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56.行かなきゃダメだ、センセ!

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 しかし、この教授に逆らうとなにが起きるのだろう。
 それでも美湖はいまの気持ちを伝えておかねばならない。
 それを恐る恐る口にしてみる。

「もう……、私は診療所には必要がないということですか」
「そうとは言っていない。ひとまずシアトルに行って欲しいんだ」
「シアトルに……」
 行かなかった場合は、どうなるのですか? そう聞きたくて美湖は慌てて口をつぐんだ。

 思い出したのだ。吾妻に『広瀬教授の考えを、頭の中で先読みするのは構わないが、口にはするな。黙って判断するんだ』。下手すると駒としても使ってもらえなくなると釘を刺されたことがある。だから美湖は瀬戸内に赴任を言い渡された時もなにも言わずに考え返事をした。

 逆のことを聞けばいい、そう判断した。

「シアトルに行く期間はどれぐらいですか」
「君次第かな。どちらにしても、勉強はしてみたかっただろう」

 それは……、この離島に来る前に自分が望んでいたこと。いまはもう……。それに疑わしいこともある。美湖が一生懸命仕上げたのに読みもしないで、シアトル行きを告げるその教授の思惑が納得できない。

「論文は、仕上げても仕上げなくても良かったようですね」

 福神様がこんな時ににっこりと笑みを見せたから、美湖は逆にゾクッとした。吾妻に注意されたことを無視したから、今からその報復がとさすがに怯える。

「読まなくてもわかるよ。君は優秀で、志も高い。テーマも前もって聞いていた。間違いないと思っている」
「そんなこと、わからないではないですか」
「医学部の同期生の中で、君は常に首席争いの中にいたことも知っているし、呼吸器外科に来た頃、担当した小学生の男の子を亡くした時の君のことも知っている」

 奥の奥に押し込めた一番苦い出来事を掘り起こされ、美湖は硬直した。

「誰が見てもどうしようもないことだった。だが君は自分を責め、医局の体勢とシステムを責め、先輩ドクターやナースとの雰囲気を悪くしたことがあるだろう」
「はい……」

 若気の至りと言いたいが、生意気で気が強くて口が悪い美湖がそうなったのだから、そのまき散らされた強気パワーの破壊力はとんでもないものだった。
 しかも若い自分が言い放ったことで、たくさんの人に迷惑をかけたという美湖の最大の汚点でもあった。

「あの頃、一緒だったドクターや今もいるドクター、そしてナースに聞くとね。相良先生が言ったことは誰もがわかっている『ど正論』だったと口を揃える。ただどうにもならないこと、でも誰かがいつもそう思っていること。それを君は心に押し込めず、めいっぱい外にまき散らした。それはもう大人の顔をして仕事をしている者には強烈なことで唖然としたとね……。だけれど、偉かったね。その後、君は一人一人に、誰に言われたわけでもなく謝罪したそうだね」

「……え、っと。はい、自分でも酷かったと……、反省しました。ただ、どうしても、どうしても、助けられたと思う気持ちが抑えられなかったんです」

「わかるよ。医師なら誰もが一度は通る道だ。それを外に出して露わにするのも、内に秘めてじくじくした傷を持ち歩くのも、医師の性格次第。そして君が謝罪した後、少しずつ医局の雰囲気も戻り、それどころか少しずつ体勢が変わった。誰だって年端もいかない少年の死を見送るのは辛いこと。わかっていたと思うよ」

 それは三十過ぎたいまの美湖には良くわかると頷いた。

「それから君はとてつもなくクールになった。泣かない、怒らない、必要以上に喜ばない。優しくなりすぎない。ある意味、優秀なロボットのようにね。吾妻君も似たような性格だったんだろうね。君にとても共感していたようだった。その吾妻君が『クールを身につけてしまったガッツで熱血な女』と言って、さらに僻地医療を前進させるための医師として君を薦めてくれた。私も君のことは覚えていたので、すぐに納得して人選させてもらった」

 そして期待通りに、診療所を定着させてくれたと広瀬教授が満足そうに微笑んだ。

「それならまだ診療所を任せて頂きたいです」
「いや、これからの僻地医療のために、シアトルに行ってくれ」

 選択の余地がないかのようにはっきり言われ……、美湖は逃げ道を失い茫然とした。

「最初から、そのおつもりだったのですか……」
「君も吾妻君同様にやってくれると思っていたからね。ある程度時期が来たら、報酬として君が以前望んでいた留学をと思っていた」
「いま私が望んでいることは、報酬にならないのですか」
「君が重見家の晴紀君とどうなるかなど、私はまったく予測はしてないなかったし、あり得ないと思っていた。君がいま望む報酬は、それならば、晴紀君が管理する診療所にいて、結婚生活をしていきたい……と言うことかな?」

 そうです――と頷こうとした。いま、そこから離れたくない、いまの環境を変えたくない。これから晴紀と清子とやっと楽しい日々を過ごしていくのだからと『はい、そうです』と口を開こうとしたその時。

 

「センセ、それ、行かなきゃダメだ」

 

 海が見える窓辺にあるソファーで教授とひっそりと語らっていたそこに、黒いスーツ姿の晴紀がいた。


「ハル君……」
 晴紀が広瀬教授の目の前に来た。

「教授、いまのシアトルに行くという話、本当なのですか。相良先生が行けるようにもう準備ができているということなのですか」
「そうだよ。彼女が診療所を定着させてくれたら、報酬として、論文に適う経験ができる医大で学びたいと希望していた通りにしてやろうとね」

 晴紀が、久しぶりに美湖をあの怖い顔で睨んだ。

「美湖先生、島に来る前、そう望んでいたんだ」
 美湖はなにも答えなかった。別にそこまで望んでいたことではない。ただ医師を続けて行くには、違う、父や兄と一緒に働けないなら自分がすることできることはそれしかなかっただけ。

「それしか、私ができることがなかったから、そう望んでいただけ」
 なのに広瀬教授が呆れたように溜め息をついた。
「君はそういう『たいしたことは思っていない』という素振りをしながらも、やっていることはとてつもなく真剣で『情熱的』なんだよね……」
 そこでやっと教授が美湖の論文を手に持って眺めた。
「きっと良い出来に違いない。じっくり読ませていただくよ、楽しみだ。だからこそ、君をこの島の医療を預けることに選んで、さらなる躍進を望んでいる」

 教授のその言葉を聞いた晴紀が、また美湖を強く睨んでいる。

「先生。まさか俺と結婚するから、俺と島にいたいから断りたいと思ってる?」
 
その通りだった。そうだと言いたい。でも晴紀が『そうじゃないだろ』と怒っているのがもうわかる。

「だって……。私、晴紀君と結婚するんだよ。あの診療所だってまだ半年しかいない。他の人に任せたくない」

 やっと本心を口にしていた。教授に言えなくても、夫になる晴紀には言っておきたかったから。

「そうじゃないだろ、先生! 俺は、そんなことで先生に島にいて欲しくない!」
「でも、私は重見の嫁になるんだよ! 島であの家を守っていくんだよ!」
 ついに立ち上がって、晴紀に食ってかかっていた。広瀬教授はじっと静かな眼鏡の顔で若い二人が向きあうのを黙って見ている。
「ハル君だって、あの家のご当主で長男でしょ。離れられないでしょ!」

 なのに晴紀が言い放った。

「俺もシアトルに行く」
 え! 美湖は目を丸くした。
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