畔の森林道を走っていると、秀星の撮影ポイントにでくわす。
「ハコちゃん! おはよう!」
撮影用の三脚にカメラをセットして、いつもおなじ場所、ほぼおなじ時間に撮影をしている。
雨の日も雪の日も、よほどに悪天候でなければそこにいる。
休暇も森林散策道のカットをいくつも撮影している。彼の日課でルーティンだった。
それを見習った葉子のルーティンがジョギングと発声練習だった。
彼の撮影ポイントから少し離れた散策道奥にある湖畔東屋のあたりで、ひっそりとやっている。
それでも撮影を終えた彼がカメラを担いで、葉子ところまで歩いてやってくることもしばしば。
「いい声が出ていたね。あっちまで聞こえてきたよ。なにか唄ってよ」
「やだ。恥ずかしいですよ……。あ、今日の写真、見せてください」
彼が嬉しそうに微笑む瞬間だった。
東屋で彼がその日に撮影した写真データを一緒に眺める。
朝日に染まる駒ヶ岳の茜の山肌に、薄紫に凪いでいる大沼と小沼、漂う小島の木々も霧をうっすらと纏っていて、しっとりと美しい春先の姿だった。
「毎日、飽きないんですね」
「一日たりともおなじ姿などないよ。大沼は特にいろいろな表情を見せるね。飽きないね。僕はね、この大沼の姿をぜんぶ見たいし、欲しいんだ」
やっぱり。変わった人だなと思っている。
父よりは若く、親子ほど歳が離れてるともいえず、だからとてお兄さんとも言えないほど年上の男性。敬意はあれど、ほのかな恋心もなく、でも葉子にとってはどこか居心地のよい人だった。
それは彼も一緒だったのかもしれない。
ハコも東京で夢破れ、でも諦めていない。もがきながら日々を過ごして、でもなんとか脱落しないよう社会人としての最低限の行動を維持して生きていること。 彼はなにもいわなかったけれど、若いときの自分と重ねているのかもしれない。
湖畔の東屋でいつものひとときを過ごして、彼が先に徒歩で帰る。
葉子はジョギングでレストランがある実家にもどる。
ランチタイム前、営業開始。
その時には、二人揃って黒い制服を着込み、背筋を伸ばす。
湖畔でほのぼのと自然と戯れていたおじさんが、ビシッと凜々しく涼しげな佇まいとなり一流のメートル・ドテルに変身する。
葉子はそんな彼を見るのが、そばにいるのが、好きだった。たぶんそんな彼に仕事を教えてもらい一緒にいることが『誇り』だったと、亡くなったいまは思う……。
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