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31.ドクター離島③

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 白衣のまま岡家に上がり、志津が倒れている部屋まで案内してもらう。

「お母ちゃん、しっかりして。いま父ちゃんが美湖先生、呼びに……」
 そこに美湖が現れて、目が合うなり芳子の目から涙がこぼれたのを見る。
「先生、どうして……」
「昼間、お会いした時の様子が気になったものですから。あの時、もっと気をつけておくべきでした。岡さん、柔らかい布団など寝かせる準備をお願いします」
「おう、わかった!」

 美湖もすぐに聴診器を耳につけ、志津の胸元をひらいて当てた。

 呼吸は少し弱っている。

「志津さん、美湖です。わかりますか」
 力ないが頷いてくれる。意識はある。
 身体が熱い。でも痙攣などはなし。
「志津さん。めまいはしましたか」
 彼女がこっくりと頷いた。
「水分補給は一日何回しました?」

 志津が答えられないようだったので、芳子を見ると彼女が『食後と、その間に一回づつくらい』と教えてくれる。尿の色について確認すると、志津が『朝みたいなのが出るなあと思った』と色が濃いのが出ていたとなんとか答えてくれる。

「夕方から頭が痛いと言いだして、夕食もまったく手につけなくて。そしたら、こんな……」

 様子を聞いて、美湖は答える。

「たぶん、熱中症ですね。手を触った時に熱くて、足下が頼りなかったので……。申し訳ないです……、あの時戻ってくればよかった」
「そんな、悠斗のことで先生だって忙しかったでしょう。でも暑いから外に出ないようにしていたのに。どうして」
「最近の熱中症は、室内で起きる室内型熱中症が増えていて四割近くを占めているんですよ。お年寄りは渇きを感じにくいので、喉が渇いた時だけの水分補給では間に合わないこともあるんです」

 芳子がショックを受けた顔になる。

「知らなくて……」

 お嫁さんとしてお姑さんへの気遣いが足りなかったと悔いているのだろうか。芳子がまた涙目になっている。

「最近、多くなったことで、そのような情報がまだ全国的に行き渡っていないだけですよ。大丈夫。芳子さん、氷枕とか氷嚢を準備できますか。志津さんの身体を冷やします。点滴も持ってきたので、ここで処置します。それで様子を見ましょう」

 岡氏が戻ってきて、美湖と一緒に布団を敷いたという部屋に志津を連れて行く。
 仏壇がある部屋だった。

「熱中症やって? 先生」
「重度ではないから大丈夫。クーラーがあるなら適度な温度で冷やしていただけますか。奥さんがいま氷を準備しているのでお願いします」

 それから、と美湖は志津を寝かせてから、岡氏の側に行き少し離れたところで耳打ちをする。

「芳子さん、動揺しているみたいだから、ご主人から大丈夫と言ってあげてくれますか。あとお母様、志津さんにもお嫁さんのせいではないとさり気ないフォローを……」
「あ、うちな。俺が入り婿な。俺、次男なんでこの家はいったんやわ。親子なのはばあちゃんと芳子な」

 え。母娘だった? じゃあ、あの涙は……。娘として母親を案じる涙だったのかと、美湖も我に返る。

「お母ちゃん、お母ちゃん。気付かなくてごめんな、ごめん」

 芳子が昔ながらの氷枕から、いまどきの保冷剤からありったけに持ってきた。それを芳子と一緒にタオルに巻いて、志津の脇に挟んだりする。

「志津さん。大丈夫ですからね。お家にいるままでOKですよ。そのかわり、点滴しますね。ちょっとチクッとしますよ」

 点滴のスタンドも準備して、点滴針を施す。なんとかバイタルを確認して、ひと段落した。

「点滴が終わるまでいさせていただきますね」

 志津の側に付き添っている間に、動揺している奥さんを落ち着かせるよう岡氏に頼んだ。夫妻がそっと部屋を出て行った。

 志津のかたわらで美湖もほっとひと息つく。
 時々、彼女の様子を気にしながら、しばらく一緒にいた。

「先生……」
 力ない呟きが聞こえて、美湖は『はい』と返事をして耳を傾ける。
「先生、おらんかったら。うち、死んでた?」

「救急搬送で港病院に運ばれて処置しても、間に合っていましたよ。でも、おうちのほうが気が楽でしょう」

 そんなに重度ではないと伝えて、安心させるつもりだった。

「いつ逝ってもええと思ってたし、もう父ちゃんのところに行こうと一瞬思うてしまった」

 そんなこと言わないで――と言いたいが、美湖はそこでは口を出さず傾聴に努める。

「そやけど。娘の涙はなんや、いまでも辛いなあ。芳子があんな泣くなんてなあ」
「そりゃあ、そうですよ。私だって……。もう、ずっと母と離れて暮らしていますけれど、いきなりいなくなったらショックです」
「ちゃんと連絡してるの、先生」
「えーっと。スマホのメッセージ程度ですかね」
「ちゃんと声、聞かせてあげたほうがええよ。先生」

 大先輩のおばあちゃんに言われて、美湖はそっと頷くことしかできなかった。
 そのスマホから時々着信音が聞こえている。きっと晴紀からのメッセージだろうとそのままに。

「先生、お仕事中だから電話を見んの? かまんから、気にせんと見て」

 いやいや。こんな時に晴紀からのメッセージを見てにやけたらいけないと、美湖は『大丈夫です』とカバンの中にあるスマホの通知をオフにしようとした。

 そのスマホを手に取ったら、電話の着信音が流れたので美湖はドキリとする。
 しかし、着信表示が晴紀ではない。晴紀は仕事中は電話は滅多にしない、できないと言っていたから。

 その表示を見て、美湖は思わず出てしまう。

『美湖、久しぶりだな。元気か』
「お、お兄ちゃん……」

 長兄の大輔からだった。
 志津に笑いかけて、少しだけ廊下に出ますねと伝え、障子を開けて廊下へ。

『なんだ。いまどこかにでかけているのか』
「ご高齢の方が熱中症、その処置を終えたところ」
『そうか。やはり昼夜問わずと言ったところか。ご苦労だな』

 上の兄と美湖は七歳ほど離れている。長兄はいつも大人であって美湖もいつまでも敵わない兄貴だった。

「なに、兄ちゃん。電話なんて珍しいね」
『優しい兄ちゃんとして、先に言っておいてあげようと思ってな』

 優しい兄ちゃんと切り出してきただけで美湖は眉をひそめる。兄貴がそういうときはろくなことがない知らせばかりだからだ。

『おまえ、顔も見せずに、父さんに連絡もせずにそっちに行っただろ。行ったら行ったで連絡なし。めちゃくちゃ不機嫌なんだからな』
「ちゃんとやっているつもりだけど。ただ、横浜の病院を簡単に出たと怒られるかと思って」
『それもあるけれどな。おまえ、直人君と別れたうえに、なんの相談もなく離島の、しかも瀬戸内に行ってしまって、父さんだって心配しているんだよ』
「えー、そのへんについてはお兄ちゃんにも話したよね。なるべくして別れて私は納得しているって、そう伝えてよ」
『だから! おまえから話を聞かないと父さんも納得してくれないんだよ!』
「もう~、わかったよ。近いうちに私から父さんに連絡するって」

 父が不機嫌で、兄二人が仕事がやりにくくなって連絡してきたのだと思った。

『もう、遅い。おまえ、覚悟しておけよ』

 ん? 覚悟? そして美湖は兄からとんでもないことを聞く。

『速達で送っておいたからな。見合い写真』

 は!? 見合い写真!!

 余所様宅の廊下で大声を出したくなったが、なんとか堪える。でも美湖の心はひとり大騒ぎ。岡が障子を開けて様子を見に来てくれたが、彼も『先生、実家から電話?』と気がついてしまう。

 兄が最後にひとこと。『俺はもう知らない。自分でなんとかしろ』だった。
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