先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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35.離島医療、頑張れます?

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 その彼が何故か、午後の診療で『手伝う』と言いだした。

 いやいや、ちょっと待って――と美湖が止めようとしても、こちらは医師としても先輩、男としても大人で、テキパキと待合室に『問診デスク』なるものを設けて、白衣姿で居座っている。

 愛美も困惑していた。

「先生。なんなんですか、あの男性」

 やんわりだけれども愛美に『あれしてこれして』と指示をしたらしい。

「ごめん、兄貴の知り合いで無碍に出来なかった」
「それにしても、勝手すぎませんかっ」

 もう愛美には言ってしまおうと、美湖も心に決めた。

「他の人には言わないで絶対。お願い」

 愛美がそこで首を傾げたが美湖は告げる。

「父が持ち込んできた見合い相手なの。この前、断ったんだけれどね。なんか来ちゃったの。神戸とか広島とか松山でもいいとか、都市部まで出てくるから私にもそこまで出てこいなんて勝手なこと言うから、簡単に会えると思うな、島まで船を乗り継いで来いと突き返したら、ほんとうに来ちゃったんだよ……」
「はあ!? おみ……」

 仰天した愛美が出そうになった大声をなんとか抑えてくれた。

「先生、いつの間にそんなことに!」
「父が島から実家に帰そうとしている作戦だって」
「そんな……。先生のお父様、ご実家も確かお医者様一家でしたよね。お嬢様が島にいること反対されているってことですか……」
「いままで、実家は兄貴二人もいれば充分だったから、私は気ままにしてきたんだけれどね。ここに来ていきなり……、私もびっくりしているんだって」
「もう、帰ってもらいましょうよ。ここは私たちの診療所ですよ!」

 愛美が鼻息荒く待合室で長机を設置して、待っている患者の問診を始めている小澤先生のところへと突進しようとしていた。

「血圧を計りますね。今日はどうされましたか」

 眼鏡の穏やかな、大人の男が白衣姿で現れたので、診察に来ていた島民たちも目を丸くしていた。
 高橋のおじいちゃんがさっそく診てもらっている。

「先生、どこの人」
「東京の大学病院にいます。美湖先生のお兄さんの後輩です。お兄さんが心配されていたのと、離島医療に興味がありまして、学会の帰りに妹さんの様子見がてら訪ねてきました」

 見合いとは言わず、それらしい理由で手際よく、愛想良く患者と馴染んでいるため、愛美の勢いが止まってしまう。美湖もそのまま黙って様子を眺める。

「ほう~、美湖先生のお兄さんも医者けえ」
「お父様も、お兄様お二人もですよ。お医者さん一家の末っ子なんですよ」
「へえ、知らんかった。ほな、先生。美湖先生は元気でやっとると、兄さんにも親父さんにも伝えてなあ」
「かしこまりました。おや、血圧高いですね~」
「いつもや~。そやから美湖先生に診てもらってるんや」

 そうして彼が問診で診断を捌いてくれたので、午後の診療はいつも以上にさくさく進んでしまった。

 だからなのか、愛美もなにも言わなくなる。和哉が医師として真摯に島民に接してくれていたからなのだろう。

 日が短くなってきた夕の海はもう黄金色。診療札をクローズにする頃には、島の影が濃く海に落ちていた。

「小澤先生、お疲れ様でした。助かりました。ありがとうございます」

 美湖も素直にお礼を伝える。愛美も同じく。二人で一礼をする。

「いや、僕も一度やってみたかったんですよ。ドクター離島みたいなのを。大輔先輩も言っていましたよ。ちょっと妹が羨ましいって。僕から見ると、お父さんの跡を継げる医院がある先輩も羨ましいですけれどね」

 穏やかな笑顔にもう嫌味は感じられなかった。大人の男の寛大な笑みに、ついに美湖の心もほぐれていた。

 だからこそ、愛美がそばにいたが美湖ははっきり彼に尋ねた。

「私との結婚条件に、父は開業と独立を約束されたそうですね」

 愛美がギョッとしている。そしてまた、和哉を不審な目で見ている。とても警戒しているようだった。

 だが和哉はなんのその。やはり眼鏡の笑顔は崩さず、こともなげに答える。

「そうですね。とても魅力的な条件でしたよ。願ってもいない……。ですが、その前にやっぱり『前から噂の、大輔先輩のかわいくない妹さん』に興味がありました。しかも女性で単身、島の診療所へひょいと赴任するその度胸。ますます興味が湧きました。島で働いているあなたを見てみたかった、が本心ですね」

「私はどうでしたか。小澤先生……」

「頑張ってますね。ですが……、どこまで頑張れますかね。ひとりの医師としてそう思っています。まだ赴任して半年も経っていない。いまは最初で頑張れるでしょうけれど。これからもっといろいろあると思いますよ。そう甘くはない。お父様もお兄様もそこを心配されているのでしょう。大学病院という組織にいてくれたほうが、組織に揉まれたとしてもまだ預けて安心だったのでしょう」

「まだわかりませんよ。私はやっていくつもりです」

 こんな時に。小澤先生が真顔になった。父や兄と同じ大人の男の厳しい目。

「美湖さん。わかっていますか。ここの島民は三千人ほど。大学病院がある都市部でもなにかが起きて三千人が詰めかけてきたら大事ですよ。それを港の中央病院とこの診療所でまかなっているのです。その重みを、あなたと吾妻先生と数少ない医師が担っている。そのお一人として、傷つくこともある、責任を背負うこともある。そういうことを僕は言いたい」

 至極真っ当な大人の医師の説教が、美湖の胸を貫いた。これを父が説いても美湖は聞き入れなかっただろう。他人という、客人だからこそ。彼が白衣を羽織って医師の姿を真摯に見せてくれたからこそ、受け入れられた言葉だった。

 だが愛美が憤慨した。

「三千人、確かにいますよ! こんな時だけ医師が少ないぶん島は診る人がいっぱいいるみたいに大袈裟に言い換えて、美湖先生をそんな怖がらせるのはやめてください!」

 いつも強気で何事にもフラットに構えている美湖が動揺しているのを愛美は感じ取ったようだった。

「ああ、これは失礼……。ですけれど。僕は今日、診察をさせて頂いてそう思いましたので……」

 彼も『いけない、柄にもなく熱くなってしまった』と眼鏡を取りさり目頭を疲れたように押さえた。彼も彼なりに知らない土地での診察に気疲れしていたようだった。

「小澤先生、心得ておきます。確かに島に慣れてきて、甘くなっていました。ここに来た時も何事もなく過ぎていくので恐ろしく順調だと思っていましたら、台風接近の暴風雨でヘリも来ない救急艇も来られないかもしれない、でも島では処置できない患者が運ばれてきて恐ろしい思いをしました。つまり、そういうことですよね」

「既に、ご経験でしたか……。島外から来て偉そうなことを言ってしまいました」

 美湖も『いいえ。ご心配身に沁みました』と素直に受け答えをしていた。そこには、医師と医師で通じる眼差しが重なっていた。

 この大人の男性は、自分と同じ気持ちを持つ医師なのだという気持ちが湧いた。もし結婚するとしたら、きっとお互いにそれが気持ちが重なる条件となるのだろう。そう思えた。

「会いに来て正解でした」
「私も。お会いできてよかったです」

 これで見合いの話が終了しても、お互いに納得がいく別れが出来そうだった。

「小澤先生。もう海も暗くなってきますが、お泊まりは松山市まで帰られるのですか」
「いいえ。せっかく島に来ましたので、中央病院近くの民宿を取っております。ネットで予約しましてね。掲載されていた夕食の写真が海の幸でおいしそうでしたので今夜は島の夜を楽しみたいと思います。明日の夕の飛行機便で、帰る予定にしていますが、それまでにまたご挨拶に来ますね」
「お疲れですよね。お茶を一杯いかがですか」

 それは美湖からの歩み寄りでもあった。島まで会いに来てくれた大人の男を快く送り出すまでの心遣いを。兄の後輩として尽くしておきたかっただけ。
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