先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

文字の大きさ
上 下
14 / 59

14.ダメなお姉さん

しおりを挟む

 先ほど会ったばかりの清子からは想像が出来なかった。
 それでも伴侶を失い、島で、しかもあの大きな古民家で急に一人きりになったらそんな気持ちになってもおかしくないことは、人の死を見守ってきた美湖には容易に想像できた。鬱状態になっていれば、それはもうその心境を心に刻んでも不思議ではない。

「近所のばあちゃんたちが見つけてくれたんだ。ばあちゃんたちが、おかしいことに気がついてくれなかったらと思うと、俺……」
 ハルが項垂れた。ネクタイをたらし、頭をたれて。その時の苦痛を思い出している。
「裸で、酷い脱水症状で。あと一日遅かったら足の炎症、危なかったって言われた」

 まさに死の瀬戸際を彷徨った過去があった。

「それを聞いて。もうなにもかもかなぐり捨てて、島に戻ってきた。もともと、重見の財産管理も母一人では限界が出てくると思って」
「それで。それからは伯父様の会社の手伝いと、島にいる時はお父様が残した船をつかって漁協のアルバイトしているってわけ」

 ハルはこっくりと頷く。

「伯父は、母の兄なんだ。会社の社長で、従兄が跡を継ぐために補佐をしている。俺はその手伝い。母を放っておけなかったんで、ここ三年は不定期の出勤にしてもらっている」
「お兄様なら、それは妹さんが心配でしょうね。かえってハル君が面倒みてくれて安心なんじゃないの」
「うん。伯父は母をめちゃくちゃかわいい妹だと思ってるみたいだから。いまでもそうだもんな。その点はすごく融通きかせてもらっている。母ちゃん、やっと親父の跡を追うことばかり考えないで、まずは俺と暮らす気力を取り戻してくれた」

 いまの様子だと、もう死のうとは思っていないのは美湖にもわかる。息子がそばにいて、少しでもお世話をすることで生き甲斐になっているのかもしれない。

「さっき、清子さん。また引きこもっちゃうからね……と言っていたけれど……」
「気力が戻るまで、まったく外に出なかった。いまも海辺の散歩程度。足も時々痛むみたいだ。旅行とか連れ出そうと思ったけれど駄目だった。家にばかりいる。なのに……今日、外に出て……びっくりした」

 美湖もようやく会えた大家さんのお母さんだったが、すんなりとお話ししてくれたふんわりとした彼女は、いま聞いたような苦しみを見せてはいなかった。

「もしかすると……。センセに朝飯を作ってからかもしれない……」

 外に自分の存在意義を見出す。もしかすると、それがちょっとしたキッカケ? 美湖もふとそう感じてしまった。

「お母さんに、新茶持っていってあげて。またお茶も飲みにくるよう伝えてみて」
 ハルが少しほっとしたように微笑んだ。
「ありがと、先生。言ってみる。来た時は……」
「うん。お話相手になってみる。あのね、私も久しぶりに母親に会った気持ちになれちゃったから」
「ほんと?」

 うん、と美湖も頷いた。もしかするとハルもそんな母をたった一人で気にする三年間だったのかもしれない。

「ハル君は? 東京の仕事に戻りたいとは思っていないの?」

 晴紀がまた困ったように黙ってしまった。いけない……。仕事がうまくいかなくなったと言っていたことを美湖は思い出してしまう。

 それでも晴紀が口を開いた。

「思わない。戻らない覚悟で島に戻ってきたんだ」
「じゃあ、しばらくはお母さんと一緒にということなんだね」

「未練がないと言ったら嘘になる。でも辞める時、もうこの世界には戻らないだろうと覚悟してきた。それに、俺……。船に乗るのが好きなんだ。島とこの近海のことは島の人間として知っておきたい。歳を取って島に帰ってきてからでもいいかと思ったけれど、いまは愛美の兄貴と一緒に漁に出て、このあたりの潮とか性質を知っていくのも島の男として大事なことだと思っている。それを受け継いでいくのも」

 スーツ姿で海と島のことを語る晴紀、その思いが自分の中ではいちばん麗しいものだと言いたげに、伏せている眼差しのまつげが、美湖にはとても綺麗に見えた。

「やっぱりここが好きなんだね」

 島で育つものはそうなのかと思った。だが晴紀の目が途端に、男っぽく、窓の外の茜を射ぬいている。

「島のなにもかもが、俺たちを今に繋いでくれた。海も、潮の流れも、この島の産物も、緑もなにもかも。この島の『財』は海で生まれたんだ」

 その言葉に……。美湖も初めて感じた。吾妻が言ったあの言葉。村上水軍のDNAを感じると――。美湖も感じた。ここの男たちは、いにしえの海運で脈々と受け継がれてきたものを守って恩恵を受けて今に至るのだと。だから、海に出る。海を知っている。海に寄りそう。島が不便であっても、そこには先祖の財があり受け継いでいく。その財は後世へ、島がありつづけるために。この海を受け継ぐために。その血潮を感じた。

 そんな晴紀を美湖はどんな目で、顔で見つめていたのだろう。急に晴紀と目が合うと、彼がびっくりした顔を見せたので、美湖も我に返る。

「あ、そうだ。センセに土産……」

 ハルが手に持っていた紙袋からそれをテーブルに置いた。
 黄金色の瓶だった。それを手にとって眺めて、美湖も驚く。

「蜜柑花の蜂蜜!?」
「うん。今治で見つけた。よかったらコーヒーの時に試して。俺も自分の買ってしまった。あれからコーヒー飲む時、蜂蜜を入れるようになった」
「わ、ありがとう! どんな香りかな。あの、香りするのかな。ほんとうに……いい匂いだった。蜜柑の花」

 あの時の素敵なネロリの匂いを思い出すように、美湖はその瓶を鼻先に当てて息を吸い込んだ。

「嬉しいよ。センセにも、島のなにかをひとつでも気に入ってもらえて」

 またあの綺麗なまつげで彼が目を伏せる。自分より若いからかな……、全てが無垢で綺麗に見えてくる。

「ハル君、お礼に健康診断してあげるよ」

 彼がギョッとして顔を上げた。

「は!? なんで健康診断」
「だって。お医者さんだから得意なことでと思って。いますぐできるよ。聴診器もってこようか、心電図もとれるし、採血して、それから、おしっこ……」
「わー、やめろって! 綺麗な顔でお、お、おし……」
「おしっこ。検尿必須だからね」

 真顔で言うと、ハルが顔を真っ赤にして立ち上がった。

「もう、ほんとになんだよっ。やっぱ、センセはかわいくねえ!」

 ほんとうに怒って勝手口をすごい勢いで出て行ってしまった。

 そんなハルをからかって笑うところだろうけれど、美湖はふとうつむく。

「ごめん……。ダメなお姉さんだね……」

 照れて素直になれなかったのは。五歳も年上の自分のほう。
 つい。あんなふうになってしまう。駄目な女。
しおりを挟む
感想 34

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

(完結)貴方から解放してくださいー私はもう疲れました(全4話)

青空一夏
恋愛
私はローワン伯爵家の一人娘クララ。私には大好きな男性がいるの。それはイーサン・ドミニク。侯爵家の子息である彼と私は相思相愛だと信じていた。 だって、私のお誕生日には私の瞳色のジャボ(今のネクタイのようなもの)をして参加してくれて、別れ際にキスまでしてくれたから。 けれど、翌日「僕の手紙を君の親友ダーシィに渡してくれないか?」と、唐突に言われた。意味がわからない。愛されていると信じていたからだ。 「なぜですか?」 「うん、実のところ私が本当に愛しているのはダーシィなんだ」 イーサン様は私の心をかき乱す。なぜ、私はこれほどにふりまわすの? これは大好きな男性に心をかき乱された女性が悩んで・・・・・・結果、幸せになったお話しです。(元さやではない) 因果応報的ざまぁ。主人公がなにかを仕掛けるわけではありません。中世ヨーロッパ風世界で、現代的表現や機器がでてくるかもしれない異世界のお話しです。ご都合主義です。タグ修正、追加の可能性あり。

君は妾の子だから、次男がちょうどいい

月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。

廃妃の再婚

束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの 父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。 ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。 それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。 身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。 あの時助けた青年は、国王になっていたのである。 「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは 結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。 帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。 カトルはイルサナを寵愛しはじめる。 王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。 ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。 引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。 ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。 だがユリシアスは何かを隠しているようだ。 それはカトルの抱える、真実だった──。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...