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16.先生はまだ知らない

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 愛美に甘えて、重見家の軽トラックに乗って出発しても、ハルはまだ不機嫌だった。
 助手席で日暮れる密柑山の緑を眺めていた美湖も溜め息をつく。

「まだ怒ってんの、ハル君」
「怒ってねえよ」
「つきまとわれているなんて思ってないって。助かっているって。草刈りもありがとうね。あと……、お母さんと植えてくれた庭のお花の手入れも。すごく癒されている。思った以上に、季節のお花って和らぐね」

 やっと晴紀の不機嫌な表情が緩んだ。

「俺だって……。センセのプライベートに踏み込むつもりはこれっぽっちも……。でも最初から冷蔵庫の食材を保管すること、先生たら自力でできなさそうで……」
「私が適当すぎて、きちんとしているハル君には我慢ならないんでしょ」
「それは、ある……、かも」

 美湖も気がついていた。この子はきっと東京ではしっかり仕事をしてきた男なのだろうと。実家のこと、診療所にした土地と一軒家のこと、そこに招いた医師のこと。きちんと管理してくれている。伯父の会社のアルバイトと島で漁業のアルバイトをこなしながらだった。だから美湖は知らない島に来て多少の不便を感じても、むしろ横浜にいる時より豊かに快適に過ごせているのだと気がつき始めていた。

「私もね、横浜ではそれなりに自立して暮らしていると思っていたけれど。それは横浜だからだったんだろうね。都会に助けられていたんだと思う……。けっこう自分が適当で驚いちゃった」

 横浜の別れた彼と同棲していたマンションでは、お互いに分担してうまく暮らしていた。美湖がだめなところを、きっと彼が上手にフォローしてくれていたのだろう。お互いに不規則だから、食事は外食も多かった。院内で済ませることも多く、自宅での食事はたまに。毎日、炊事を強いられることはなかった。食べることは都会の利便性に大いに助けられていたに違いない。

「センセ……、独り暮らしだったんだろ。その時はどうしていたんだよ」

 日が陰ってきた密柑山を抜けるトンネル道を運転しているハルが、前を見据えたまま、ちょっと遠慮がちに尋ねてきた。

「独り暮らしはここ一年だけ。食事は横浜なら適当に出来るから。それまでは一緒に住んでいた彼と分担だったかな」
 ハルが黙った。しばらく……。また横顔が強ばっていることに気がつく。
「……彼、いたんだ」
「別れたよ、一年前に。彼、もうすぐ結婚するんだ」

 今度は晴紀が目を見開いて、助手席にいる美湖へと向いた。

「先生、大丈夫なのかよ」
「うん。大丈夫」
「大丈夫って……。一緒に住むほどだったんだろ」
「五年ね。でも五年一緒に住んで結婚に至らなかったんだから、それまでの関係だったのよ」

 またハルが、今度は納得できないとばかりに眉をひそめる顔を見せている。

「五年も、別れたとしてもこれっぽっちも未練がないっておかしいだろ」
「五年、平気な生活になっちゃったから……。彼が出て行ったと思ってる。私がよくても、彼がよくなかったの。私はそれで納得している」
「五年も……、愛しあってきたんだろ……」
「それすらも、もう……、惰性だったんじゃないかな。あって当たり前で、彼はそれが嫌になったんだと思う。私はあって当たり前で惰性でもぜんぜんなんとも思っていなかった。そんなところが嫌になったんじゃないの? そういう惰性にも無頓着なの、私らしいと思わない?」

 ハルが釈然としないといいたそうにハンドルを操作する姿のまま、またなにも言わなくなった。

「センセ、らしいかもしれない……。ごめん、いろいろ聞いてしまった」
「ううん。私もハル君のおうちのこと、この前教えてもらったしね。横浜に未練ないのかって思ってる? 思ってないよ。こっちに来て良かったと思ってる」
「ほんとに……? 大学病院にずっといたかったんじゃないの、センセ」

 今度は案じてくれる顔。大人の男の顔をしているけれど、こういう真っ直ぐで純情そうなところが時々かわいい男の子に見えてしまう。

「そこはね。おっきな病院の大人の事情。流れに逆らわないのも大人」
「院内事情は俺にはわからないけれど……。美湖先生が不利になる状況にはなって欲しくない」
「大丈夫。吾妻先生がいるから。あの先生もいうことばかり聞いている大人しい医師ではないから」

 それならいいんだけれど。と、やっと晴紀がほっとしてくれた。

 島中心の密柑山を貫くトンネル道なら、島を半周するよりあっという間の時間。なんとかスーパーの営業時間に間に合った。
 そこで美湖はおもいっきり買い物をして、晴紀に荷物持ちをしてもらう。いっぱい買い込んで軽トラックの荷台にも乗せる。

「なんだかんだいって、いっぱい買ったじゃん。センセ」
「あー、やっぱり現物みると買っちゃうね!」
 食材から生活雑貨から買い込んで、さあ、帰ろうとトラックに乗り込んだ時だった。
「あ、母ちゃんに頼まれていたものがあったんだ。ちょっとセンセ、待っていて。すぐに戻るから」
「うん。いいよ。待ってるからゆっくり行ってきて」

 晴紀がひとりでスーパーに入っていく姿を見送り、美湖は助手席でスマートフォンを眺める。吾妻から毎度の『大丈夫かー、困っていることないかー』というメッセージに大丈夫との返信をしておく。

 あとは実家の母から。突然、瀬戸内の島へ赴任することになりとても心配していた。ふだんそれほど帰省しない美湖だったため、家族と顔を合わせるのは一年に一回あるかないかだったが、それでもすぐに帰省できる横浜にいたからなにも言われなかったのもある。それが、いきなり、海に囲まれた四国となれば、さらに瀬戸内海のど真ん中にある島となれば、さすがに母もすぐに会えないと案じてくれたようだった。

 母が新茶を含めて荷物を送ってきたのも初めてだった。御殿場の医院ファミリーである家族は、末っ子の美湖が僻地医療に着任したことに騒然としているとか。一度も顔を見せずに赴任したため、特に父が呆れているとの報告だった。

 知らなかった……。いつも実家の医院家業で、両親も兄も嫁いできた義姉たちもいっぱいいっぱいでいい大人になった美湖のことは気にしていないと思っていたから。遠く瀬戸内に一人で来て初めてわかったことだった。

 
『あれ、西の港にできた診療所の女医さんやろ』
『ほうや、ほうや。重見さんとこの息子さんやったな、いまの。重見さんとこの土地に診療所つくった言うとったけん。ハル君が世話しとるらしいよ』

 助手席で静かにもの思いに耽っていると、トラックの背後からひそひそとした話し声が聞こえてきた。トイレの前にあるベンチに座っている初老女性たちの井戸端会議?

『このまえの台風の時、小嶋さんとこの成夫ちゃんが肺に穴開いて呼吸できなくなったの、あの女医さんが処置してなんとかしたって』
『吾妻先生の教え子やってね。それは西の地域も安心やね』

 島に来てもうすぐ二ヶ月。よく耳にするようになった自分の噂話だった。

『若い先生やね。ハル君よりちょっとお姉さんらしいけどな』
『都会からきたけん、あかぬけとるわいね。やっぱり。ほなら、ハル君もちょっと気になるかもしれんね』

 なんだか、あらぬ噂に展開しそうだなと美湖は密かに苦笑いを浮かべていた。またどうせ若い男と女が一緒にいるだけで話されそうな噂でも出来上がりそうな雰囲気。

『そやけど。晴紀君はあかんわ……』
『ほうやね。ハル君はなあ……』

 聞き耳を立てていた美湖は、その会話に固まる。スマートフォンに夢中なふりをして、そっとそっと耳を澄ます。

『まだあの事件で疑いが晴れておらんのやろ』
『おらんのやろね。そやから清子さん、引きこもっとるんじゃろ』
『そら、外に出られんくなるわ。死にたくなるわ』

 美湖の心に、とてつもない胸騒ぎが。心臓がドキドキしている。清子がそうなった訳が、晴紀から聞いた話の他にあるってこと?
 それを、おばさま方がついに囁く

『同僚を死なせてしまったんやもんな』
『ほうよ、殺人事件で捜査されたんやろ。晴紀君に容疑がかかって』

 スマートフォンを持っていた手の力が抜けていく。
 思わず、足下にそれが落ちていく。

『人殺し言われて、東京の商船会社やめたんやろ』
『そう、島に帰ってきたんやもんね』

 最後、彼女達の目線が美湖へと揃って向いた。

『先生、まだ知らんやろうなあ』

 ハルが人殺し?
 心臓の激しくなる鼓動がやまなかった。
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