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55.ラストオーダー
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夕方と言っても、日が落ちてから晴紀が帰ってきた。
「ただいま帰りました」
夕食前、父と一緒に診察室でその日のまとめの雑務を片づけていると、晴紀が制服姿で診察室に現れた。
白衣姿の父と娘を見つけて、晴紀が笑顔になる。そして、美湖と父も一緒に出迎えた。
「おかえり、晴紀君。航海、お疲れ様」
「お父さん、いらっしゃいませ」
冬の紺色のジャケットの制服姿で帰宅した晴紀を見るのは、父は初めてだったので惚れ惚れとした顔をしていた。
晴紀が潔白と納得して御殿場に帰宅した翌月、父は広瀬教授と定期的に診療所に通う契約をしっかり固め、再度瀬戸内にやってきた。
晴紀と二度目の再会。晴紀と清子が揃って、父に向かって挨拶をしてくれた。
『相良先生、お嬢様の美湖先生と結婚させてください。医師は続けてもらうつもりです。夫になる自分がしっかり支えます』
父にきちんと挨拶してくれた。清子も同じく。
『私も姑として、母親として、美湖さんをいただく以上、そちらの親御様の代わりとなってお守りします』
とまで言ってくれて美湖も涙が出てしまったほどだった。
父も同様に。『ご存じの通り、医師という仕事以外なにも出来ない娘です。由緒あるお家の嫁が務まるか不安ではありますが、どうぞお家を守れるよう育ててください。晴紀君と清子さんにお任せ致します』
厳かに返答してくれると、今度は晴紀が涙に震えていた。
『晴紀君だからだよ、晴紀君だから結婚をして欲しいと思っているからね』
納得できなかったら娘は返してもらうつもり。そう言いきっていた父からの心からの許しの言葉だからこそ、晴紀もとても嬉しそうだった。
その結婚の許しを得てからの、再度の再会だった。もう美湖よりも、晴紀に会いに来ているのではないかというほど、父は晴紀のことばかり気にしている。
「いやー、かっこいいな晴紀君。そうか、これが航海士の制服か」
紺のジャケットに金ボタン、袖口には金のライン。白いシャツに紺のネクタイ、そして白黒の制帽。凛々しい晴紀に父は大感激で大興奮。
「美湖、これで撮ってくれ。母さんに送ってやるんだ」
父がスマートフォンを差し出してきた。美湖も仕方がないなあと言いながらも、父の出迎えに嬉しそうな晴紀の笑顔と、婿殿が好きでたまらない父を見てしまったら、やっぱり自分も嬉しい。
白衣姿の父と船乗り制服姿の晴紀のツーショットを撮影する。父が御殿場に帰ったらあちこちにこれを見せて晴紀君を紹介するんだと張りきっていて、美湖は心の中で『落ち着け、父』と結婚する娘より舞い上がっていて苦笑いしか出てこない。
「お父さん。吾妻先生の結婚式が終わったら、船釣り行きましょう」
「もちろん。それを楽しみにしてきたんだ。いま瀬戸内で何が釣れるか雑誌を見て勉強してきた」
月刊・釣り人を買って飛行機の中でわくわくして読んできたんだと父が嬉々として晴紀に見せてる。
「あ、この雑誌。俺も時々参考にしますよ」
お父さんのバカ。ハル君は海のプロで、この海域を知り尽くしている島の男なんだから、そんな雑誌なんて役に立つか――と美湖は食ってかかりたかったが、そんなことはわかっていても父のすることを晴紀が優しく受け止めているので、男同士盛り上がっている時は美湖は間に入らないようにしていた。
婿殿が帰ってきてもう嬉しくて楽しくて興奮している父がやっと満足して、ひとまず二人一緒に二階のベッドルームへ上がった。
「おかえり、ハル君。疲れているのにお父さんの相手大変でしょう。ごめんね。なんか凄いテンションなの」
「俺はぜんぜん平気だよ。あんなに喜んでくれて、俺も嬉しいから。それに娘が結婚するんだからあんなに喜んでいるんだろ。有り難いよ」
ハル君はほんと清いなと思ってしまう。清い母親が育てたからなんだろうなと最近美湖はよくそう思っているし、その素直な気持ちに随分といままでやさぐれてしまったいた美湖の心も慰められている。
いつものベッドルームで、やっと紺のジャケットを晴紀が脱いだ。
白いシャツと紺のネクタイ、スラックス。その姿のまま、晴紀がまだ白衣を脱がない美湖へと近づいてきた。
頬をそっと撫でてくれる。十日ぶりの彼の感触だったので、美湖もうっとり目をつむった。
そのまま、晴紀が『ただいま』のキスをしてくれる。
晴紀がぎゅっときつく抱きしめてくれると、やっぱり制服から潮の匂いがした。お父さんの漁船で波しぶきを浴びながら帰ってきたからなのか、長く潮の世界で仕事をしていたからなのか、海の男の匂いだった。
「留守の間、なにもなかった?」
紺のネクタイをほどく晴紀に聞かれ、美湖も『うん、大丈夫』と答える。
やっぱり晴紀は制服が似合うなあと美湖もぼうっと眺めてしまう。そんな美湖に晴紀が気がついた。
「なに、センセ」
「え、冬の制服もかっこいいなと思って」
「……やっと、島でも堂々と着て歩けるようになったかな」
晴紀が船乗りとして島を出て行く。島民も『晴紀君、また船乗りになったの。事件は終わったの』と感じるようになったのか、以前のような遠巻きに敬遠するような目を美湖も感じなくなった。
「美湖先生と、お父さんのおかげだよ。大事にしていくから」
「私も、なにもできない女だけれど。ハル君と清子さんが大事にしてきたお家、大事にするからね」
「母ちゃんも言っていただろ、嫁の手際より、嫁の気持ちだって。センセなら出来るよ。医者になった根性も島に来た度胸もあったんだから、嫁もできるって」
確かに仕事を持っていることで、なにかと自分の立場を助けてもらっているこの頃ではある。
「吾妻先生の結婚式、いよいよ明後日だな」
晴紀もその日に合わせて、派遣から帰ってきた。
そして父もその日に合わせて瀬戸内にやってきた。
明日、広瀬教授が松山入りする予定で、美湖ひとりだけ、密かに違う緊張をしていた。
・◇・◇・◇・
霜月も下旬の大安。島の山は橙の水玉模様、蜜柑が最盛期。
島ではなく市街の港にある海辺の式場で、吾妻と早苗の結婚式が行われた。
穏やかな初冬、青い晴天の日。きらめく海がガラスの向こうに見える港の式場で、お互い再婚同士の二人の結婚だったが、しっかりと盛大なものだった。
横浜から吾妻の心臓外科の同僚も呼ばれ、早苗側もナースの友人、そして島の面々。とりわけ、きちんとスーツにおめかしした中学生の息子が、結婚する新郎と新婦の間に常にいることがとても微笑ましく、式がとても温かいものになった。
美湖も、父と晴紀と清子とおなじテーブルで祝福した。
お料理も瀬戸内の海の幸をいかしたフレンチのフルコースで、横浜から来たドクターにナースも満足していたようだった。
式と披露宴が終わり、皆が海辺の結婚式会場から道後温泉の二次会会場へと向かう。
「ハル君、二次会行くでしょう」
「もちろん。でも母さんは島に帰りたいって」
「うちのお父さんもそうするって」
「じゃあ、岡ちゃんに連れて帰ってもらう。頼みに行くから先生、待ってて」
賑やかで吾妻を散々からかう同僚ドクターが盛り上げてくれて、美湖もほっとひと息。久しぶりにドクターたちに囲まれた気分だった。
美湖が待っている少し向こうに、清子と志津と芳子が談笑しているのが見えた。
芳子はフォーマルの黒スーツで志津は着物姿、清子は美湖とおなじ紺色のドレスだった。
『まあ、清子さん。素敵。いいわねえ、こういうふうに着られるのね』
『ほんまやわ。清子さん、いつも着物だけれど、ドレスもええねえ』
『うふふ。外商さんと美湖先生がドレスも似合うはずって、選んでくれたの』
最近、清子も前向きになっているのを美湖も感じていた。いままでお式やパーティには着物か堅い礼服がほとんどだったという清子に、外商でついてきたアパレルショップの店長さんと一緒に『ドレスが楽だし華やか』だと『品が良いから似合う』と勧めたら、清子もすんなり試着していつもと違う自分を知って嬉しそうだった。
じゃあ、お姑さんとお揃いにしちゃおうかな――と美湖はシックな紺色のワンピーススーツを仕立ててもらった。これから姑と嫁になる二人が紺色で華やかに装った姿は、島の皆が驚き、そして絶賛してくれ、晴紀も嬉しそうだった。
吾妻はまだ横浜の同僚に取り囲まれ、そのまま二次会行きのバスに乗りそう。今日はゆっくり話すなら二次会が落ち着いてからかと美湖もそっとしていた。
父はもう岡氏や成夫に圭二と愛美と一緒に楽しそうにしていて、すっかり島の一員に見えるほどに溶け込んでいる。
「相良君」
はっとして、美湖はその声へと振り返る。
「広瀬教授」
「たくさんの人に祝福されて賑やかな式だったね。久しぶりに楽しかったよ」
少し恰幅の良い、福神様のような穏和な顔立ちの男性。品のある礼服を着込んだ紳士がそこにいた。
白髪交じりの眼鏡の男性の笑顔でも、美湖は畏れ多い気持ちで一礼をする。
式が始まる前に挨拶をしていたが、横浜の心臓外科ドクターたちと近い席にいたため、式と披露宴の間は離れて過ごしていた。
「料理もおいしかったよ。来て良かった」
「私も瀬戸内のフルコースは初めてで楽しめました」
「さっそくだけれど、ちょっといいかな」
ホールで談笑中の招待客から遠ざかり、海が見える通路奥のソファーへと人目を避けて連れて行かれる。
そのソファーに共に腰をかけると、広瀬教授から口火を切った。
「論文、出来上がったのだね。早速だけれど見せてもらおうかな」
「はい。こちらです」
ファイルと制作した資料に書類とまとめてパッキングしたものを差し出した。広瀬教授もそれを受け取ったがすぐに中身の確認はせず、そのまま座っている脇、ソファーの上に置いてしまった。その仕草に美湖は妙なものを感じた。
「離島の医療、赴任してくれてご苦労様だったね」
急に、胸騒ぎがした。いや、ずっと心の奥で少しざわついていた。でもそんなことはないと美湖は自分で抑えて否定し続けた。
「助かったよ。地元での評判も良いし、院内でも評価があった。なによりも、これから君を通してエヒメオーナーの野間氏とのパイプができた感謝している」
やはり、私はそういう『駒』だったかと愕然としたものが襲ってきたが、なんとか堪えた。
「あの、これからの私の赴任についてなのですけれど……」
はっきり聞いておきたいし、美湖も伝えておきたい。
「結婚はかまわないよ。島のお嫁さんになるのもかなまわない。ただ、あとひとつ、クリアしてもらいたいものがある」
来た。広瀬教授の、おそらくこれが『美湖を動かす狙い』だと。いったいなに?
「シアトルに留学してみないか。準備はできている。あとは君がアメリカへ行くための資格を取得してくれたらいい。私がすべてバックアップする」
目を見開くしかなかった。
「留学……ですか。あの島は……島の診療所は……」
仕上げた論文は見もせず、そして福神様のような顔をしながらも、眼鏡の教授はそんな時だけ険しく海を射ぬいている。
「君の後任はもう決めている。君にはシアトルに行ってもらいたい」
まるで最初から決まっていたかのように……。
でもいまから美湖は結婚して、重見の嫁、島のお嫁さんになるし、美湖が結婚しなければエヒメオーナーの伯父様との繋がりもなくなる。
なのに、いまから留学? 断ったらどうなるの。それに島の診療所は誰にも渡したくない! それが美湖の想いだから。
「ただいま帰りました」
夕食前、父と一緒に診察室でその日のまとめの雑務を片づけていると、晴紀が制服姿で診察室に現れた。
白衣姿の父と娘を見つけて、晴紀が笑顔になる。そして、美湖と父も一緒に出迎えた。
「おかえり、晴紀君。航海、お疲れ様」
「お父さん、いらっしゃいませ」
冬の紺色のジャケットの制服姿で帰宅した晴紀を見るのは、父は初めてだったので惚れ惚れとした顔をしていた。
晴紀が潔白と納得して御殿場に帰宅した翌月、父は広瀬教授と定期的に診療所に通う契約をしっかり固め、再度瀬戸内にやってきた。
晴紀と二度目の再会。晴紀と清子が揃って、父に向かって挨拶をしてくれた。
『相良先生、お嬢様の美湖先生と結婚させてください。医師は続けてもらうつもりです。夫になる自分がしっかり支えます』
父にきちんと挨拶してくれた。清子も同じく。
『私も姑として、母親として、美湖さんをいただく以上、そちらの親御様の代わりとなってお守りします』
とまで言ってくれて美湖も涙が出てしまったほどだった。
父も同様に。『ご存じの通り、医師という仕事以外なにも出来ない娘です。由緒あるお家の嫁が務まるか不安ではありますが、どうぞお家を守れるよう育ててください。晴紀君と清子さんにお任せ致します』
厳かに返答してくれると、今度は晴紀が涙に震えていた。
『晴紀君だからだよ、晴紀君だから結婚をして欲しいと思っているからね』
納得できなかったら娘は返してもらうつもり。そう言いきっていた父からの心からの許しの言葉だからこそ、晴紀もとても嬉しそうだった。
その結婚の許しを得てからの、再度の再会だった。もう美湖よりも、晴紀に会いに来ているのではないかというほど、父は晴紀のことばかり気にしている。
「いやー、かっこいいな晴紀君。そうか、これが航海士の制服か」
紺のジャケットに金ボタン、袖口には金のライン。白いシャツに紺のネクタイ、そして白黒の制帽。凛々しい晴紀に父は大感激で大興奮。
「美湖、これで撮ってくれ。母さんに送ってやるんだ」
父がスマートフォンを差し出してきた。美湖も仕方がないなあと言いながらも、父の出迎えに嬉しそうな晴紀の笑顔と、婿殿が好きでたまらない父を見てしまったら、やっぱり自分も嬉しい。
白衣姿の父と船乗り制服姿の晴紀のツーショットを撮影する。父が御殿場に帰ったらあちこちにこれを見せて晴紀君を紹介するんだと張りきっていて、美湖は心の中で『落ち着け、父』と結婚する娘より舞い上がっていて苦笑いしか出てこない。
「お父さん。吾妻先生の結婚式が終わったら、船釣り行きましょう」
「もちろん。それを楽しみにしてきたんだ。いま瀬戸内で何が釣れるか雑誌を見て勉強してきた」
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ハル君はほんと清いなと思ってしまう。清い母親が育てたからなんだろうなと最近美湖はよくそう思っているし、その素直な気持ちに随分といままでやさぐれてしまったいた美湖の心も慰められている。
いつものベッドルームで、やっと紺のジャケットを晴紀が脱いだ。
白いシャツと紺のネクタイ、スラックス。その姿のまま、晴紀がまだ白衣を脱がない美湖へと近づいてきた。
頬をそっと撫でてくれる。十日ぶりの彼の感触だったので、美湖もうっとり目をつむった。
そのまま、晴紀が『ただいま』のキスをしてくれる。
晴紀がぎゅっときつく抱きしめてくれると、やっぱり制服から潮の匂いがした。お父さんの漁船で波しぶきを浴びながら帰ってきたからなのか、長く潮の世界で仕事をしていたからなのか、海の男の匂いだった。
「留守の間、なにもなかった?」
紺のネクタイをほどく晴紀に聞かれ、美湖も『うん、大丈夫』と答える。
やっぱり晴紀は制服が似合うなあと美湖もぼうっと眺めてしまう。そんな美湖に晴紀が気がついた。
「なに、センセ」
「え、冬の制服もかっこいいなと思って」
「……やっと、島でも堂々と着て歩けるようになったかな」
晴紀が船乗りとして島を出て行く。島民も『晴紀君、また船乗りになったの。事件は終わったの』と感じるようになったのか、以前のような遠巻きに敬遠するような目を美湖も感じなくなった。
「美湖先生と、お父さんのおかげだよ。大事にしていくから」
「私も、なにもできない女だけれど。ハル君と清子さんが大事にしてきたお家、大事にするからね」
「母ちゃんも言っていただろ、嫁の手際より、嫁の気持ちだって。センセなら出来るよ。医者になった根性も島に来た度胸もあったんだから、嫁もできるって」
確かに仕事を持っていることで、なにかと自分の立場を助けてもらっているこの頃ではある。
「吾妻先生の結婚式、いよいよ明後日だな」
晴紀もその日に合わせて、派遣から帰ってきた。
そして父もその日に合わせて瀬戸内にやってきた。
明日、広瀬教授が松山入りする予定で、美湖ひとりだけ、密かに違う緊張をしていた。
・◇・◇・◇・
霜月も下旬の大安。島の山は橙の水玉模様、蜜柑が最盛期。
島ではなく市街の港にある海辺の式場で、吾妻と早苗の結婚式が行われた。
穏やかな初冬、青い晴天の日。きらめく海がガラスの向こうに見える港の式場で、お互い再婚同士の二人の結婚だったが、しっかりと盛大なものだった。
横浜から吾妻の心臓外科の同僚も呼ばれ、早苗側もナースの友人、そして島の面々。とりわけ、きちんとスーツにおめかしした中学生の息子が、結婚する新郎と新婦の間に常にいることがとても微笑ましく、式がとても温かいものになった。
美湖も、父と晴紀と清子とおなじテーブルで祝福した。
お料理も瀬戸内の海の幸をいかしたフレンチのフルコースで、横浜から来たドクターにナースも満足していたようだった。
式と披露宴が終わり、皆が海辺の結婚式会場から道後温泉の二次会会場へと向かう。
「ハル君、二次会行くでしょう」
「もちろん。でも母さんは島に帰りたいって」
「うちのお父さんもそうするって」
「じゃあ、岡ちゃんに連れて帰ってもらう。頼みに行くから先生、待ってて」
賑やかで吾妻を散々からかう同僚ドクターが盛り上げてくれて、美湖もほっとひと息。久しぶりにドクターたちに囲まれた気分だった。
美湖が待っている少し向こうに、清子と志津と芳子が談笑しているのが見えた。
芳子はフォーマルの黒スーツで志津は着物姿、清子は美湖とおなじ紺色のドレスだった。
『まあ、清子さん。素敵。いいわねえ、こういうふうに着られるのね』
『ほんまやわ。清子さん、いつも着物だけれど、ドレスもええねえ』
『うふふ。外商さんと美湖先生がドレスも似合うはずって、選んでくれたの』
最近、清子も前向きになっているのを美湖も感じていた。いままでお式やパーティには着物か堅い礼服がほとんどだったという清子に、外商でついてきたアパレルショップの店長さんと一緒に『ドレスが楽だし華やか』だと『品が良いから似合う』と勧めたら、清子もすんなり試着していつもと違う自分を知って嬉しそうだった。
じゃあ、お姑さんとお揃いにしちゃおうかな――と美湖はシックな紺色のワンピーススーツを仕立ててもらった。これから姑と嫁になる二人が紺色で華やかに装った姿は、島の皆が驚き、そして絶賛してくれ、晴紀も嬉しそうだった。
吾妻はまだ横浜の同僚に取り囲まれ、そのまま二次会行きのバスに乗りそう。今日はゆっくり話すなら二次会が落ち着いてからかと美湖もそっとしていた。
父はもう岡氏や成夫に圭二と愛美と一緒に楽しそうにしていて、すっかり島の一員に見えるほどに溶け込んでいる。
「相良君」
はっとして、美湖はその声へと振り返る。
「広瀬教授」
「たくさんの人に祝福されて賑やかな式だったね。久しぶりに楽しかったよ」
少し恰幅の良い、福神様のような穏和な顔立ちの男性。品のある礼服を着込んだ紳士がそこにいた。
白髪交じりの眼鏡の男性の笑顔でも、美湖は畏れ多い気持ちで一礼をする。
式が始まる前に挨拶をしていたが、横浜の心臓外科ドクターたちと近い席にいたため、式と披露宴の間は離れて過ごしていた。
「料理もおいしかったよ。来て良かった」
「私も瀬戸内のフルコースは初めてで楽しめました」
「さっそくだけれど、ちょっといいかな」
ホールで談笑中の招待客から遠ざかり、海が見える通路奥のソファーへと人目を避けて連れて行かれる。
そのソファーに共に腰をかけると、広瀬教授から口火を切った。
「論文、出来上がったのだね。早速だけれど見せてもらおうかな」
「はい。こちらです」
ファイルと制作した資料に書類とまとめてパッキングしたものを差し出した。広瀬教授もそれを受け取ったがすぐに中身の確認はせず、そのまま座っている脇、ソファーの上に置いてしまった。その仕草に美湖は妙なものを感じた。
「離島の医療、赴任してくれてご苦労様だったね」
急に、胸騒ぎがした。いや、ずっと心の奥で少しざわついていた。でもそんなことはないと美湖は自分で抑えて否定し続けた。
「助かったよ。地元での評判も良いし、院内でも評価があった。なによりも、これから君を通してエヒメオーナーの野間氏とのパイプができた感謝している」
やはり、私はそういう『駒』だったかと愕然としたものが襲ってきたが、なんとか堪えた。
「あの、これからの私の赴任についてなのですけれど……」
はっきり聞いておきたいし、美湖も伝えておきたい。
「結婚はかまわないよ。島のお嫁さんになるのもかなまわない。ただ、あとひとつ、クリアしてもらいたいものがある」
来た。広瀬教授の、おそらくこれが『美湖を動かす狙い』だと。いったいなに?
「シアトルに留学してみないか。準備はできている。あとは君がアメリカへ行くための資格を取得してくれたらいい。私がすべてバックアップする」
目を見開くしかなかった。
「留学……ですか。あの島は……島の診療所は……」
仕上げた論文は見もせず、そして福神様のような顔をしながらも、眼鏡の教授はそんな時だけ険しく海を射ぬいている。
「君の後任はもう決めている。君にはシアトルに行ってもらいたい」
まるで最初から決まっていたかのように……。
でもいまから美湖は結婚して、重見の嫁、島のお嫁さんになるし、美湖が結婚しなければエヒメオーナーの伯父様との繋がりもなくなる。
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