先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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58.さよならドクター

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 横浜の大学病院に半年ぶりに来た。
 街並みに冬の華やかなイルミネーションがきらめく頃。
 シアトル行きに際し、広瀬教授からの説明や留学に必要な手続きのために久しぶりに訪れた。

 寒い。美湖はシックな黒いコートの衿を閉じた。温暖な島の気候にすっかり慣れてしまったようだった。

 教授の事務室で手続きと留学後の過ごし方などについて話し合う。
 住まいについては、大学から提供できるアパートも準備してくれていたようだったが、晴紀が『俺と美湖さんと母の三人が一緒にいて過ごしやすい家を探す』と言って譲らなかった。
 さらにエヒメオーナーの伯父様からも援助が少し出ることになって、それを聞いた広瀬教授が『やはりそれだけの一族ということなんだね……』とわかっていたはずなのに、驚きを隠せなかった様子を見せた。

 年明けにアメリカで医師として働くための試験があり、それをクリアしてからの渡米となる予定。
 またその頃に横浜に手続きに来ることになり、今回はこれにて美湖は再び、瀬戸内の離島医療の仕事に戻る。



 コートを小脇に抱え、消化器外科の医局にも挨拶に出向いたが、美湖が顔を見せただけで騒然となった。
『瀬戸内の離島に飛ばされただけでも驚いたのに、今度は教授推薦での渡米、留学だんなんて』
『いったいどのような話になっていたのか』
 と、さすがに根ほり葉ほりと聞かれた。
 しかし美湖は正直に答える。離島へは望んで行ったこと、その時に留学の話はなかったこと、論文を提出するようにいわれ仕上げてからこの話があったと伝える。正直に答えたが、広瀬教授の思惑も汲んだつもりだった。なにもいわず僻地医療に赴任すれば、広瀬教授たっての推薦というチャンスがついてくると匂わせて――。

 その中で、ベテランの既婚ドクターが既に『相良の後任で行かないかと広瀬教授に声をかけられた』と不安そうな表情を見せた。
 呼吸器外科のベテランが行くなら、小さな空君のことについても心残りなく任せられると美湖は安堵する。さらに先輩に伝える。

『診療所は綺麗にリフォームされていてご家族で住まれても快適なはず。島の皆さんは良くしてくれるし、私の父が定期的に整形外科専門医として数ヶ月に一度通います。父は既に島民と馴染んでいるのでいろいろ助けてくれますよ』――と。
 離島でも市街へ行くフェリーに高速船があって、城下町は大きくもなく小さくもない中核都市。デパートで買い物もできるし、道後温泉もある。数年の赴任中、ご家族でのんびり過ごされるのも良い思い出になると思うと、美湖はすっかり島の観光大使にでもなったかのように売り込んでしまった。

 するとその先輩医師が『相良、顔つき変わったな』と驚いていたので、美湖もハッとしてしまった。
 自分が吾妻に二年ぶりに会って感じたように、美湖自身もそう感じられるように変わったんだと思えた。

 そんな美湖を見てほっとしたようだった。『数年の赴任なら、家族にもいいところのようだと伝えて相談する』と幾分か表情が軟らかくなった。
 美湖も赴任の際は、喘息の男の子がいるからよろしくお願いします――と挨拶をして別れた。



 大学病院の総合受付窓口の賑わいをそばに、待合いの椅子が並ぶ通路を玄関へと歩く。

「相良先生!」
 その声に振り返ると、白衣姿の男。別れた元恋人の直人だった。
「大塚先生」
 あちらが同棲していた時のように呼ばなかったので、美湖もドクターとして返答する。

 美湖の目の前に来ても、直人は息を切らして声にならない様子。でも暫くすると顔を上げて、美湖を見つめてくれる。

「聞いた。シアトルに留学できることになったって」
「ああ、うん。そうなの」
「今度はアメリカかよ……、瀬戸内の離島に飛ばされたと聞いた時も、すごく心配したのに……」
 言いにくそうに彼が、でも小さく呟いてくれる。結婚を控えている男性だから、妻以外の女性に気をかけるのは憚るからなのだろう。
 それでも美湖にも素直に彼の気持ちが通じる。

「俺のせいじゃないかとずっと気にしていた」
「そう思ってるの? あなたの婚約者とその父親のせいだって? 違うでしょう。いいお嬢様なんでしょう。わかっているんでしょ、彼女のせいではないことも、義理のお父様になる教授がそんなことしないことも。むしろ、胡散臭いのはうちの広瀬教授だってこともわかっているでしょう」
「だから、心配していた。美湖がなにかに巻き込まれないかと」

 いまになって美湖は泣きそうになる。こんな優しい人だったのに、ぞんざいにしていた自分をひっぱたきたい。

「いきなりの赴任だったから知らない間に美湖は瀬戸内に行ってしまって。どうして断らなかったのかと思っていた。教授の今後の進出のために、どうしても人員配置が必要なら、美湖でなくても良かったじゃないか、どうして引き受けたんだとずっと」
 そして直人が辛そうにひとこと。
「俺が、一緒に住んでいた部屋を出て行ったから……。強引に別れたから……?」

 美湖は微笑み、そっと首を振って彼に伝える。

「違うの。よくわからないけれど、行ってもいいと思った。だから承知した。それだけ……。あなたのせいじゃない」

 そしてその選択は間違いではなかった。美湖も伝えておきたいと直人の顔を見上げる。

「瀬戸内で見つけたの、私がやりたいこと。行って正解だった。だからあなたのせいじゃない」
 直人がやっと安心したように笑う。
「そうだった。美湖も結婚するんだってな。院内が騒然としているよ。広瀬教授が島流しにしたと思ったら、そこで……なんだって、いいお家柄の年下の男と結婚することになって、そのうえ教授推薦の留学が決定。誰もが左遷だと思っていたらそうでもなくて、離島だと思っていたらそこには御曹司みたいな息子がいて、その親戚に海運業界では力がある社長がいるとかで、田舎田舎とバカにできないと噂されている」
「相変わらずだね。まあ、島もおなじだよ。来るなり吾妻先生の元恋人だったとか、広瀬教授の愛人だったとか最初はいろいろな目で見られたしね」

 彼も『本当にそんなべたな噂が立っちゃうんだ』とおかしそうに笑った。

「でもね、思ったの。この大学病院も、このひとつの建物でまとまった『島』。おなじよ。私は、島に行ってよかった。そこで結婚しようと思える男性に出会えただけじゃない。医師としても娘としても、美湖という私自身のことも、そして直人に申し訳ないことをしていたことも、全部……、もう一度、見つめることができたから」

「そんな、素晴らしいところだったのか。その島は――」
 美湖は直人に笑顔を見せる。
「そうよ。村上水軍の生き様を受け継いできている民が守っている島だからね」
「すごいな。いつか……、行ってみたいよ」
「蜜柑の花が咲く頃がいいわよ。素敵な香りなの」

 つい美湖はうっとりと呟いていた。気がつくと、いつか愛した男の眼差しがそこにあった。優しく穏やかな目がある。

「俺じゃ……、駄目だったんだな。婚約者の彼は、かわいくない美湖をとても愛しているのだろう。よくわかるよ」
「直人が駄目だったんじゃないの。私が……無頓着過ぎたの……、悪かったと思ってる。ぞんざいにして、ごめんなさい」

 別れた時は『こんなこと、なんてことない。特に悔しくもなんともないし』とやり過ごしてきたが、島で一人になってようやく気がついたことを、気がかりだったことを美湖も謝ることが伝えることができた。

 その彼が少し寂しそうに言う。

「俺たち、医大からの同期だったから。学生時代研修医時代、美湖の気が強いところで支えてもらっていたのは俺だったんだ。だから、美湖に男として見てもらえないと俺が勝手に……」
「最高の戦友だったよ。甘えていたから無頓着になっちゃったんだから。それに大塚先生、脳外科の凄腕ドクターになってとっても男らしくなったものね。それすらも当たり前になっちゃっていたの」
「美湖だって、優秀なドクターとして広瀬教授に目をかけてもらえるほどの女医になったんだから。俺も負けていられなかったんだ」

 医師として一緒にいられたから頑張ってこられた。互いに支え合ってドクターとして……。男と女ではなかったのかもしれない。

 改めてそう思える再会、そして、別れになる。

「元気でな。その彼がいるから大丈夫だろうけれど。そして、留学と結婚、おめでとう」
「大塚先生も、奥様とお幸せに。ずっと祈っているよ、直人の幸せを」
「ありがとう、美湖」

 それでは――。二人一緒に手を振り合い、同時に背を向けた。
 涙はもう出ない。でもやっぱり、長く一緒にいた男との別れは胸に来るものがある……。

 待合いの椅子に外来の人々で賑わうそこを歩き始める。


「センセ、もう終わり?」


 その外来の人々の中、玄関に近い端の椅子に黒いダウンジャケット姿の晴紀が座っていて、美湖はギョッとする。

「ハ、ハル君! 清子さんとホテルで留守番しているって言っていたじゃない」
 それでもハルは美湖の背中の向こうへとひょいと首を伸ばして、遠くなった白衣の男を見つめている。
「いまのドクターが、美湖さんの元カレかよ。真面目そうですげえエリートぽい」
 見ていたのかよー、いつからそこにいたのよーと、美湖はうなだれる。

「いつから見ていたのっ」
「最初から。すげえ勢いで美湖さんをおっかけて、二人でしんみりと泣きそうな顔だったから、ああ元カレだなってわかった」
「最後のお別れ、だったの」

 そういっても晴紀は表情を変えなかった。元カレと婚約者の美湖が話していて不安になった訳でもなく、ほっとした訳でもなく。ただ淡々と受け止めている顔。

「そうなんだ。ちゃんと話せたみたいで良かったな、センセ」

 晴紀が椅子から立ち上がる。

「でっかい病院だな。美湖先生、ここで働いていたんだ」
「医大時代からだね。えっと、別れたさっきの元カレ先生は、同期で、いまも『戦友だったね』と言って別れたの。もうそれぞれ違う道だよ」
「へえ、同級だったんだ。そうか、支え合ってきたから、一緒にドクターになれたってこと?」

 『そうだね』と美湖も素直に頷いた。
 晴紀がまた、白衣の直人の背を目で追う。遠いエスカレーターにいた直人は二階の角で消えていった。

 そして晴紀が総合受付の広いロビーを見上げる。

「見てみたかったんだ。センセが先生になった場所を――」
 だから来てしまったと言いたそうだった。
「帰ろう、センセ」
「うん。帰ろう、ハル君」
 肩を並べると晴紀から腰を抱き寄せて、くっついてくる。でも美湖ももう抵抗も照れもなくて、そのまま寄り添った。

「清子さんを一人にしてきたの? ダメじゃないの。久しぶりの遠出だって言っていたでしょう」
「だからだよ、人が多くて疲れたから休みたいていうから。いまホテルの部屋で休んでるんだ。だから美湖さん迎えに来た」

 迎えに来てくれたんだ――と、美湖はまた素直な男の子がすることに嬉しくなって頬が緩んでしまった。

「また大きな病院が恋しくなったりしなかったのかよ」
「ないない。蜜柑の花に上回るものはない」
「すげえ惚れ込みよう。俺、蜜柑に嫉妬するな」
「蜜柑の花が島との最初の出会い、ハル君は二番目。あ、まってその前に愛美さんと会っているから、ハル君は三番目か!」
「そういう言いぐさ、やっぱ先生はかわいくない」

 本気で拗ねた顔になったので、美湖はまたその素直さに嬉しさが隠せないし、そんなかわいい晴紀に笑ってしまう。

「明日はいよいよ、御殿場だな。美湖さんのお兄さんに会えるの楽しみだ」

 そう、横浜の職場に寄る用事と併せて、御殿場の実家へもご挨拶へ行くために島から出てきた。
 今夜、晴紀と清子と横浜の夜を楽しんで、明日は雪の富士が見える実家へ。

 父はそわそわして、晴紀が来るのを待ちかまえていて、兄貴二人は『おまえの結婚相手、島の旧家で、めちゃくちゃお坊っちゃんじゃねえかよ!』、『船主の甥っ子で、NY海運にいた外航船航海士で船乗りってなんだよ!』と『どんな義弟ができるんだ』とわたわたしていると聞いている。
 母はもう父から散々聞かされたうえに、制服姿の晴紀の画像を見て『素敵な男の子』と会えるのを楽しみにしているとか。
 義姉たちには『美湖ちゃん、やったわね。古いお家のお金持ちですって。すごいの捕まえたわね』とか、『かっこいいじゃない、美湖ちゃんズルイ!』とやいやいと言われていた。

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