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2.島男と女医
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緑の木々の峠道を降りて、静かな集落の道を抜け、また海沿いを走る。
西側の港だと教えてもらってすぐのところで、吾妻の車が停車した。
「ここだ」
港の坂道を少し上がったところに、屋根が古びた二階建ての一軒家。
吾妻が車を降りたので、美湖も降りる。彼がトランクから荷物を出して運んでくれる。
「外は外壁を補修した程度で古く見えるけれどな、中は新品だよ」
向かっているのはよくある家の玄関ドアではなく、ガラスの引き戸になっている。そして横には『診療所』の看板が掛けられていた。
つまりここが出入り口ということらしい。
「自宅用の玄関も裏口にあるからな」
鍵を開けて入っていく吾妻の後をついていく。入った途端、新しい木の匂いに包まれる。
診療所の待合室に続くその床は、まっさらな木材で張り替えられたものだった。
とても明るく清潔感もあり、診療所の雰囲気は最新のものだった。
「すごい、ほんとうに中はいまふうで新しいですね」
「だろ。俺がさ、いまの医院はこんなんだってうるさく言ったんだよ。ついでに、少し無理してもらって、それなりに対応できる機材も揃えておいた」
待合室、受付窓があるそこも立て替えたばかりの綺麗な窓口だった。そこに吾妻が美湖のスーツケースを置くと『説明するからおいで』と診察室のドアを開けた。
そこも綺麗な診察室だった。棚も器具もなにもかも新品。そして木の匂い。新しいデスクにパソコンまで備え付けられていた。
「俺がいる港の中央病院とオンラインで通じている。カルテも電子にしてある。いちおう、オンラインレセプトも入っているからな。それから、レントゲンと胃カメラ、エコー、個人医院程度で出来るものは揃えておいた」
まったくなくて困る離島医療を想像していたがそうでもなかった。
「ですが、オペが必要な急患が出た場合はどうしたらいいのですか」
「まず、応急処置な。それから俺がいる中央に連絡。こっちから救急で迎えに行く」
「先生の病院でなんとかなる体勢なのですね」
「いや、俺のところも限界があるな。その時はドクターヘリか市街港に待機している救急艇を呼ぶ」
「救急艇? 消防の船でってことですか。ドクターヘリならともかく、フェリーで一時間もかかるぐらい離れていますよね」
「救急艇はフェリーより速い。それでも往復するから時間はかかる。だから、間に合わなければアウトだ」
限界があると聞いて、やはり離島医療に携わることになった医師として美湖は改めて気が引き締まる思い……。
「ま、そんな気構えるなよ。島で暮らしている者はそういう覚悟もしている。それからな、このあたりの海域。海運業で財を成した島民がけっこういるらしい。不動産とか持ってるらしいな。村上水軍のDNA、やっぱ持ってんじゃね? なんて思うことよくあるわ」
「そ、そうなんですか……?」
歴史ある海域、昔ながらの島民、民族と聞こえてしまい、長く紡いできた血があるのだろうかと美湖は島の重みを改めて感じてしまう。
「そ、島と海、その『歴史』そのものが彼らのプライドで財産。いざとなるといろいろ出してくれるってこと。だから今回の診療所開設にあたっては、島全体のあちこちの組織や有力者がいろいろ協力してくれたよ。ここのリフォームに、機材もな。だからさ、島のこっち側のこと、期待されているから頑張れよ」
「はい、承知いたしました」
説明が終わったのか吾妻がにっこりとした。美湖もこれから毎日使うデスクの上にあるものを確認する。
その真後ろに吾妻が立っていることに気がついて、美湖はどきりと振り返った。しかし既に遅し、デスクに長い両腕をついた彼に、美湖は囲われていた。
「先生、ふざけないでください」
なのに彼が美湖の黒髪、耳元をくんくんとかいでくる。もっと若い頃にこうしてからかわれて、ちゅっと耳たぶにキスをされたこともあった。
「ひさしぶりだなあ。おまえの匂い、大人になったなあ。その男、よく手放したな」
意味深な眼差し、ニヤリと意地悪い笑みを口元に刻み、吾妻は美湖を囲ったまま引こうとしない。
しかし美湖もよく知っている先輩だから、恐れずに彼を睨み返した。
「もう、先生と毎日一緒だった研修医のころと違いますから」
「研修医の時のおまえもウブでかわいかったなあ」
この先生だけだった。美湖のことを『かわいい』と言ってくれるのは。しかしそれも本当の意味で美湖を『女としてみていないから』だった。ちなみにセクハラと思ったのは最初だけ。彼の腕と判断力、仕事の時のシビアさと情の深さ、何度も助けてもらって気持ちまでさりげないケアをしてくれていると気がついてから、これは先生なりの励ましと縛られた心のロックを外す悪戯なんだと思えるようになったから。それ以上のいやらしいことは決して要求してこない。ほんとうに、子供みたいだった女の子への『からかい』。それが久しぶりに、三十歳を越えた今も吾妻はかわらずに、美湖を子供扱いしている。
「別れた男のことなんて気にするな。忘れな。あの教授の世間知らずな清楚なお嬢様より、おまえのほうが男は好きだよ。その男、すぐに飽きておまえを思い出す」
それでも美湖はきっぱりと応える。
「心底、どうでもいいんです。もう」
「ほうら、そういうクールなところ! 俺は気に入ってるよ」
男っぽい声と眼差し、そのまま吾妻が美湖の耳元に囁く。
「ここはな、広瀬教授がかくまってくれる『シェルター』だ。つまんない学閥でつぶされないように、大事に囲ってくれる場所。そのうちに帰してくれるよ。俺もその約束だ。その間、この綺麗な島で羽でも伸ばして――」
耳元で囁かれたことは、教授からも聞かされていない『密約』のようだった。広瀬教授が吾妻の口から伝えておけと言っていたのだろうか? だから美湖も黙って聞いていた。
だがそこで閉めていたはずの診察室のドアが勢いよく開いた。
「先生! 相良先生? いらっしゃいませ!」
若い女性が飛び込んできた。美湖がびっくりしているのに、吾妻は美湖を囲ったままにっこりと振り返る。
だがその女性も、男と女がくっつきそうなほど近距離で向きあっている姿にギョッとした顔になり立ち止まった。
「えっと、あの、その、すみません……、その」
やっと吾妻もはっと我に返った顔で、美湖から離れた。
「あー、こいつ。研修医だった時に俺が指導医だって知っているだろ、挨拶挨拶」
「ああ……、そうでしたけど……。またてっきり……」
彼女が口ごもる。
「てっきり? 俺がすぐ女に手を出すって。違わないけど」
悪びれない吾妻の様子に、その彼女がちょっと怒った顔をした。
「早苗さんのこと、やっぱりその程度だったんですか!」
飛び込んできた女の子がぷりぷりと怒るし、先生が手が早いことが知れているし、しかも既に『早苗さん』とかいう『島の恋人』もいるらしく、美湖は呆れてしまう。
だが吾妻はなんと言われようとも、いままでもそうであったようににっこりと余裕で飄々としている。そのまま、彼女のそばに寄り添った。
「彼女は仙波愛美ちゃん。この診療所のナースをしてもらうことになったんだ。それまで港の病院で一緒だった。彼女、そこの斜向かいに住んでいるんだ。相良とも歳も近いし、なにかあってもすぐに駆けつける距離ということでこっちに異動してもらったんだ」
それでも彼女はぶすっとして美湖と目を合わせてくれない。最悪の出会いだと美湖は溜め息をつきたくなった。
「相良美湖です。島のことがなにもわからないので、よろしくお願いしますね」
彼女がますます下を向いてしまう。これから息を合わせて診療していかねばならないのに、これは最初から難関かと美湖は噛みしめる。
「マナ、待ちに待っていた先生だろ。ちゃんと挨拶しろ」
いつのまにか、彼女の後ろにもうひとりの男性がいる。
「ほら」
あからさまに拗ねた顔をしている愛美の背を、長身の彼が押す。
「相良先生、……よろしくお願いいたします」
美湖も再度『こちらこそ、お願いします』と微笑んだが、彼女は目を合わせてくれなかった。
もう……、吾妻先生が毎度のチャラいからかいをするからと、思わず彼を睨んでしまう。吾妻も『ごめん』と口を動かしたが、おどけた顔で誤魔化そうとしているだけ。
しかも、美湖はもう一人。その鋭い視線に射ぬかれていた。
ナースである愛美の後ろに一緒にいるその青年。黒い短髪、浅黒く焼けた肌、ラフに来ているだけのティシャツにさらにラフに穿いているバミューダーパンツという若い男。その男が美湖を睨んでいる。
それだけでもう。美湖も悟った。
若い彼も思ったことだろう。『この島になにしにきたんだよ。ちゃらいことさっそくしてるんじゃねえよ』と……。
地元の島男と負けん気強い女医の視線がかち合う。
こちらとも最悪の初対面だった。
西側の港だと教えてもらってすぐのところで、吾妻の車が停車した。
「ここだ」
港の坂道を少し上がったところに、屋根が古びた二階建ての一軒家。
吾妻が車を降りたので、美湖も降りる。彼がトランクから荷物を出して運んでくれる。
「外は外壁を補修した程度で古く見えるけれどな、中は新品だよ」
向かっているのはよくある家の玄関ドアではなく、ガラスの引き戸になっている。そして横には『診療所』の看板が掛けられていた。
つまりここが出入り口ということらしい。
「自宅用の玄関も裏口にあるからな」
鍵を開けて入っていく吾妻の後をついていく。入った途端、新しい木の匂いに包まれる。
診療所の待合室に続くその床は、まっさらな木材で張り替えられたものだった。
とても明るく清潔感もあり、診療所の雰囲気は最新のものだった。
「すごい、ほんとうに中はいまふうで新しいですね」
「だろ。俺がさ、いまの医院はこんなんだってうるさく言ったんだよ。ついでに、少し無理してもらって、それなりに対応できる機材も揃えておいた」
待合室、受付窓があるそこも立て替えたばかりの綺麗な窓口だった。そこに吾妻が美湖のスーツケースを置くと『説明するからおいで』と診察室のドアを開けた。
そこも綺麗な診察室だった。棚も器具もなにもかも新品。そして木の匂い。新しいデスクにパソコンまで備え付けられていた。
「俺がいる港の中央病院とオンラインで通じている。カルテも電子にしてある。いちおう、オンラインレセプトも入っているからな。それから、レントゲンと胃カメラ、エコー、個人医院程度で出来るものは揃えておいた」
まったくなくて困る離島医療を想像していたがそうでもなかった。
「ですが、オペが必要な急患が出た場合はどうしたらいいのですか」
「まず、応急処置な。それから俺がいる中央に連絡。こっちから救急で迎えに行く」
「先生の病院でなんとかなる体勢なのですね」
「いや、俺のところも限界があるな。その時はドクターヘリか市街港に待機している救急艇を呼ぶ」
「救急艇? 消防の船でってことですか。ドクターヘリならともかく、フェリーで一時間もかかるぐらい離れていますよね」
「救急艇はフェリーより速い。それでも往復するから時間はかかる。だから、間に合わなければアウトだ」
限界があると聞いて、やはり離島医療に携わることになった医師として美湖は改めて気が引き締まる思い……。
「ま、そんな気構えるなよ。島で暮らしている者はそういう覚悟もしている。それからな、このあたりの海域。海運業で財を成した島民がけっこういるらしい。不動産とか持ってるらしいな。村上水軍のDNA、やっぱ持ってんじゃね? なんて思うことよくあるわ」
「そ、そうなんですか……?」
歴史ある海域、昔ながらの島民、民族と聞こえてしまい、長く紡いできた血があるのだろうかと美湖は島の重みを改めて感じてしまう。
「そ、島と海、その『歴史』そのものが彼らのプライドで財産。いざとなるといろいろ出してくれるってこと。だから今回の診療所開設にあたっては、島全体のあちこちの組織や有力者がいろいろ協力してくれたよ。ここのリフォームに、機材もな。だからさ、島のこっち側のこと、期待されているから頑張れよ」
「はい、承知いたしました」
説明が終わったのか吾妻がにっこりとした。美湖もこれから毎日使うデスクの上にあるものを確認する。
その真後ろに吾妻が立っていることに気がついて、美湖はどきりと振り返った。しかし既に遅し、デスクに長い両腕をついた彼に、美湖は囲われていた。
「先生、ふざけないでください」
なのに彼が美湖の黒髪、耳元をくんくんとかいでくる。もっと若い頃にこうしてからかわれて、ちゅっと耳たぶにキスをされたこともあった。
「ひさしぶりだなあ。おまえの匂い、大人になったなあ。その男、よく手放したな」
意味深な眼差し、ニヤリと意地悪い笑みを口元に刻み、吾妻は美湖を囲ったまま引こうとしない。
しかし美湖もよく知っている先輩だから、恐れずに彼を睨み返した。
「もう、先生と毎日一緒だった研修医のころと違いますから」
「研修医の時のおまえもウブでかわいかったなあ」
この先生だけだった。美湖のことを『かわいい』と言ってくれるのは。しかしそれも本当の意味で美湖を『女としてみていないから』だった。ちなみにセクハラと思ったのは最初だけ。彼の腕と判断力、仕事の時のシビアさと情の深さ、何度も助けてもらって気持ちまでさりげないケアをしてくれていると気がついてから、これは先生なりの励ましと縛られた心のロックを外す悪戯なんだと思えるようになったから。それ以上のいやらしいことは決して要求してこない。ほんとうに、子供みたいだった女の子への『からかい』。それが久しぶりに、三十歳を越えた今も吾妻はかわらずに、美湖を子供扱いしている。
「別れた男のことなんて気にするな。忘れな。あの教授の世間知らずな清楚なお嬢様より、おまえのほうが男は好きだよ。その男、すぐに飽きておまえを思い出す」
それでも美湖はきっぱりと応える。
「心底、どうでもいいんです。もう」
「ほうら、そういうクールなところ! 俺は気に入ってるよ」
男っぽい声と眼差し、そのまま吾妻が美湖の耳元に囁く。
「ここはな、広瀬教授がかくまってくれる『シェルター』だ。つまんない学閥でつぶされないように、大事に囲ってくれる場所。そのうちに帰してくれるよ。俺もその約束だ。その間、この綺麗な島で羽でも伸ばして――」
耳元で囁かれたことは、教授からも聞かされていない『密約』のようだった。広瀬教授が吾妻の口から伝えておけと言っていたのだろうか? だから美湖も黙って聞いていた。
だがそこで閉めていたはずの診察室のドアが勢いよく開いた。
「先生! 相良先生? いらっしゃいませ!」
若い女性が飛び込んできた。美湖がびっくりしているのに、吾妻は美湖を囲ったままにっこりと振り返る。
だがその女性も、男と女がくっつきそうなほど近距離で向きあっている姿にギョッとした顔になり立ち止まった。
「えっと、あの、その、すみません……、その」
やっと吾妻もはっと我に返った顔で、美湖から離れた。
「あー、こいつ。研修医だった時に俺が指導医だって知っているだろ、挨拶挨拶」
「ああ……、そうでしたけど……。またてっきり……」
彼女が口ごもる。
「てっきり? 俺がすぐ女に手を出すって。違わないけど」
悪びれない吾妻の様子に、その彼女がちょっと怒った顔をした。
「早苗さんのこと、やっぱりその程度だったんですか!」
飛び込んできた女の子がぷりぷりと怒るし、先生が手が早いことが知れているし、しかも既に『早苗さん』とかいう『島の恋人』もいるらしく、美湖は呆れてしまう。
だが吾妻はなんと言われようとも、いままでもそうであったようににっこりと余裕で飄々としている。そのまま、彼女のそばに寄り添った。
「彼女は仙波愛美ちゃん。この診療所のナースをしてもらうことになったんだ。それまで港の病院で一緒だった。彼女、そこの斜向かいに住んでいるんだ。相良とも歳も近いし、なにかあってもすぐに駆けつける距離ということでこっちに異動してもらったんだ」
それでも彼女はぶすっとして美湖と目を合わせてくれない。最悪の出会いだと美湖は溜め息をつきたくなった。
「相良美湖です。島のことがなにもわからないので、よろしくお願いしますね」
彼女がますます下を向いてしまう。これから息を合わせて診療していかねばならないのに、これは最初から難関かと美湖は噛みしめる。
「マナ、待ちに待っていた先生だろ。ちゃんと挨拶しろ」
いつのまにか、彼女の後ろにもうひとりの男性がいる。
「ほら」
あからさまに拗ねた顔をしている愛美の背を、長身の彼が押す。
「相良先生、……よろしくお願いいたします」
美湖も再度『こちらこそ、お願いします』と微笑んだが、彼女は目を合わせてくれなかった。
もう……、吾妻先生が毎度のチャラいからかいをするからと、思わず彼を睨んでしまう。吾妻も『ごめん』と口を動かしたが、おどけた顔で誤魔化そうとしているだけ。
しかも、美湖はもう一人。その鋭い視線に射ぬかれていた。
ナースである愛美の後ろに一緒にいるその青年。黒い短髪、浅黒く焼けた肌、ラフに来ているだけのティシャツにさらにラフに穿いているバミューダーパンツという若い男。その男が美湖を睨んでいる。
それだけでもう。美湖も悟った。
若い彼も思ったことだろう。『この島になにしにきたんだよ。ちゃらいことさっそくしてるんじゃねえよ』と……。
地元の島男と負けん気強い女医の視線がかち合う。
こちらとも最悪の初対面だった。
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