先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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25.殺してないよね?

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「震えなくなったな」
 ハル君がいるから。そう素直に言えなかった。
「一度、あがろうか」
 また晴紀が美湖を上手にクルーザーがあるところまで連れ帰ってくれる。

 ゴムボートまで来て、晴紀が先にあがった。美湖もゴムボードのふちに掴まって浮かんだまま待っていると、彼が手を差し伸べてくれたので、しっかり握る。
 晴紀が男の力で思いっきり、美湖を引っ張り上げてくれる。美湖もやっとの思いでゴムボートにあがれて、息を切らしてうなだれた。

「はあ、はあ……、怖かった。でも、凄かった」
 マスクを外してシュノーケルを外して、やっと……、たくさんの空気を吸えて美湖はほっとする。
「でも、すっごい綺麗だった!」
 きっと忘れない。蜜柑の花と一緒。いつかこの島を出て行くことになっても、決して忘れない。ほんとうに綺麗な綺麗な宝石を覗きに行ったようだった。

「よかった。そう言ってくれて」

 息を切らしている美湖が顔を上げると、目の前に座っている晴紀が優しく目元を崩して微笑んでいる。見たことがない柔らかさだった。

「事前に詳しく言わないで連れてきて、また俺の独りよがりだったかも。でも、先生、出不精だから。怖いと思ったら断られると思って」

 美湖も濡れた髪をかき上げながら笑った。

「それは言えるかも。でも、こうしてくれたから……。貴重な体験ができたんだもの」

 美湖も、目の前にいる青年の目を見つめた。
「忘れないよ。ずっと。ううん、こんなの、忘れるはずない」
 蜜柑の花も、青い光が降りそそぐ異世界も。そう呟いたとたんだった。
「センセ、美湖先生……」

 目の前の晴紀が凄い勢いで飛びついてきて、美湖の身体はゴムボートの上に押し倒されていた。

「え、え……ハ、ハル君……?」

 それでもお互いの胸と胸の間には膨らませていた救命胴衣があるから思ったより密着はしなかった。だからなのか晴紀は一度起きあがるとそれをさっと脱いで、また美湖に覆い被さってくる。しかも美湖の分も素早く頭から抜き取って脱がしていく。

「先生、俺――」

 今度は彼の胸元と美湖の乳房が熱く重なり合った。もう彼の日に焼けた顔が目の前。
 そして晴紀の手が、美湖の潮に濡れた髪をまた優しく撫でている。

「ハル君……、」

 でも美湖は暴れなかった。抵抗もしない。真上にのっかってきて、真上で美湖を見つめているその黒い目を大人しく見つめてしまっていた。

 晴紀は、美湖を窺うように瞳を覗き込んでいる。
 美湖もそのまま、なにも言わずに見つめ返した。もう、それが返事とばかりに。それだけで、どこか奥に押し込めていた『男と女』が解きはなたれるような、空気になっている。

 聞こえるのは潮騒だけ――。

 密かに感じていた、自分より若い青年の、鮮烈な男の色香も匂いも。でも、私は彼よりずっと年上だからと押し込めたのは大人の理性。でも、それを……それを、いま壊したくなっている。彼がじゃない、美湖自身が。

 なのに。衝動的に美湖に迫ってきた晴紀のほうが、はっと我に返ったようにして、凄い勢いで美湖の身体から離れていった。

「ハル君……?」

 押し倒され寝そべったまま、起きあがった晴紀を見上げた。
 彼が目元を覆って、苦しそうに表情を歪めていた。

「俺、……そんな資格、ない、のに」

 ドキリとした。それはどういう意味?
 彼の中にある『相応しい資格』とはなに? もしかして……。

 美湖もそっと起きあがる。起きあがると狭いゴムボートだから目の前に彼がいる。その彼の顔を今度は美湖が覗き込む。

「ほんとうは先生に触れる資格なんかない男なんだ。でも、俺、もうセンセと一緒にいると、もう……」

 晴紀にしても、もう溢れてしまった気持ちのようだった。
 こんなに近づきすぎた青年を見ている美湖も、もう溢れている。
 じんとして、美湖の目が熱くなって、胸がどきどきして。『私、何歳だよ。歳考えろ』と心の中で叫んでいる。

「……忘れて、センセ。変なことをした。帰ろう」

 ゴムボートからクルーザーへと戻るハシゴへと、晴紀が手をかけた。
 ここで流したらもう、もう、二度と触れてはいけない気がしたから、美湖も必死になって、立ち上がろうとする晴紀の手を掴んでひっぱった。


「人殺しという話なら信じていないから」

 晴紀が美湖へと目を瞠る。顔色も変わってしまった。


「し、知っていたんだ……」


 うんと美湖も素直に頷く。でも晴紀が苦悶の表情に変わる。

 青いさざ波の中、ゆっくりと揺れ動くゴムボートの上でふたり。
 自分がいちばん知られたくないだろう過去と『噂』に初めて言及してきた美湖を知り、晴紀は茫然としたまま黙っている。
 美湖に『いつ知られるか』と、今日まできっと思い悩んでもいたのだろう。
 そんな彼に、美湖から再度触れる。

「殺していないよね、ハル君」

 晴紀が目線を逸らした。そうでないなら、晴紀、教えて。なにがあったのか。それすらも私は信じる。晴紀だからこそ、その出来事は起きたのだろうと信じる。

「殺してなんかいない」

 ほら。やっぱり! でも美湖の心が、噂を聞いてから縛られていた心が柔らかくほぐれていく、ほっとしたのは否めなかった。

「殺したように見られてしまったんだ」
 
 また揺れているゴムボートの上へと晴紀がすとんと座りなおし、うなだれた。
 まだ潮に濡れている、でも艶やかな短い黒髪の頭を抱えて、顔を伏せて、吐く息を震わせている。時々、彼から感じていた影をいま美湖は目の当たりにしているのだ。

「同僚を――、と聞いているんだけれど」
「貨物で荷役をしている時に、すぐ隣にいたはずの後輩が、晴天なのに、いまそこにいたのに消えた」

 え? 訳がわからなくて、美湖は聞き返す。

「いなくなったって? 船で? 『にやく』てなに?」
「港で貨物船にコンテナを積む、荷物を積む作業のこと。一等航海士と二等航海士が甲板でタグボートの牽引で離岸するまで監督するんだ。その時、三等航海士の後輩も俺と一緒にいた。すぐ隣にいたのにいなくなった」
「海に落ちたんじゃないの?」
「落ちない。滅多なことでは。落ちたとしたら、故意に落とされたか、故意に落ちたかだ。三日後、遺体であがった」
「死因は? 捜査があったのなら検死、解剖したんでしょ」
「溺死だった」
「それなら、彼が故意に、自殺じゃなかったの」
「自殺の理由が、俺――ということになっている」

 だから、人殺し!? 今度は美湖がなにも言えなくなった。早苗の言葉を思い出している。『正しく生きてさえいれば、間違いを起こさない、にはならない』という言葉。

「ハル君が……、自殺に追い込んだってこと?」
「パワハラと言われた」

 晴紀はそう告白するたびに、美湖から目を逸らす。彼の中の罪の意識を感じずにいられない。
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