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17.お母さんのスキルですよ
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『人殺しと言われて、東京の商船会社やめたんやろ』。
晴紀が噂されていた。
その噂を聞いてからも、美湖は変わらず淡々と過ごしている。
ひっかからないと言ったら嘘になる。
でも、ハルはまた今治のアルバイトに数日いなくなり、息子が留守の間は清子が診療所によく顔を出してくれる。
清子とお茶をしたり、お昼ごはんを食べたり。時には生協でなにがおいしいか、食材の扱い方や保存について教わったりした。
清子も息子と同じ。気遣いが細やかで面倒見がよい。嫌味ではないお世話が上手で、こんなところはお育ちがよい奥様なのかなと思わせたりした。
なによりも……。夫を亡くして気力を落として家にばかり籠もっていたことを思うと、美湖もせっかく外に出てきて笑顔を見せているのなら、そっとしてあげたいというのもある。
噂がほんとうならば、夫が亡くなった頃に、息子が大変な目に遭っていたはず。それは心を痛め精神を崩していたことだろう。ハルがいうところの、生きる気力をなくしていたのも、引きこもりになってしまったのも頷ける。
でも美湖は、噂が本当だとしても。
きっとなにか訳があったに違いないと思っている。
いまはただ……。素知らぬふりを決めている。
・・・◇・◇・◇・・・
雨の日々から、青い夏空の季節へ。梅雨明け、瀬戸内海の空が青く冴え渡る夏本番。
「お疲れ様、愛美さん。ではまた午後の診察で」
「美湖先生、お疲れ様でした。それでは夫とお昼ごはんにします」
いつも仲がいいなあと微笑ましくなる。
嵐の後、愛美の両親と兄の『成夫』が挨拶に来てくれた。その時、愛美の夫『仙波圭二』も一緒に初対面させてもらっていた。
兄の成夫は実家を継いだ長男で、不動産管理をしながら漁師をしている。夫の圭二は漁協の事務員をしていた。晴紀と揃って、三人同級生で幼馴染み。これまた島育ちの精悍な青年で、ハルと一緒にいるといつまでも男の子のまま、大人になっても賑やかな仲良し三人組に美湖には見えた。
愛美が帰宅し、また診察室で雑務をしていると、入口のドアが開いた。
「美湖先生、終わったのかしら」
「清子さん」
ひょいと、かわいらしい笑顔が見えた。
「今日ね、晴紀が好きな生姜焼きがお昼ごはんなの。いっぱい作っちゃったの。先生もいかが」
「おいしそうですね。なんだか最近……、申し訳ないです」
「いいの。お台所にはいっちゃってもいい? 準備しておくわよ」
「お言葉に甘えます。私、あと二十分はかかりそうです」
お願いすると、清子がにっこり笑顔を残し、待合室を横切って奥の住居スペースへと向かっていく。
カルテの見直しや薬剤の点数を確認していると、今度は『こんにちはー、入っていいですか』とハルの声が聞こえてきた。
「どうぞ。お母さん、キッチンにいるよ」
ハルも診察室のドアを開けて顔を覗かせた。
「やっぱり。センセ、ごめん」
「かまわないよ。今日はハル君が好きな豚の生姜焼きだって。おいしそう」
母親がいつまでも手のかかる男の子みたいに世話をしている様子を美湖に知られると、ハルがちょっと照れて拗ねた顔になる。
「ハル君、ちょっといいかな」
そんな晴紀に、今日の美湖は診察室に入るよう促した。
彼も入ってきてドアを閉め、いつもは患者が座っている椅子にハルが腰をかける。
「なに、センセ」
「お母さんのことなんだけれど……」
「わかってる。センセの休憩時間を邪魔をしているってことは……」
清子も息子同様、大家だからという名目で美湖にあれこれ世話を焼いてくれるようになった。
特に、昼食時に『先生、忙しいでしょ。栄養があるもの食べないとだめよ。先生が体調崩したら患者さんが困りますからね』と言って、『栄養バランスが整っているお膳ランチ』並のものを持ってきてくれるようになった。
美湖もそれは有り難い。しかも清子はよく心得ていて、だからとて、朝食も夕食もとなにからなにまで踏み込んでくるようなことはしない。午後が休診の日は来ない。土日も来ない。来るのは平日の午後診療がある日だけ。ほんとうに『美湖先生のお昼休みのごはんをお手伝い』で来てくれているように思えてならない。距離の取り方も心得てくれているように思え、美湖もかえって助かっている。
母親が訪ねてくると、今度は母親が一度死に際を彷徨ったがためなのか、つい過保護にしてしまう息子も漏れなくやってくるようになった。
美湖も思うことがあり、しばらくはなにも言わずに甘えて様子を見ていた。だがそろそろ頃合いか。
「迷惑だよな。ゆっくりしたいよな、センセだって。一人になって休みたいだろ」
ハルもそこは気にしているようだった。だが美湖は首を振る。
「ううん。私はおいしくて、栄養があるお昼ごはんをいただけて助かっている。食べ終われば清子さんは膳を下げて帰っていくし、残りの時間はゆっくりしているよ。それに清子さんと話してほっとするのは私のほうかもね……。やっぱり、清子さんはお母さんだよ……」
「それなら、いいんだけれど。なんか、最近、母ちゃん、朝から昼はなににするって張りきっていて元気なんだよ。俺が生姜焼きが好きだとしても、もう美湖先生のためなんだよ」
「元気に活動を始めたのなら、そのまま続けて欲しいと思わない?」
ハルが目を瞠り、美湖を見た。美湖もそのまま続ける。
「私が助かるのも本当。でも、清子さんにはいま心に芽生えた気持ち大事だと思う。そこで、提案なんだけれど」
提案? ハルが首を傾げた。
「お昼ごはん専属の料理人として、私と契約してほしいんだけれど」
「契約!? なんだよ、それ」
ハルが面食らった。
「だから、食材と作る手間の代価をきちんとお支払いするの。お母さんにここで働いてもらうの。どう。いまのように午後診療がある週四日で」
なあなあで甘えるのではなくて、そこはきちんとしてお互いにwinwinにしようと提案した。しかも清子には働いた分の報酬が入るのだ。来ることにも来てもらうことにも遠慮はなくなる。
「いや、でも、それじゃあ……先生に申し訳ない。報酬をもらうだなんて」
「ハル君が留守の間も、ちゃんとお母さんが私のところに顔を見せにくるんだよ。ハル君がいない間も、手間がかかる女のお世話で忙しくなるんだよ」
「手間がかかる女って」
そこでハルがまたぷっと笑った。
「だーってほんとのことじゃない。ここらへん、ごはんが食べられる店ぜーんぜんない。コンビニもない。なんもない。自分の料理おいしくない」
「自分の料理がおいしくないって」
ついにハルが声を立てて笑いだした。
「それに比べたら。清子さんのお母さんの味は、ほんっとありがたい。力が出る。今日までは甘えてきたけれど、続けてもらうには、やっぱり対価があったほうがいいと思うの」
そして美湖はさらに付け加える。
「おこがましいけれど……。それで清子さんに張り合いができるならばね、そう思って……。余計なことかな、ハル君……」
来たばかりの若い女医が、まだ付き合いも浅い大家母子の事情に首を突っ込んでいるのではないかと、美湖の言葉の勢いが止まる。
「いや、ありがとう。センセ」
「じゃあ、食べにいこうか。私から言う? ハル君から言う?」
「センセから言って。雇い主から。俺がフォローする」
「うん、わかった」
ふたり一緒にダイニングに行くと、清子がテーブルに昼食の準備を終えたところだった。
「あら、晴紀も。余っているから一緒に食べる?」
「余ってるってなんだよ」
もう息子のごはんより、先生のごはんになっていてハルがむくれていた。
「清子さんは? どうせなら三人一緒に食べませんか」
話したいこともあるからと、美湖が勧めると清子は嬉しそうな顔をしてくれ、晴紀も話の場を作るために「そうしよう」と促してくれる。
まだ夏入りしたばかりの爽やかな風がリビングから吹き抜けてくるダイニングで、重見母子と共に美湖は丁寧な昼食をいただく。
「清子さん。お願いがあるんです」
ハルと前もって話し合っていたとおりのことを提案すると、清子が驚き戸惑い……、息子の顔を見た。
「母ちゃん、やってみたらどうだよ。先生も助かるみたいだし、俺も留守にすること多いから」
「でも、そんな……。私、働いたことなんて……」
実家が一族経営の会社で、お見合いでお嫁に来てもそれなりに財がある家の奥様で働いたことがないと清子は躊躇っていた。
「ごはんを好きなように作って頂くだけですよ。清子さん。それ清子さんのスキルじゃないですか。いまの私を助けてくださるものですよ」
「試しにやってみたらいいだろ。そうだ、センセ。お試し期間でまず二週間とかどうかな」
「うん。いいね」
清子がそれでちょっとうつむいて考え……。
「やってみます。美湖先生、よろしくお願いします」
ハルと顔を見合わせ、美湖も微笑む。
「嬉しい。私、働いたことないから、自分で責任あるお仕事して雇ってもらうの初めて」
清子も嬉しそうだった。
ではまず二週間試用期間としてみた。
清子が本日出してくれたデザートは、大きな枇杷。冷たくしていたものを食後に出してくれる。
「うわー、甘い。暑い日にはぴったりですね」
水分が多い果肉を頬張ると、暑さが和らぐ気がした。
こういう季節のものを島では肌で感じられる。それがこんなに……、気持ちを優しくしてくれるだなんて。この島に来ることになった時はまったく予想していなかった感触だった。
昼食が終わり清子がお膳を片づけ、向かいの自宅へ帰った。
午後の診療時間が始まる前に、白衣姿に戻った美湖は、待合室に散らばっていた雑誌や新聞をラックに戻して整えたりする。
食後のお茶でゆっくりしていた晴紀が、待合室にやってくる。
「センセ……、美湖先生。母のこと、ありがとうございました」
いつになく大人らしい顔で頭を下げられてしまい、美湖も当惑する。
「やだな、私は自分のごはんの確保に必死だっただけなのに」
既にラックに綺麗に整っている雑誌に新聞を、それでもさらに抜き差しして入れ替えたりして誤魔化してしまう。
また言われるんだろうな。素直じゃない。先生はかわいくないって。
「センセ、今度、俺の船に乗ってみない」
あれ、今日は言われなかった? 彼の顔を見上げると、いつも素っ気ない顔か強い眼力で睨まれているようなハルではない。優しく微笑み、あの綺麗なまつげの目線も柔らかく、美湖を見つめてくれている。
「船? ハル君の、お父さんの船だった、漁船のこと?」
「クルーザーもあるけど。どっちがいい」
クルーザー!? びっくりして美湖は言葉が出なくなり、ただギョッとしたまま晴紀を見上げるだけに。
クルーザーを持ってるもんなの? 島民はそうなの? そういうものなの?
それとも……。美湖はふと診療所の窓のむこうに見える、大きな古民家へ振り返る。
「また週末から今治の伯父のところにいくから、帰ってきてから。水着持ってる?」
なんで水着と思ったが、船に乗ると濡れるから必要と言われた。
晴紀が噂されていた。
その噂を聞いてからも、美湖は変わらず淡々と過ごしている。
ひっかからないと言ったら嘘になる。
でも、ハルはまた今治のアルバイトに数日いなくなり、息子が留守の間は清子が診療所によく顔を出してくれる。
清子とお茶をしたり、お昼ごはんを食べたり。時には生協でなにがおいしいか、食材の扱い方や保存について教わったりした。
清子も息子と同じ。気遣いが細やかで面倒見がよい。嫌味ではないお世話が上手で、こんなところはお育ちがよい奥様なのかなと思わせたりした。
なによりも……。夫を亡くして気力を落として家にばかり籠もっていたことを思うと、美湖もせっかく外に出てきて笑顔を見せているのなら、そっとしてあげたいというのもある。
噂がほんとうならば、夫が亡くなった頃に、息子が大変な目に遭っていたはず。それは心を痛め精神を崩していたことだろう。ハルがいうところの、生きる気力をなくしていたのも、引きこもりになってしまったのも頷ける。
でも美湖は、噂が本当だとしても。
きっとなにか訳があったに違いないと思っている。
いまはただ……。素知らぬふりを決めている。
・・・◇・◇・◇・・・
雨の日々から、青い夏空の季節へ。梅雨明け、瀬戸内海の空が青く冴え渡る夏本番。
「お疲れ様、愛美さん。ではまた午後の診察で」
「美湖先生、お疲れ様でした。それでは夫とお昼ごはんにします」
いつも仲がいいなあと微笑ましくなる。
嵐の後、愛美の両親と兄の『成夫』が挨拶に来てくれた。その時、愛美の夫『仙波圭二』も一緒に初対面させてもらっていた。
兄の成夫は実家を継いだ長男で、不動産管理をしながら漁師をしている。夫の圭二は漁協の事務員をしていた。晴紀と揃って、三人同級生で幼馴染み。これまた島育ちの精悍な青年で、ハルと一緒にいるといつまでも男の子のまま、大人になっても賑やかな仲良し三人組に美湖には見えた。
愛美が帰宅し、また診察室で雑務をしていると、入口のドアが開いた。
「美湖先生、終わったのかしら」
「清子さん」
ひょいと、かわいらしい笑顔が見えた。
「今日ね、晴紀が好きな生姜焼きがお昼ごはんなの。いっぱい作っちゃったの。先生もいかが」
「おいしそうですね。なんだか最近……、申し訳ないです」
「いいの。お台所にはいっちゃってもいい? 準備しておくわよ」
「お言葉に甘えます。私、あと二十分はかかりそうです」
お願いすると、清子がにっこり笑顔を残し、待合室を横切って奥の住居スペースへと向かっていく。
カルテの見直しや薬剤の点数を確認していると、今度は『こんにちはー、入っていいですか』とハルの声が聞こえてきた。
「どうぞ。お母さん、キッチンにいるよ」
ハルも診察室のドアを開けて顔を覗かせた。
「やっぱり。センセ、ごめん」
「かまわないよ。今日はハル君が好きな豚の生姜焼きだって。おいしそう」
母親がいつまでも手のかかる男の子みたいに世話をしている様子を美湖に知られると、ハルがちょっと照れて拗ねた顔になる。
「ハル君、ちょっといいかな」
そんな晴紀に、今日の美湖は診察室に入るよう促した。
彼も入ってきてドアを閉め、いつもは患者が座っている椅子にハルが腰をかける。
「なに、センセ」
「お母さんのことなんだけれど……」
「わかってる。センセの休憩時間を邪魔をしているってことは……」
清子も息子同様、大家だからという名目で美湖にあれこれ世話を焼いてくれるようになった。
特に、昼食時に『先生、忙しいでしょ。栄養があるもの食べないとだめよ。先生が体調崩したら患者さんが困りますからね』と言って、『栄養バランスが整っているお膳ランチ』並のものを持ってきてくれるようになった。
美湖もそれは有り難い。しかも清子はよく心得ていて、だからとて、朝食も夕食もとなにからなにまで踏み込んでくるようなことはしない。午後が休診の日は来ない。土日も来ない。来るのは平日の午後診療がある日だけ。ほんとうに『美湖先生のお昼休みのごはんをお手伝い』で来てくれているように思えてならない。距離の取り方も心得てくれているように思え、美湖もかえって助かっている。
母親が訪ねてくると、今度は母親が一度死に際を彷徨ったがためなのか、つい過保護にしてしまう息子も漏れなくやってくるようになった。
美湖も思うことがあり、しばらくはなにも言わずに甘えて様子を見ていた。だがそろそろ頃合いか。
「迷惑だよな。ゆっくりしたいよな、センセだって。一人になって休みたいだろ」
ハルもそこは気にしているようだった。だが美湖は首を振る。
「ううん。私はおいしくて、栄養があるお昼ごはんをいただけて助かっている。食べ終われば清子さんは膳を下げて帰っていくし、残りの時間はゆっくりしているよ。それに清子さんと話してほっとするのは私のほうかもね……。やっぱり、清子さんはお母さんだよ……」
「それなら、いいんだけれど。なんか、最近、母ちゃん、朝から昼はなににするって張りきっていて元気なんだよ。俺が生姜焼きが好きだとしても、もう美湖先生のためなんだよ」
「元気に活動を始めたのなら、そのまま続けて欲しいと思わない?」
ハルが目を瞠り、美湖を見た。美湖もそのまま続ける。
「私が助かるのも本当。でも、清子さんにはいま心に芽生えた気持ち大事だと思う。そこで、提案なんだけれど」
提案? ハルが首を傾げた。
「お昼ごはん専属の料理人として、私と契約してほしいんだけれど」
「契約!? なんだよ、それ」
ハルが面食らった。
「だから、食材と作る手間の代価をきちんとお支払いするの。お母さんにここで働いてもらうの。どう。いまのように午後診療がある週四日で」
なあなあで甘えるのではなくて、そこはきちんとしてお互いにwinwinにしようと提案した。しかも清子には働いた分の報酬が入るのだ。来ることにも来てもらうことにも遠慮はなくなる。
「いや、でも、それじゃあ……先生に申し訳ない。報酬をもらうだなんて」
「ハル君が留守の間も、ちゃんとお母さんが私のところに顔を見せにくるんだよ。ハル君がいない間も、手間がかかる女のお世話で忙しくなるんだよ」
「手間がかかる女って」
そこでハルがまたぷっと笑った。
「だーってほんとのことじゃない。ここらへん、ごはんが食べられる店ぜーんぜんない。コンビニもない。なんもない。自分の料理おいしくない」
「自分の料理がおいしくないって」
ついにハルが声を立てて笑いだした。
「それに比べたら。清子さんのお母さんの味は、ほんっとありがたい。力が出る。今日までは甘えてきたけれど、続けてもらうには、やっぱり対価があったほうがいいと思うの」
そして美湖はさらに付け加える。
「おこがましいけれど……。それで清子さんに張り合いができるならばね、そう思って……。余計なことかな、ハル君……」
来たばかりの若い女医が、まだ付き合いも浅い大家母子の事情に首を突っ込んでいるのではないかと、美湖の言葉の勢いが止まる。
「いや、ありがとう。センセ」
「じゃあ、食べにいこうか。私から言う? ハル君から言う?」
「センセから言って。雇い主から。俺がフォローする」
「うん、わかった」
ふたり一緒にダイニングに行くと、清子がテーブルに昼食の準備を終えたところだった。
「あら、晴紀も。余っているから一緒に食べる?」
「余ってるってなんだよ」
もう息子のごはんより、先生のごはんになっていてハルがむくれていた。
「清子さんは? どうせなら三人一緒に食べませんか」
話したいこともあるからと、美湖が勧めると清子は嬉しそうな顔をしてくれ、晴紀も話の場を作るために「そうしよう」と促してくれる。
まだ夏入りしたばかりの爽やかな風がリビングから吹き抜けてくるダイニングで、重見母子と共に美湖は丁寧な昼食をいただく。
「清子さん。お願いがあるんです」
ハルと前もって話し合っていたとおりのことを提案すると、清子が驚き戸惑い……、息子の顔を見た。
「母ちゃん、やってみたらどうだよ。先生も助かるみたいだし、俺も留守にすること多いから」
「でも、そんな……。私、働いたことなんて……」
実家が一族経営の会社で、お見合いでお嫁に来てもそれなりに財がある家の奥様で働いたことがないと清子は躊躇っていた。
「ごはんを好きなように作って頂くだけですよ。清子さん。それ清子さんのスキルじゃないですか。いまの私を助けてくださるものですよ」
「試しにやってみたらいいだろ。そうだ、センセ。お試し期間でまず二週間とかどうかな」
「うん。いいね」
清子がそれでちょっとうつむいて考え……。
「やってみます。美湖先生、よろしくお願いします」
ハルと顔を見合わせ、美湖も微笑む。
「嬉しい。私、働いたことないから、自分で責任あるお仕事して雇ってもらうの初めて」
清子も嬉しそうだった。
ではまず二週間試用期間としてみた。
清子が本日出してくれたデザートは、大きな枇杷。冷たくしていたものを食後に出してくれる。
「うわー、甘い。暑い日にはぴったりですね」
水分が多い果肉を頬張ると、暑さが和らぐ気がした。
こういう季節のものを島では肌で感じられる。それがこんなに……、気持ちを優しくしてくれるだなんて。この島に来ることになった時はまったく予想していなかった感触だった。
昼食が終わり清子がお膳を片づけ、向かいの自宅へ帰った。
午後の診療時間が始まる前に、白衣姿に戻った美湖は、待合室に散らばっていた雑誌や新聞をラックに戻して整えたりする。
食後のお茶でゆっくりしていた晴紀が、待合室にやってくる。
「センセ……、美湖先生。母のこと、ありがとうございました」
いつになく大人らしい顔で頭を下げられてしまい、美湖も当惑する。
「やだな、私は自分のごはんの確保に必死だっただけなのに」
既にラックに綺麗に整っている雑誌に新聞を、それでもさらに抜き差しして入れ替えたりして誤魔化してしまう。
また言われるんだろうな。素直じゃない。先生はかわいくないって。
「センセ、今度、俺の船に乗ってみない」
あれ、今日は言われなかった? 彼の顔を見上げると、いつも素っ気ない顔か強い眼力で睨まれているようなハルではない。優しく微笑み、あの綺麗なまつげの目線も柔らかく、美湖を見つめてくれている。
「船? ハル君の、お父さんの船だった、漁船のこと?」
「クルーザーもあるけど。どっちがいい」
クルーザー!? びっくりして美湖は言葉が出なくなり、ただギョッとしたまま晴紀を見上げるだけに。
クルーザーを持ってるもんなの? 島民はそうなの? そういうものなの?
それとも……。美湖はふと診療所の窓のむこうに見える、大きな古民家へ振り返る。
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