先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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51.道後のカフェで

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 帰りも特急しおかぜ。今治の駅で遅い昼食を父と取って、夕暮れが迫ってきた海沿いをまた帰る。

 美湖はスマートフォンを持って検索中。

「最後に道後温泉に泊まっていくなら、早くそう言ってよ! 人気の温泉なんだからね、宿が取りにくくなるでしょ!」
「いや、どこでもいいと思っていたんだが、やっぱり行きたくなった」
「どこも部屋とれなかったら、ビジネスホテルでいいよねっ」
「う~ん、郊外でもいいから温泉付きの安い宿でもないのか~」
「もう~っ、私だって、松山に来てまだそんなに経ってないんだよ~。知らないよ!」

 こんな時、晴紀に聞きたいのに、いまの彼の気持ちを思うと『いいお宿教えて』なんて気楽に聞けない。

「愛美さんに聞こうかな」
「おいおい、おまえ、横浜に出張になっているんだろ」
「ああ、そうだった。てことは、吾妻先生なら!」
 と思ったら、道後温泉本館近くの旅館が空いていた。電話をするため、デッキへと向かう。父と自分の部屋とひとつずつ取れた。

「空いていたよ、お父さん。私とひとつずつね」
「なんだ。一緒でも良かったのに。お父さんがおごってやったぞ」
「いえ、けっこうです。いちおう稼いでいるし、大人なっても女の子なので、男性のパパに見られたくないこといっぱいあります。一人でゆっくりします」
「夕飯は一緒にするだろ」
 美湖はそこでちょっと照れて伝える。
「うん……。お夕食は父の部屋で一緒にお願いしますと伝えておいた」
 父がにっこりと笑った。

 外はもう茜の海、黄金色の水平線。また父が車窓に釘付けになる。

「明日でこの海と島の景色ともお別れか」
 寂しそうに溜め息をついた。もう飛行機も予約してしまい、父は明日帰る。
「晴紀君に会ってから帰りたかったが、まずは今治の伯父さんと話すようだから、お父さんとはそれからだな」
「来月、また島に来るんでしょう」
「ああ。診察と晴紀君に会いにな」

 清子とは既に別れの挨拶を父は済ませていた。美湖が出張することになったついでに、父も帰ることにしたということになっている。

「それにしても、今治の伯父さんは圧巻だったな。あれは真の一族の長だ。美湖、おまえ、これから晴紀君とつきあうなら覚悟したほうがいいぞ」

 父も馨伯父の威厳には圧倒されたようだった。

「しかも、おまえがまごまごしているのが面白かった。あれぐらいの年配がいたほうが、おまえのためかもな」
「もう、それ言わないで、お父さん。もうもうほんっとに、やられ三昧だったのよー」
「かえって素直なほうが、あの伯父様にはかわいがられると思うな。だが、やはりエヒメオーナー凄かったなあ。いやー、あんな世界があるんだなあ。あの小さなビルにおさまっている社員だけで、百隻の大型貨物を動かして日本の海運と物資を支えているなんてな!」

 その父が自分のスマートフォンを美湖に差し出してきた。

「なに。お父さん」
「おまえ、船舶位置情報がわかるやつ、スマホで見ていただろ。父さんのスマホにも入れてくれ」

 それで晴紀君が乗る船とか、野間汽船の船を確認するんだ! なんて、父はもうすっかり瀬戸内と海運の虜だった。

「もう、しかたないな~」
「なあなあ、どうやって見るんだ。なあなあ」

 帰りの特急でそんな親子のひととき。その時間はあっという間だった。

 


 道後温泉の旅館。父は和室を取ってあげたが、美湖はベッドがあるシングル部屋。
 そのベッドで眠っていると、スマートフォンが震える。
 また寝ぼけ眼で眺めると、晴紀からのメッセージが入っている。

【 おはよう。先生、まだ寝ているかな。昨日の夕、今治に着き伯父と従兄と話し合いました。正午ぐらいに特急で松山に着きます。先生、まだ道後? 島に帰る前に会いたい 】

 美湖もそのつもりだった。晴紀の連絡が来るまでは、一人で島に帰るつもりはなかった。

【 おかえり、ハル君。待っています 】

 やっと、晴紀に会える。やっと……、彼が開放される? されていなくても、美湖は彼と一緒に島に帰りたい。




 晴紀が指定したのは、道後温泉の近くにある老舗カフェ。

 父を道後温泉駅で見送り、美湖はそのまま残り晴紀を待った。
 初めての道後温泉の情景を父も楽しんで帰っていった。『本館の一番太鼓の風呂に入りたい』と、朝早くから張りきって一人で出掛け、道後温泉本館のお風呂を楽しんでいたほど。

 美湖は来た道を戻る。道後温泉駅からすぐ入れる商店街を道なりに行くと道後温泉本館に辿り着く。その本館周辺に集う松山老舗の店が並ぶそこに指定のカフェもあった。
 時間が早かったが美湖はひとりでカフェに入り奥の席に座りじっと待つ。

 その間に父から【 空港に着いた。診療所、頑張れよ。晴紀君によろしく 】とのメッセージが届いた。それに【 気をつけて帰ってね。お母さんとお兄ちゃんたちによろしく 】とよくある返信をしていた。こういうありきたりなメッセージなんて、どうしてありきたりなこといちいちやるんだと今までならバカにしていた。それが、いまはそのひとことの裏にたくさんの思いがあって、それが通じて伝わることが身に沁みる。

 父が来てうんざりしていたし、会いたくなかったし、晴紀にも会わせたくなかった。でも彼を好きでいるならば、避けて通れないことだった。いつかなんとかなると思っていたのだろうか。とにかく今回は避けておきたかった。実際に父が来たことで、美湖が危なげでも穏やかに過ごしていた日常が崩れた。でもそのおかげで……。

「センセ、待った?」
 ノーネクタイだったが、爽やかな水色チェックのシャツとグレーのスラックス姿の晴紀がそこにいた。
「ハル君……」
 思わず、美湖はそっと椅子から立ち上がる。力が入らない感覚でも、ふらりと立ち上がっていた。

「ハル君……、おかえり」

 彼が出て行ってからしばらくだったけれど、日に焼けた男らしい顔、艶のある浅黒い肌の腕、そして美湖が気に入っている綺麗なまつげの眼差しが目の前にある。
 ここがお店でなければ、美湖はすぐに抱きついていたと思う。でも、できなくて、ただただハルを見つめて涙を流すだけになってしまった。

「ただいま、先生。大丈夫……? 座ろうか」

 泣いて力なく震えている美湖の両肩を、彼の大きな手が頼もしく掴んで支えてくれ、静かに美湖を座らせてくれた。
 彼も目の前の席に落ち着いた。小脇に抱えていた紺のジャケットを隣の椅子に置くと、ひと息ついて美湖の顔をじっと見つめてくれる。

「ご心配かけました」

 彼が大人の顔で頭を下げた。美湖は言葉も出なくて、彼が見ていなくてもそっと頭を無言で振るだけ。
 また彼が頭を上げて、目が合うと、少しだけ逸らされた。

「伯父から聞いた。美湖先生と相良先生が、三年前、俺があのような事件に遭遇したのには、後輩の彼になにかもっと死ななくてはならない訳があったはずだと確かめに来たって」

「……ごめんね、勝手に伯父様に会いに行って。でも、父が、それを確かめないと、娘との付き合いにはまだ納得が出来ないと言いだして。それにもっと裏でなにかがあったというのは父が気がついたの。吾妻先生と早苗さんも疑っていたみたい」

「え、吾妻先生と早苗姉さんも?」
 美湖も頷く。
「そうか。そうだったんだ……。時々、早苗姉ちゃんに『このままでいいの。晴紀はなんも疑問はないの?』とたまに詰め寄られていたんだ。でも、俺……、母ちゃんが閉じこもっていたから、まず一緒に日常を取り戻すのが先で、そこまで気力も思いも及ばなかった」

「それは岡さんが言っていた。だから、晴紀にとっては今だから、行かせてやってくれって……。吾妻先生も清子さんにはいま相良がついているから、安心して置いていったんだって、言ってくれて……」

「岡ちゃんに吾妻先生まで……」

 美湖はまた港で晴紀を見送った時の胸が潰れる気持ちを思いだしてしまい涙が止まらない。晴紀も島の知り合いが多くを言わずにそっと見守っていたことを知り、うつむいてしまう。

「そうだな。その時が来ていたんだな……。俺、うっすらと『彼女』のことを何度か思い出していた」

 『彼女』が誰だかわかり、美湖は硬直し涙もぴたりと止まる。
 そこで見計らったように、ホールスタッフが晴紀のオーダーを取りに来た。

「アイスコーヒーと、センセ、もうからっぽだろ。おかわりは?」
「え、あ……」
 美湖が戸惑っていると。
「アイリッシュコーヒーお願いします」
 晴紀が勝手に注文してしまった。
「アイリッシュコーヒー? なんで勝手に」
「このカフェに来たら、アイリッシュコーヒーを飲んでおけが地元民のおすすめ」
「あ、そうなんだ。楽しみ」

 こんな時なのにちょっと笑顔になってしまって、美湖はハッとする。

「やっと先生が笑った。調子狂うな。笑ってもくれないし、かわいくない顔で怒ってもいないし。泣いているセンセなんてつまんないな」
「あのねっ、すっごいすっごい心配したんだからね!」
「へえ~、かわいいね先生」

 あの綺麗な目が意地悪な視線になる。美湖はいつもの負けん気で向かいそうになったが、それが晴紀の美湖を沈ませない気遣い、かもしれない(?)と思ったらその勢いも萎えてしまう。

「ごめん。俺もふざけたわけじゃ……。心配かけたことも、美湖先生とお父さんの相良先生が知らなくても良かった話を知ることになって申し訳なく思ってる」
「知らないと晴紀君とこれからも一緒にいられなかったと思ってる。父は納得して帰ったよ。いま飛行機に乗ってる。来月、晴紀君に会えること楽しみにしてると言っていたよ」

 そういったら、今度は晴紀が黙ってしまった。
 しかもうつむいて、テーブルの上にあった手を拳にして握って。今度は晴紀が震えている。よく見ると今度は晴紀の目に涙が……。

「……それ、ほんと? 先生」
「本当だよ。父はハル君のこととても気に入っているの。だから納得できるまで返事はできないと言っていたの」

 婿に欲しいはまだ言わないでおこうとそこは避けた。

「それだけが、気がかりで。美湖先生とずっと一緒にいるには、絶対に相良先生に……、いやお父さんに許してもらわなくてはならないと思って。だから、『彼女』に会おうと思った」

「どうして、過去をもう一度探ろうとして、彼女のことが思い浮かんだの?」
「あいつが……、後輩のその男が、俺の目の前で何度か彼女を虐げていたから」

 美湖にも目に浮かぶようだった。そしてそんなふうに女性を虐げている男を見てしまったら、正義感が強い晴紀は黙っていなかったはずだ。

「もしかして。ハル君……、彼女を何度か助けたりした?」

 辛そうに手のひらで目元を覆った晴紀が力なく『助けた』と答えた。
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