16 / 59
16.先生はまだ知らない
しおりを挟む愛美に甘えて、重見家の軽トラックに乗って出発しても、ハルはまだ不機嫌だった。
助手席で日暮れる密柑山の緑を眺めていた美湖も溜め息をつく。
「まだ怒ってんの、ハル君」
「怒ってねえよ」
「つきまとわれているなんて思ってないって。助かっているって。草刈りもありがとうね。あと……、お母さんと植えてくれた庭のお花の手入れも。すごく癒されている。思った以上に、季節のお花って和らぐね」
やっと晴紀の不機嫌な表情が緩んだ。
「俺だって……。センセのプライベートに踏み込むつもりはこれっぽっちも……。でも最初から冷蔵庫の食材を保管すること、先生たら自力でできなさそうで……」
「私が適当すぎて、きちんとしているハル君には我慢ならないんでしょ」
「それは、ある……、かも」
美湖も気がついていた。この子はきっと東京ではしっかり仕事をしてきた男なのだろうと。実家のこと、診療所にした土地と一軒家のこと、そこに招いた医師のこと。きちんと管理してくれている。伯父の会社のアルバイトと島で漁業のアルバイトをこなしながらだった。だから美湖は知らない島に来て多少の不便を感じても、むしろ横浜にいる時より豊かに快適に過ごせているのだと気がつき始めていた。
「私もね、横浜ではそれなりに自立して暮らしていると思っていたけれど。それは横浜だからだったんだろうね。都会に助けられていたんだと思う……。けっこう自分が適当で驚いちゃった」
横浜の別れた彼と同棲していたマンションでは、お互いに分担してうまく暮らしていた。美湖がだめなところを、きっと彼が上手にフォローしてくれていたのだろう。お互いに不規則だから、食事は外食も多かった。院内で済ませることも多く、自宅での食事はたまに。毎日、炊事を強いられることはなかった。食べることは都会の利便性に大いに助けられていたに違いない。
「センセ……、独り暮らしだったんだろ。その時はどうしていたんだよ」
日が陰ってきた密柑山を抜けるトンネル道を運転しているハルが、前を見据えたまま、ちょっと遠慮がちに尋ねてきた。
「独り暮らしはここ一年だけ。食事は横浜なら適当に出来るから。それまでは一緒に住んでいた彼と分担だったかな」
ハルが黙った。しばらく……。また横顔が強ばっていることに気がつく。
「……彼、いたんだ」
「別れたよ、一年前に。彼、もうすぐ結婚するんだ」
今度は晴紀が目を見開いて、助手席にいる美湖へと向いた。
「先生、大丈夫なのかよ」
「うん。大丈夫」
「大丈夫って……。一緒に住むほどだったんだろ」
「五年ね。でも五年一緒に住んで結婚に至らなかったんだから、それまでの関係だったのよ」
またハルが、今度は納得できないとばかりに眉をひそめる顔を見せている。
「五年も、別れたとしてもこれっぽっちも未練がないっておかしいだろ」
「五年、平気な生活になっちゃったから……。彼が出て行ったと思ってる。私がよくても、彼がよくなかったの。私はそれで納得している」
「五年も……、愛しあってきたんだろ……」
「それすらも、もう……、惰性だったんじゃないかな。あって当たり前で、彼はそれが嫌になったんだと思う。私はあって当たり前で惰性でもぜんぜんなんとも思っていなかった。そんなところが嫌になったんじゃないの? そういう惰性にも無頓着なの、私らしいと思わない?」
ハルが釈然としないといいたそうにハンドルを操作する姿のまま、またなにも言わなくなった。
「センセ、らしいかもしれない……。ごめん、いろいろ聞いてしまった」
「ううん。私もハル君のおうちのこと、この前教えてもらったしね。横浜に未練ないのかって思ってる? 思ってないよ。こっちに来て良かったと思ってる」
「ほんとに……? 大学病院にずっといたかったんじゃないの、センセ」
今度は案じてくれる顔。大人の男の顔をしているけれど、こういう真っ直ぐで純情そうなところが時々かわいい男の子に見えてしまう。
「そこはね。おっきな病院の大人の事情。流れに逆らわないのも大人」
「院内事情は俺にはわからないけれど……。美湖先生が不利になる状況にはなって欲しくない」
「大丈夫。吾妻先生がいるから。あの先生もいうことばかり聞いている大人しい医師ではないから」
それならいいんだけれど。と、やっと晴紀がほっとしてくれた。
島中心の密柑山を貫くトンネル道なら、島を半周するよりあっという間の時間。なんとかスーパーの営業時間に間に合った。
そこで美湖はおもいっきり買い物をして、晴紀に荷物持ちをしてもらう。いっぱい買い込んで軽トラックの荷台にも乗せる。
「なんだかんだいって、いっぱい買ったじゃん。センセ」
「あー、やっぱり現物みると買っちゃうね!」
食材から生活雑貨から買い込んで、さあ、帰ろうとトラックに乗り込んだ時だった。
「あ、母ちゃんに頼まれていたものがあったんだ。ちょっとセンセ、待っていて。すぐに戻るから」
「うん。いいよ。待ってるからゆっくり行ってきて」
晴紀がひとりでスーパーに入っていく姿を見送り、美湖は助手席でスマートフォンを眺める。吾妻から毎度の『大丈夫かー、困っていることないかー』というメッセージに大丈夫との返信をしておく。
あとは実家の母から。突然、瀬戸内の島へ赴任することになりとても心配していた。ふだんそれほど帰省しない美湖だったため、家族と顔を合わせるのは一年に一回あるかないかだったが、それでもすぐに帰省できる横浜にいたからなにも言われなかったのもある。それが、いきなり、海に囲まれた四国となれば、さらに瀬戸内海のど真ん中にある島となれば、さすがに母もすぐに会えないと案じてくれたようだった。
母が新茶を含めて荷物を送ってきたのも初めてだった。御殿場の医院ファミリーである家族は、末っ子の美湖が僻地医療に着任したことに騒然としているとか。一度も顔を見せずに赴任したため、特に父が呆れているとの報告だった。
知らなかった……。いつも実家の医院家業で、両親も兄も嫁いできた義姉たちもいっぱいいっぱいでいい大人になった美湖のことは気にしていないと思っていたから。遠く瀬戸内に一人で来て初めてわかったことだった。
『あれ、西の港にできた診療所の女医さんやろ』
『ほうや、ほうや。重見さんとこの息子さんやったな、いまの。重見さんとこの土地に診療所つくった言うとったけん。ハル君が世話しとるらしいよ』
助手席で静かにもの思いに耽っていると、トラックの背後からひそひそとした話し声が聞こえてきた。トイレの前にあるベンチに座っている初老女性たちの井戸端会議?
『このまえの台風の時、小嶋さんとこの成夫ちゃんが肺に穴開いて呼吸できなくなったの、あの女医さんが処置してなんとかしたって』
『吾妻先生の教え子やってね。それは西の地域も安心やね』
島に来てもうすぐ二ヶ月。よく耳にするようになった自分の噂話だった。
『若い先生やね。ハル君よりちょっとお姉さんらしいけどな』
『都会からきたけん、あかぬけとるわいね。やっぱり。ほなら、ハル君もちょっと気になるかもしれんね』
なんだか、あらぬ噂に展開しそうだなと美湖は密かに苦笑いを浮かべていた。またどうせ若い男と女が一緒にいるだけで話されそうな噂でも出来上がりそうな雰囲気。
『そやけど。晴紀君はあかんわ……』
『ほうやね。ハル君はなあ……』
聞き耳を立てていた美湖は、その会話に固まる。スマートフォンに夢中なふりをして、そっとそっと耳を澄ます。
『まだあの事件で疑いが晴れておらんのやろ』
『おらんのやろね。そやから清子さん、引きこもっとるんじゃろ』
『そら、外に出られんくなるわ。死にたくなるわ』
美湖の心に、とてつもない胸騒ぎが。心臓がドキドキしている。清子がそうなった訳が、晴紀から聞いた話の他にあるってこと?
それを、おばさま方がついに囁く
『同僚を死なせてしまったんやもんな』
『ほうよ、殺人事件で捜査されたんやろ。晴紀君に容疑がかかって』
スマートフォンを持っていた手の力が抜けていく。
思わず、足下にそれが落ちていく。
『人殺し言われて、東京の商船会社やめたんやろ』
『そう、島に帰ってきたんやもんね』
最後、彼女達の目線が美湖へと揃って向いた。
『先生、まだ知らんやろうなあ』
ハルが人殺し?
心臓の激しくなる鼓動がやまなかった。
0
お気に入りに追加
112
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
【完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる