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7.若き大家さん
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この日も天候のせいか、待合室は閑散としていた。小さな子が夜から発熱したと朝一で若いママさんが連れてきた診察を終えると誰もいなくなった。
ほんとうに壁になにかを打ち付ける音がして、美湖は不安になって外に出た。横殴りの小雨がもう降っている。
白衣の裾が翻るまま、海側、住居の庭側へ。そこへ行くと、ハルが雨合羽姿で壁に梯子をかけて登っていた。
「ハル君!」
初めて彼を呼んだせいか、彼が梯子の上からギョッとした顔でこちらを見下ろした。
「センセ、濡れるだろ。なに傘もささないで出てきたんだよ。中に入ってろって」
「補強ってなにしているの」
「これ。酔芙蓉の木。こいつ、リフォームで植えたばかりだから根付き浅いと思う。倒れるかもしれないから紐で補強しておくんだ」
その木は、美湖がベッドルームにしている二階の窓辺まで伸びていた。
「あと蔓バラとかも、いいから、センセは中に戻っていろって!」
また睨まれて、強く言われて、でも白衣が湿ってきたので美湖もそのまま診療所へと戻った。
愛美が心配して出迎えてくれる。
「美湖先生、なんで外に、白衣湿っちゃったじゃないですか」
「ごめん。替えてくるね。海辺の風てすごいね。家のどこか弱いのかと不安になっちゃって」
「大丈夫ですよ、ハルに任せておけば。ハル兄、なんでもできるから」
なんでもできる? すごい信頼感だと美湖は眉をひそめる。
でも。確かに、風の中ものともせずに梯子に登って、たった一人でロープ片手に庭木を固定していた。
二階の自分の部屋に戻って、綺麗に保管している白衣に着替える。窓辺にはもう彼の影はない。
まっさらな白衣を羽織って階段を下りると、一階のダイニングへ。そして診療所へと戻った。その時、雨合羽を濡らしたハルが戻ってきたところ。愛美がそのレインコートを脱ぐのを手伝っているところだった。
「ハル兄、お疲れ様。あったかいコーヒーでも飲む?」
「いいよ、仕事中だろ。すぐに帰るから。今夜、港に行くと思うから、うちの母ちゃん頼めるか」
「もちろんだよ。様子を見に行くから安心して」
吾妻の胸騒ぎが美湖にも伝わってきた。そうだ、島民の彼らがざわついているからだ。彼らが身体で察知している。『台風が来る、今夜、島は荒れる』と感じているからだ。
「ハル君、ありがとう。コーヒー、飲んで行きなさいよ。私が淹れるから」
愛美ではなく、この診療所を預かっている主であるドクターが言えば、彼も気を許してくれると美湖は思ったから誘った。
また、彼があの鋭い目つきでじっと美湖を見据えている。もう、なんでそういちいち敵視するのかなと美湖も溜め息をつきたくなった。
なのに。
「いいんすか……」
美湖もはたと我に返る。
「も、もちろん。あ、このまえハル君が買ってきてくれたデカフェなんだけれどね」
まだ彼がじっと美湖を見ている。
そんなハルの厳つい眼差しに愛美が気がついて割って入ってきた。
「いただいていきなよ、ハル! 診療所は私が見ているから、患者さん来たら呼ぶから、ね!」
愛美に押されて、やっと彼がいつものティシャツ、短パン姿で待合室に上がった。美湖もそのまま住居のダイニングへと向かう。
電気ケトルで湯を沸かして、マグカップにドリップをセットする。
お湯を注ぎ抽出を待っている間に、個装のフレッシュミルクやお砂糖、蜂蜜を準備した。
「コーヒーにハチミツ?」
椅子に座って待っているハルが不思議そうにハチミツの瓶を手に取った。
「私の愛用、北海道のアカシアの蜂蜜。横浜から持ってきた」
「へえ、俺もいいですか」
「どうぞ」
コーヒーが出来上がり、黒髪が湿ったままの彼の目の前にカップを差し出した。
「センセ、牛乳ないんだ」
個装のフレッシュミルクを入れながら、ハルが聞いた。どうやら牛乳を入れたかったらしい。
「ハル君が買ってくれたのがもうなくなって何日かな……」
「買い物は」
「蜜柑山で迷って阻まれて……、明日、愛美さんに連れていってもらう予定」
そこで彼が初めて『ぷっ』と笑いを堪えた顔をした。
「嘘だろ。そこの道、一本行けばトンネル通って十分ぐらいで向こうの港に着くだろ」
「どーしてかな。吾妻先生が海と島を見せたいと海周りの道から連れてきてくれたから、そっちに行っちゃったみたいで。その近道のトンネル道てどこからはいるの」
「あー、そっちに行っちゃっていたか。それはナビを信じていたら密柑山入るな」
ハルが素直に迷いなく、美湖が愛用しているアカシア蜂蜜をコーヒーに入れている。
「ハル君、庭木を補強してくれてありがとうね」
「なんで、『君』で呼ぶんだよ。さっき、びっくりした」
「だって。愛美さんが『ハル』て呼んでいるし、吾妻先生もハル君て呼んでいたでしょう。きっと私よりずっと若いよね。ハル君」
「そうだな。俺、先生より五歳年下だ」
美湖はギョッとする。自分より若いとは思っていたけれど、五歳も年下!? しかも彼はもう美湖の年齢を知っている!
「な、なんで私の年齢を知っているの。まだ教えていないのに」
蜂蜜入りのコーヒーをゆったりと飲み始めたハルがこともなげに言う。
「吾妻先生からどんな先生がくるか経歴書見せてもらったから。年齢も書いてあった」
そういうことか。というか! 五つも年上だと知られてしまったと思った。
「そっか、女医先生も道に迷うのか」
その女医の、五つも年上のお姉さんが、蜜柑畑で遭難したのがおかしかったのか、彼がまだ時々くすりと笑っている。
やっぱ、こいつ、生意気。美湖は密かにムッとして、自分も蜂蜜入りのコーヒーをすすった。
「それにしても。吾妻先生ったら、そんなに私の経歴をみんなに見せて回ってるの?」
「そんな病院の大事な医師情報を見せて回るなんてしてねえよ」
「じゃあ、ハル君はなんで見せてもらったの」
「ここ、俺の家だから」
ん? 俺の家? また美湖は眉をひそめた。
そんな美湖に、またハルは無表情に応える。
「だから、この診療所。家も土地も俺の名義、親父が逝去して俺がもらった土地。どこに診療所を作ろうかという話になって、俺がここ提供したわけ」
えーー! ってことは、ある意味『大家さん』!? だから、だから、この家の冷蔵庫をいっぱいにしてくれたり、庭木を守ろうとしてくれたり、せっせと世話をしてくれていたんだと初めて知った!
しかも二十八歳で、この土地も家も俺のもの!?
「親父がもう亡くなったのと、田舎ってそういうもんだよ。別に俺だけじゃないよ。愛美の兄貴も土地とか引き継いでいるし」
「お、大家さん業で暮らしているってこと……?」
でもスーツ着てアルバイトとか? いったいどういう暮らしなのかわからない。
「愛美……、俺のことなんも先生に話していないんだ。ま、そのほうが気が楽だけれど」
「話していないって……?」
こんな時になって、ハルが目線を逸らした。コーヒーを飲むためなのか、黙ってしまう。
飲み干したマグカップを置いたハルが、椅子から立ち上がりながら言った。
「フリーターだと思ってくれていいよ。伯父の会社手伝い、それから、親父の船も引き継いで漁もやってる。センセが来た日に食べてもらった刺身、あれ俺が釣った魚だから。漁協もアルバイト程度、そういう働き方。男の家事手伝いな」
『ご馳走様』。美湖がなにかを聞こうとするのを避けるようにして、ハルはコーヒーを飲み終えるとさっと出て行こうとする。でもドア前で一度立ち止まった。
「晴紀って名だから、ハルて呼ばれてる。ハル君じゃない」
そういって、出て行ってしまった。
彼が出て行った後も美湖は首を捻っていた。なんだかハルという男がぼんやりしていて掴み所がないから。
「男の家事手伝い? フリーター? え、船を持っていて漁もしているの!?」
しかし、不動産を持っている島民もいると吾妻から聞いていたから、その一家なのかもしれない。
彼は向かいに住んでいるのに、時々しか姿を見ない。見た時はいつもあのラフな格好で軽トラに乗ってでかけるところ。母親と暮らしているらしいが姿を見せたことはない。
それでも診療所の向かいは、道路より高く上げられている敷地に広い庭があり、歴史がありそうな古民家の造りで大きな家だった。このあたりでいちばん大きい家かもしれない。
つまり。お坊っちゃん? 見えないけれど、お坊っちゃんなのかもしれない?
そういえば、スーツ姿は年下の男でも品があり男らしく堂々としていた。……いや、雨合羽で梯子に登って作業する姿も……、テキパキしていた。
でも――。
「なにが女医先生でも道に迷うんだ、よ」
やっぱり気に入らない。それに態度がほんと素っ気ない。人のこと言えないけれど!
ほんとうに壁になにかを打ち付ける音がして、美湖は不安になって外に出た。横殴りの小雨がもう降っている。
白衣の裾が翻るまま、海側、住居の庭側へ。そこへ行くと、ハルが雨合羽姿で壁に梯子をかけて登っていた。
「ハル君!」
初めて彼を呼んだせいか、彼が梯子の上からギョッとした顔でこちらを見下ろした。
「センセ、濡れるだろ。なに傘もささないで出てきたんだよ。中に入ってろって」
「補強ってなにしているの」
「これ。酔芙蓉の木。こいつ、リフォームで植えたばかりだから根付き浅いと思う。倒れるかもしれないから紐で補強しておくんだ」
その木は、美湖がベッドルームにしている二階の窓辺まで伸びていた。
「あと蔓バラとかも、いいから、センセは中に戻っていろって!」
また睨まれて、強く言われて、でも白衣が湿ってきたので美湖もそのまま診療所へと戻った。
愛美が心配して出迎えてくれる。
「美湖先生、なんで外に、白衣湿っちゃったじゃないですか」
「ごめん。替えてくるね。海辺の風てすごいね。家のどこか弱いのかと不安になっちゃって」
「大丈夫ですよ、ハルに任せておけば。ハル兄、なんでもできるから」
なんでもできる? すごい信頼感だと美湖は眉をひそめる。
でも。確かに、風の中ものともせずに梯子に登って、たった一人でロープ片手に庭木を固定していた。
二階の自分の部屋に戻って、綺麗に保管している白衣に着替える。窓辺にはもう彼の影はない。
まっさらな白衣を羽織って階段を下りると、一階のダイニングへ。そして診療所へと戻った。その時、雨合羽を濡らしたハルが戻ってきたところ。愛美がそのレインコートを脱ぐのを手伝っているところだった。
「ハル兄、お疲れ様。あったかいコーヒーでも飲む?」
「いいよ、仕事中だろ。すぐに帰るから。今夜、港に行くと思うから、うちの母ちゃん頼めるか」
「もちろんだよ。様子を見に行くから安心して」
吾妻の胸騒ぎが美湖にも伝わってきた。そうだ、島民の彼らがざわついているからだ。彼らが身体で察知している。『台風が来る、今夜、島は荒れる』と感じているからだ。
「ハル君、ありがとう。コーヒー、飲んで行きなさいよ。私が淹れるから」
愛美ではなく、この診療所を預かっている主であるドクターが言えば、彼も気を許してくれると美湖は思ったから誘った。
また、彼があの鋭い目つきでじっと美湖を見据えている。もう、なんでそういちいち敵視するのかなと美湖も溜め息をつきたくなった。
なのに。
「いいんすか……」
美湖もはたと我に返る。
「も、もちろん。あ、このまえハル君が買ってきてくれたデカフェなんだけれどね」
まだ彼がじっと美湖を見ている。
そんなハルの厳つい眼差しに愛美が気がついて割って入ってきた。
「いただいていきなよ、ハル! 診療所は私が見ているから、患者さん来たら呼ぶから、ね!」
愛美に押されて、やっと彼がいつものティシャツ、短パン姿で待合室に上がった。美湖もそのまま住居のダイニングへと向かう。
電気ケトルで湯を沸かして、マグカップにドリップをセットする。
お湯を注ぎ抽出を待っている間に、個装のフレッシュミルクやお砂糖、蜂蜜を準備した。
「コーヒーにハチミツ?」
椅子に座って待っているハルが不思議そうにハチミツの瓶を手に取った。
「私の愛用、北海道のアカシアの蜂蜜。横浜から持ってきた」
「へえ、俺もいいですか」
「どうぞ」
コーヒーが出来上がり、黒髪が湿ったままの彼の目の前にカップを差し出した。
「センセ、牛乳ないんだ」
個装のフレッシュミルクを入れながら、ハルが聞いた。どうやら牛乳を入れたかったらしい。
「ハル君が買ってくれたのがもうなくなって何日かな……」
「買い物は」
「蜜柑山で迷って阻まれて……、明日、愛美さんに連れていってもらう予定」
そこで彼が初めて『ぷっ』と笑いを堪えた顔をした。
「嘘だろ。そこの道、一本行けばトンネル通って十分ぐらいで向こうの港に着くだろ」
「どーしてかな。吾妻先生が海と島を見せたいと海周りの道から連れてきてくれたから、そっちに行っちゃったみたいで。その近道のトンネル道てどこからはいるの」
「あー、そっちに行っちゃっていたか。それはナビを信じていたら密柑山入るな」
ハルが素直に迷いなく、美湖が愛用しているアカシア蜂蜜をコーヒーに入れている。
「ハル君、庭木を補強してくれてありがとうね」
「なんで、『君』で呼ぶんだよ。さっき、びっくりした」
「だって。愛美さんが『ハル』て呼んでいるし、吾妻先生もハル君て呼んでいたでしょう。きっと私よりずっと若いよね。ハル君」
「そうだな。俺、先生より五歳年下だ」
美湖はギョッとする。自分より若いとは思っていたけれど、五歳も年下!? しかも彼はもう美湖の年齢を知っている!
「な、なんで私の年齢を知っているの。まだ教えていないのに」
蜂蜜入りのコーヒーをゆったりと飲み始めたハルがこともなげに言う。
「吾妻先生からどんな先生がくるか経歴書見せてもらったから。年齢も書いてあった」
そういうことか。というか! 五つも年上だと知られてしまったと思った。
「そっか、女医先生も道に迷うのか」
その女医の、五つも年上のお姉さんが、蜜柑畑で遭難したのがおかしかったのか、彼がまだ時々くすりと笑っている。
やっぱ、こいつ、生意気。美湖は密かにムッとして、自分も蜂蜜入りのコーヒーをすすった。
「それにしても。吾妻先生ったら、そんなに私の経歴をみんなに見せて回ってるの?」
「そんな病院の大事な医師情報を見せて回るなんてしてねえよ」
「じゃあ、ハル君はなんで見せてもらったの」
「ここ、俺の家だから」
ん? 俺の家? また美湖は眉をひそめた。
そんな美湖に、またハルは無表情に応える。
「だから、この診療所。家も土地も俺の名義、親父が逝去して俺がもらった土地。どこに診療所を作ろうかという話になって、俺がここ提供したわけ」
えーー! ってことは、ある意味『大家さん』!? だから、だから、この家の冷蔵庫をいっぱいにしてくれたり、庭木を守ろうとしてくれたり、せっせと世話をしてくれていたんだと初めて知った!
しかも二十八歳で、この土地も家も俺のもの!?
「親父がもう亡くなったのと、田舎ってそういうもんだよ。別に俺だけじゃないよ。愛美の兄貴も土地とか引き継いでいるし」
「お、大家さん業で暮らしているってこと……?」
でもスーツ着てアルバイトとか? いったいどういう暮らしなのかわからない。
「愛美……、俺のことなんも先生に話していないんだ。ま、そのほうが気が楽だけれど」
「話していないって……?」
こんな時になって、ハルが目線を逸らした。コーヒーを飲むためなのか、黙ってしまう。
飲み干したマグカップを置いたハルが、椅子から立ち上がりながら言った。
「フリーターだと思ってくれていいよ。伯父の会社手伝い、それから、親父の船も引き継いで漁もやってる。センセが来た日に食べてもらった刺身、あれ俺が釣った魚だから。漁協もアルバイト程度、そういう働き方。男の家事手伝いな」
『ご馳走様』。美湖がなにかを聞こうとするのを避けるようにして、ハルはコーヒーを飲み終えるとさっと出て行こうとする。でもドア前で一度立ち止まった。
「晴紀って名だから、ハルて呼ばれてる。ハル君じゃない」
そういって、出て行ってしまった。
彼が出て行った後も美湖は首を捻っていた。なんだかハルという男がぼんやりしていて掴み所がないから。
「男の家事手伝い? フリーター? え、船を持っていて漁もしているの!?」
しかし、不動産を持っている島民もいると吾妻から聞いていたから、その一家なのかもしれない。
彼は向かいに住んでいるのに、時々しか姿を見ない。見た時はいつもあのラフな格好で軽トラに乗ってでかけるところ。母親と暮らしているらしいが姿を見せたことはない。
それでも診療所の向かいは、道路より高く上げられている敷地に広い庭があり、歴史がありそうな古民家の造りで大きな家だった。このあたりでいちばん大きい家かもしれない。
つまり。お坊っちゃん? 見えないけれど、お坊っちゃんなのかもしれない?
そういえば、スーツ姿は年下の男でも品があり男らしく堂々としていた。……いや、雨合羽で梯子に登って作業する姿も……、テキパキしていた。
でも――。
「なにが女医先生でも道に迷うんだ、よ」
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